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「本当の親じゃない」の後にくるもの

「かっちゃんは、どうして幼稚園からいなくなっちゃったの?」
「離婚することになったみたい。大変ね。夜逃げみたいだったらしいよ」
「りこん? よにげ?」

遠い昔の記憶が頭に残っている。幼稚園生の頃、転園する同級生について母親とした会話だ。

かっちゃんの会話から3年もしないうちに母は他界した。9歳になる年。学校で分数や小数を習う頃だろうか。子どもには既に「常識」が染み付いており、それに外れたらどんな眼差しが向けられるのかを知っている。

再婚した父親が子どもを殺めてしまったというニュースが流れてきた。その引き金になったのは子どもの口から出た「本当の親じゃないくせに」の言葉だったという。容疑者の発言自体も真実かはわからないし、家庭にはそれぞれ事情がある。ただ、このニュースを見た時、懐かしい記憶が鮮やかに蘇った。

私の話はあくまで父子家庭で育った子どもの1ケースにすぎないが、幼少期のメンタルについて記しておこうと思う。

親がいなくなった時、子供が失うもの

学校という世界。年齢、住んでいる場所、教育レベルがなんとなく似ている。ここでは「違い」がくっきりとしたコントラストを持つ。

話し方が少し違うだけ、髪色が違うだけ、国籍が違うだけ、「両親」が揃っていないだけ。ほんの少しの違いが目につく。きっと、だからみんなが持っているものが欲しくなる。それを持っていないと仲間はずれな気がして怖かった。

母を失ったその日、私の毎日からは「大丈夫」が消えた。

社会で言われる「大丈夫」は、実績や能力、評価に基づくものだ。毎日から消えたものは、そうではない。もっと根拠のないものだった。どんな雨風が吹いても足元を支えてくれるような、お風呂上がりに私の髪の毛をドライヤーで乾かしてくれるような「大丈夫」。

七夕の短冊にも、毎週通う教会でも「お母さんの病気が治りますように」と祈ったけれど、その願いは叶わなかった。この世に大丈夫なものはない。よくわかった。

正直、葬儀後に初めて通学する日は不安だった。連絡網で母の死が各家庭に伝わり、かつて自分が母としたような会話が交わされている様がありありと浮かんだ。みんなの態度が変わったら、どんな顔をすればいいのだろう。同級生が羨ましくて泣いてしまったらどうしよう。

恐る恐る足を踏み入れた教室はこれまでと何一つ変わらなかった。昨日見たテレビの話をしたり、うるさい男子に女子が腹を立てたり。何の変哲もない日常に唖然としつつ、クラスに溶け込んでいったのを覚えている。これまでと同じようにテストの点数に一喜一憂したし、ゲンガーとフーディンが欲しくて通信ケーブルを父にねだった。「活発でよく笑う。でも気がちょっと強い」。卒業するまで通知表によく書かれた。

でも、たまにバカバカしくなる瞬間があった。

母の日のカーネーションが配られる時に担任からの視線、「うち母親いないんだ」と言った時に返される「ごめんね」の言葉、近所の人からかけられる「大変なのに偉いね」。私はいつも口角をあげて「大丈夫だよー」と相槌を打つが、その度に頭蓋骨にピシッとひびが入る感覚になった。

この感覚について、哲学者の中島義道が『差別感情の哲学』で記している。

まなざしを向ける者はまなざしを向けられる者に対して、直接侮蔑的あるいは嘲笑的まなざしを向けるわけではない。ただ、穏やかに優しく見ていることもあろう。だが、そのまなざしの中にはやはり自己肯定の要素があるのだ。「この眼前の人でなくて自分はよかった」という隠された言葉を発しているのだ。この間接的言語をまなざしを受ける者は正確にキャッチしてしまう。

きっと気遣い。よかれと思って出た言葉だ。でも、憐れみの眼差しを誰かに向ける時、「自分が持っているものをこの人は持っていない」と無意識下で比較している。本当は見下しているのに、「常識」という概念で自己欺瞞をすっぽり隠してしまう。

