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ワセジョという幻影

きまじめで融通がきかず、きさくでけなげできかん気で、なまじ男子よりもあたま回転がはやいものだからバカを愛でることを知らず、かといって個性と特性と天性をくべつできるほどの世知もなく、理想のなにものかになれるものなど学年にひとりいるかいないかなのに、このわたしこそがひとかどの人物にならなければいけないし、なれるはずだという幻想から逃れられず、映画と演劇と文学に造詣があるふりをしつづけ、過食か拒食におちいりがちなここにいるしんどい娘たちは、ワセジョと総称される。

これは清水博子さんの小説、「Vanity」の一節だ。「ワセジョ」とは、いわゆる早稲田大学に通う、または通っていた女学生たちを指し、彼女たちはこのようなメンタリティーを持つとされる。たかが4年間。それもサークルやアルバイトなどバラバラな過ごし方をしている大学で、人のメンタリティは似通っていくのだろうか? 

「何者かになりたい」受け皿

早稲田大学は卒業生たちの功績が素晴らしく、そこのメンバーになりさえすれば、自分も「何者」かになれるのではないか? そんな幻想を抱く若者は多く、入学希望者は多い。学部によって異なるが、合格できるのは出願者15人に1人くらいの割合と言われることもある。暴力的な言い方をすると14人を蹴落とした結果が早稲田大学の学生なのだ。

大学で人の能力は査定できないし、上には上がいる。しかし、受験という1つのレースにおいて、ある一定の結果を収めた自意識が芽生えても不思議ではない。

加えて、卒業生である。江戸川乱歩、村上春樹、柳井正、田原総一郎、吉永小百合、田中真紀子、綿矢りさ…あげればきりがない。名前からもわかるように、とにかく勢いのあるOBOGが多い。偏差値だけでは計れない「何か」がそこにはあるように見えるのだ。

女学生の場合は「何か」に対する想いが特に強い。本来、家庭に入って母となる上で必要なのは、法律の知識や巧みな文章表現などではない。女性らしさだ。

ここに劣等感を抱く女性は自然と自立志向が強くなる。自分は「選ばれない」のだから、男性以上に自立しなくてはいけない。こういった強迫観念は、彼女たちを扇動し、マッチョ性の強化を促す。男性優位に作られた社会で生き抜くためには、知性と強さが必要なのだ。

しかし彼女たちはすぐに気づく。早稲田に入ったところで「何者かになれない」ということを。この学舎は1学年に1万人の学生を持つマンモス校。いくら卒業生に著名人が多くとも、それは単に母数が多いだけの話だ。脚光を浴びる者はもちろん存在するが、学年に1人〜2人いるかいないか程度。

そんなことに気付きながらも、それを認める柔軟さもない女学生たちは「ワセジョ」というキャラクターにすがるのだ。「何者かになりたい」という切実な想いは、このカテゴライズによって昇華される

ワセジョの歴史は古く、1939年に4人の学生が入学したことに始まる。早稲田大学ができて59年目のことだった。それ以降、男社会の中で戦ってきた女学生たちは、さまざまな物語の中で語られるようになる。「負けん気が強く、女性らしさに欠ける」というような文脈で。「何者かになりたい」女学生たちは、数多のワセジョイメージに自らを寄り添わせていく。

早稲田の男子という油

そして、早稲田の男子学生である。彼らが彼女たちにワセジョへの意識を助長せしめる。インカレサークルにおいて「ワセジョお断り」というような文言のもと入会を断られる…という話はよく聞くが、そんなことはない。早稲田の男子学生は、むしろワセジョに対して好意的だ。仲間として、そして時に女として。実際、早稲田生同士で交際する男女はとても多い。

なぜかというと、彼らも「何者でもない」からだ。何者かになりたくて仕方がない。東大に行くほど賢くなく、美大に行くほどクリエティブではない。起業するほど独立心もなく、ほとんどがサラリーマンになる。そんな中途半端な自分に対する劣等感が、彼らに酒を飲ませ、奇行に走らせる。またある時は、映画や文学における批評を交えることで、知性という武器を手に入れたと思い込ませる。

彼彼女たちは、頭の回転速度も同じくらいなので、話の理解度も早く、議論に花が咲くことが多い。これがまたよくない。独自の解釈を交えた議論を重ねることで、何者かになったような気がしてしまうのだ。質実剛健を重んじる雰囲気はこのように生まれるのだろう。早稲田の男子学生が、アイデンティティを築くためにワセジョは最適な相棒なのだ。

しかし、社会に出るとそうはいかない。早稲田の常識は、とても限定的なものだ。

仕事で疲れて、限りある自由な時間。いちいち食ってかかる女は一緒にいると疲れてしまう。男女平等を掲げ、こじれたプライドを振り回す独身女性はめんどくさい。早く終わらせたい会議を紛糾させる女性社員は使いづらい。自立心が強すぎるが故に一人でタスクを抱え込み、破綻するなんて言語道断だ。

高田馬場では「面白いね」と言われた個性は、何の役にも立たないことがわかる。男性の場合は、まだマッチョイズムが推奨されているので、世の中に溶け込むことができるだろう。しかし女性は「扱いづらい」存在になってしまうのだ。

たかが大学の4年間で培われたアイデンティティーなど、人生にとってとるにたらないもの。単純に、ワセジョという虎の威を借ることで、何者かになったと思い込んでいるだけなのだ。この脆弱な威は誰も救わないし、早く脱いだほうがいい。自分の人生は自分で切り開くものだからだ。他人のストーリーに寄せる人生など、自立とは言わない。そんなアイデンティティーは幻影でしかない。

Top image by Tidus Lin / Flickr

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