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母を亡くした少女の頭の中

佐世保で女子高生が同級生を殺害したことが連日の話題だ。容疑者は罪深い。しかし、彼女の家庭環境を思うとあまり他人事ではないように思えた。なぜなら私も母を癌で亡くしたからだ。

ただ、容疑者の彼女と自分の人生を照らし合わせるのはナンセンスだし、擁護する気もない。けれども、もし仮にあなたが父親になった時、少しだけ考えて欲しい。「母が他界したら娘はどう思うのか」そのひとつのケース。

じわりじわりと「それ」は来る

最初に母が体調を崩したのは、私が小学生になる頃だった。腎臓に異常があるとのことで1ヶ月程度入院したのだった。

この時から私は母の死を意識するようになった。「あと何回ご飯が食べられるのだろう? 何回会えるんだろう? もしかするとこれが最期かも」と。だからといって、その心境は決して母に伝えてはならなかった。余計な心配をさせてはいけないと幼いながらに心に誓ったことを記憶している。

母の病名がどんどん変わり、最後に「癌」となった。少しずつ、身体の自由がきかなくなり、わが家には車いすや医療用ベッドが来た。私はごくたまにそこで母の匂いをかぎながら寝るのが好きだった。幸せだった。

自宅で闘病生活を送っていたため、毎日看護師がやってきては治療に明け暮れた。そんな様子を近所の人は察知し、「お母さんどうしたの?」と質問してきた。私は悪びれもせず「病気になって手術して、今は家で看病してるんです」と答える。すると彼女は不憫に思ったのか、わが家に手料理を持ってきたのだ。単純に嬉しかったが、母はベッドの上で激怒した。

当時は「どうして怒られなくてはいけないのだろう」と思ったが、今はなんとなくわかる。もちろん彼女は「親切心」で料理を振る舞ってくれたのだろうが。

病で他界するのは、じわりじわりと蝕んでいくことなのだ。本人も、そしてその家族も。

慰めてくれるな

約1年半の闘病生活は、ゆっくりと終わりを迎えた。春の暖かい日、母は静かに眠りについた。8歳の私は「起きるかな」と淡い期待を抱きもしたが、瞼は開かなかった。

葬儀に来た多くの人が「親切心」から私を慰めてくれた。「お母さんは心の中で生き続ける」と耳にタコができるくらい聞かされた。みんなそう言う。ありがたいとは思ったが、同時に「何を言ってるんだろう、この人たちは。心の中で母が生きていたとして、もう一緒に寝ることはできないし頭を撫でてもらうこともない。これが現実だ」と強く思った。

しばらくして他愛もないことで、クラスメイトの男子と喧嘩した。その時に彼が教壇に立ってこう言い放った。「母さんの死んだバカ女

教室は凍りつき、担任が彼を激しく叱責した。私としては「なんだそんなことか」という程度。けれども、クラスメイトたちの気まずそうな視線を感じたとき、自分が憐れみの対象として認識されていることを実感した。私を形容する言葉は「母さんの死んだ」だったのだ。笑うしかなかった。泣けるわけがない。

小学校では毎年母の日に「お母さんありがとう」と書かれたカーネーションを模したバッジが配布される。担任教師は一人一人に配って歩く。ひとつずつ自分の席に近づいてくるのが怖かった。どう対応されるのだろうか? 私には渡す相手がいない。彼はそれを知ってるのだろうか? 惨めな気持ちになるのだろうか? 不安でたまらなかった。順番が来た。心拍数が上がる――。

すると担任は、申し訳なさそうな顔をして「ごめんね」と言いながらそれを渡した。この瞬間、とてつもない屈辱感を覚えた。彼が私のことを「考えて」いることはもちろん理解していて、それでもなおこの人は同情してるんだと思うと反吐がでそうになった。目頭に、言い知れないほどの熱を感じたが、絶対に涙は流さないと耐えた。小学四年生のときである。

再婚の恐怖

一方、違う恐怖が私を襲った。「父が再婚したらどうしよう」と。

私の中で再婚への拒絶感が明確に芽生えていた。「父だって人間だ。彼の人生の選択に娘の私が干渉する権利もないだろう、寂しいだろう」と言い聞かせてみても、やはり嫌だった。というか怖かった

「再婚の恐怖」は、今でこそもうない。でも、「他界した母」をおいて「他の女性と再婚する」事実は、幼い娘にとってかなりのストレスを与える。「母以外の女性と人生を歩む」のは、すなはち「子供である私の人生の否定」になるからだ。幼少期の子どもとして「両親は未来永劫一緒にいて私を全面的に肯定して待っていてくれる存在だ」と思いたかった。

特に死別の場合、愛は終わってないと認識する。だからこそよりいっそう再婚はありえない。「違う女性と家庭を築くなら、私はいらないのでは?」という極論も頭によぎる。だって可能性はゼロじゃない。新しい子供が生まれたら私はいらない存在になるかもしれない。父から不要だと言われたとき、私を「保護してくれる」人はいなくなる

繰りかえすが、父も1人の男だ。娘だってわかっている。しかし無理なのだ。もし仮に母が他界して間もなく再婚したならば父を恨んだかもしれない。

ネジが外れた

実は、母の他界から数年後、攻撃的になった時期があった。教師に牙をむいたのだ。教卓に彫刻刀で文字を掘ったり、授業を妨害し、塾講師に罵詈雑言を浴びせたこともあった。どうすれば相手が傷つくか?ということを考えながら丁寧に言葉を選んだ。時に全否定し、時に前任者と比較し、時に笑いながら残酷なことを言った。最低だ。

私のやり方は、自分の立場を揺るがすことなく嫌な対象物を排除する、というものだった。クラスの中で特別阻害されることなどなく、明るい利発な怖い子という位置づけだったと思う。物語で出てくる、嫌な奴ってところだろうか。確実に言えるのは、私は「攻撃する側」だったことだ。過ちを犯していた。それも事実だ。

もちろん、私の罪は母の死が原因だと言うつもりはない。ただ、事実としてこのような時期があった。それが孤独や絶望から来たものなのかは今でも不明だし、一概に言えるものではないだろう。しかし、だからこそ佐世保の事件が他人事とは思えない。

娘として

私は、「優等生でいなければいけなかった」し「明るくいなければいけなかった」し「強くなければいけなかった」。

そうでなければ「かわいそう」と周りに思われてしまうから。これ以上屈辱的な人生はない。他者からの慰めはありがたいことであり、ないがしろにしてはいけない。そんなことはわかっているができなかった。ただ、私には救いが充分にあった。父は再婚しなかったし境遇を共有できる姉もいた。そして多くの人にフラットに接してもらった。だから今日を迎えることができているのだと思う。

父親も人間だし男だ。彼の人生は彼が選ぶべき、という論理もわかる。娘だって許容したい。けれどもそれは、当時の私には不可能だったと思う。もし、他の女性と人生を歩むのだとしたら、少なくとも娘が大学に入るくらいまで待っておいて欲しい。これはワガママでしかない。でも、子どもには親の保護が必要なのだ。

Top image Kristina Alexanderson / Flickr

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