かっちゃんに同情心を抱いた私にはそれがわかった。かっちゃんだけではない。テレビに出ている不幸そうな人を見てはやり場のない気持ちになったし、時に彼らの努力を美しいと思った。

厄介な常識

何かうまくいかないことが起きると、どうしようもなく環境のせいにしたくなった。

ほとんどの失敗は自分の至らなさが原因なのはわかっている。けれども、みんながゼロから積み上げていける人生なのに対し、自分はマイナスからスタートしなければならない気がして悔しかった。

行き場のない不安と怒りとが混ざり合って、父に無神経な言葉を投げつけたこともある。「こんな家に生まれたくなかった」とか「お母さんが死んだのはお父さんのせい」とか。

きっと私が一番、常識と比較して自分を憐れんでいたのだと思う。被害妄想にも似ているが、もっと刺々しい渦巻。疎外感と屈辱感が混ざった感情だ。

みんなが羨ましかった。

では、義母を得たら喪失感は満たされるのか? 答えは否だろう。父が再婚相手を連れてきたら、私は間違いなく拒絶した。

「本当の親じゃない」の背後には「だから愛してくれない」がある。

自分の母はただ1人。その人以上に自分を愛してくれるわけがない。新しい子どもが生まれたらきっと自分はいらなくなる。この必死で極端な思考は「血の繋がりがあるからこそ親は子どもを愛する」という常識によって生まれる。

常識。ニュースを見て思い出した刺々しい感覚は、この2文字によって生まれたように思う。

誰かを下に見て、下に見られて、更には自分を虐げる。

常識はひどく曖昧で主観的な物差しでしかない。にも関わらず、ルールのような拘束力を持つ。しかも、一度その矛盾が指摘されると、砂のように飛んでいってしまう。そういうおぼろげなもの。秩序や倫理とは違う。

血のつながりがあるからこそ親は子どもを愛する。いつの間にか自分の中に巣食っていた常識はどこまで真実味があるのだろう?

国内で起こる殺人事件における加害者の過半数──最も多い関係性──が親類だ。この背景には社会保障の乏しさが読み取れるが、数字だけ見ると血縁は必ずしも絶対的な肯定を保証しないことがわかる。そこにどんな理由があったとしても、命を奪う以上の否定はこの世にないだろう。

逆説的に言うと、血が繋がっていなくても、たとえ擬似家族だと言われようとも、強く結ばれることはできる。理想論でしかないが、可能性はゼロではない。そもそも家族関係が悪くとも、幸福な人は山ほどいる。

「本当の父親じゃないくせに」

私は絶対にそう言ってしまう子供だった。成長した今、その言葉で深く傷ついてしまう大人でもある。

本当の父親。持たざる者。可哀想な人。

全部、常識が作った幻想のようだ。大人になった今なら、親は完璧な人間ではないことがなわかるし、苦労をしていることもわかる。でも子どもの時は、そんなことは想像できなかった。大人は完成された人間。傷つけても大丈夫でいてくれる存在だと思っていた。

常識は知らない間に積もっていく。ネットで炎上を見ている時、「ありえないよねー」と誰かのうわさ話をする時、親との会話、コメンテーターの演説を聞いている時。

常識的に考えて…という歪んだフレームは負の感情を掻き立てる。その時、「この感情は幻想なのかもしれない」と冷静になれたなら、誰かを傷つけてしまうことは減るのではないだろうか。

積もっていく常識に対して、私は言葉で抗うことしかできない。「確かに血は繋がっていないけれど、あなたのことを大切に思ってる」「大人は万能ではないから、傷つく」。そして「根拠なんてないけれど、大丈夫」とか。

口から出まかせに見えるかもしれない。でも、常識を払拭して、目の前の人をしっかり見つめたいしゃないか。別にその人のことを許したり、肯定できなくてもいい。ちょっと想像できるようになれば充分だ。

幸せか。不幸か。それは自分で認識するものであって、常識で決められるものではないのだから。

Photo credit: imokori via Flickr / Creative Commons
Edit:Haruka Tsuboi

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