【新人類】アラサーワナビーが出現した理由
最近、某媒体でアラサー女子恋愛についての記事を読んだ。そこには筆者が体験したストーリーが書かれていたのだが、とても驚いたことがあった。
彼女は24歳だったのだ。
アラサーは主に20代後半〜30代前半のことを指す。まだ20代を謳歌できる年齢の彼女が自らアラサーと公言するのは何故なのか? 一方で、最近ではアラサーを謳歌するかのごとく自称する独身女性が増えてきたように見える。ここに「アラサーはいつの間にかファッション化しているのではないか」と、奇妙な仮説が胸に湧いた。
アラサーとは何者なのか
アラサーは、その名の通り年齢によるカテゴリーなので、いろんな生態を持つはずだ。しかし、なぜか「独身OL」のイメージが強い。
それは、酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」が大きいだろう。「どんなに美人で仕事ができても、30歳代以上・未婚・子なしの3条件が揃った女は負け犬」という、もやを切り裂くような定義は、2004年に流行語となった。
ある文化的種族は、潜在的に存在しながらも定義づけられることで一般化していく。「こういう人いるよね」という名も無き存在が、名前を手にすることで爆発的にイメージを共有される。80年代の「おたく」、90年代の「サブカル」…その1つがゼロ年代に発見された「負け犬」だった。
2000年の大ヒットドラマ「やまとなでしこ」のヒロインはこう言う。
「女が最高値で売れるのは27。私の統計では27歳が売り時のピークなの。それを越えたら値崩れを起こすわ」
彼女の発言に見られるように、結婚適齢期なんてよく言ったものだが、アラサーには「売れ残り感」がある。しかし、一体何に負けているのか?
「勝ち犬は家庭の中で子供という有機物を、負け犬は経済社会の中でお金という無機物を、それぞれ生産している。両者が生産しているものを比較した時に、前者のほうがよりまっとうで価値の高い生産物とされるため、負け犬は『負け』と判断される」と、酒井さんは述ている。
やまとなでしこは、CAだった主人公が結婚して「勝ち犬」になるストーリーだ。その後「負け犬の遠吠え」が2003年に出版され、それに追随するかのように、2006年にファッション雑誌の誌面にある言葉が並ぶ。それこそが「アラサー」である。
アラサーは「残念」だから良いのだ、逆に
では、なぜアラサーがファッション化するのだろうか?
それは、インターネットカルチャーがもたらした「残念」マジックによって、意味変換がなされたからに他ならない。「残念」については、さやわかさんの「二〇一〇年代論」に書かれている。
まず、さやわかさんによると、各ディケードにおける文化は、その数年前に萌芽を見せる。つまり、2010年代の雰囲気を作る基盤はゼロ年代後半に出現している。例えば、YouTubeや各種SNSが生まれたり、電車男でオタク文化が花開いたのも2007年あたりだ。
「残念」という本来ネガティヴな意味合いを持つ言葉が、インターネットをして、ポジティヴな意味に変換された。これが、2010年代カルチャーにおける1つの潮流である。
「負け美女」「残念なイケメン」などがその一例で、「マイナスとプラスの要素を掛け合わせた呼称」が多く生まれた。これらの特徴は、長所と短所が結びついて、どちらかを消すことはなく全体として長所に置き換わる点だという。
「残念さ」が重宝された理由は、ネタ化によるものだろう。ネットが一般化し、コミュニケーションの中心となると、すべてをネタのために消費するようになる。話題の製品を買うのも、新しいスポットに行くのも、人気コンテンツを貪るのも、すべてはネタのため。
こういった動向は、人格に関しても同じだ。私というキャラのネタ化である。だからこそ、自虐ネタ、鉄板ネタといった言葉を一般人が使うのだろう。ネタがある方が円滑にコミュニケーションがとれるのだ。
「残念な感じ」は、ツッコミの余地を与えるため、格好のネタになる。もはや、マジなコミュニケーションなどいらない。ネタにできる方が断然心地よいのだ。
そんな空気感が漂う2010年代。負け犬がインターネットと結びついて変化を遂げた存在、それがアラサーなのだと私は思う。アラサーは、「仕事はできるし経験もある、しかし負け犬だ」というネガポジを、たった一言で表す絶妙な単語なのだ。
当然、そこには市場が生まれる。これまでも、女子高生や女子大生ブームなど、さまざまな年齢区分の流行が生まれてきた。そしてこのディケードにおいて、アラサーが持ち上げられた。
「アラサー女子必見」「アラサーあるある」…都市にはたくさんのコピーが踊り、また同時にそんな彼女たちを主人公にした物語が生まれる。受け手は、それに共感を覚えることで、「時代を生きてる感覚」を獲得する。時に自分と主人公を置き換え、勝手に傷ついたりするものだ。
アラサーが喧伝されるほどに、プライドをも担保してくれるようになることもあるだろう。「私は仕事はできる。見た目も悪くない。女としてピークは過ぎたかも知れないけれど、まだまだ売り物。むしろ今の生活を謳歌してるのだ」と。
そして、アラサーに見合う生活を送る。女子会、不倫、年下の男の子とデート。アイドルに走ったり、ちょっとハイソサエティな趣味を持ったり。お金がある彼女たちは縦横無尽に消費する。いくらの市場規模になるんだろうか。
こうやって、文化民族としての「アラサー」は、消費社会の主人公としてブランド化される。だからこそ、下の世代が自称するようになるのではないだろうか。
大人と女子の狭間で
かつて、30歳成人論という言説があった。これは、20歳はまだまだ子供。さまざまなことを経験し、ようやく自分の人生について考え始められるのが30歳前後ではないか?というものである。
社会に出て10年が経とうとしているものの、「大人になるべきか」と揺れ動く、そんなモラトリアム期間が30前後なのだ。数十年前は三十路という言葉が重く、大人として大台に乗った感覚が強かったそうだ。しかし、今は「まだ女子だもんね」と、それを許してくれる。
それは女性の人生設計に幅が広がった産物だし、喜ぶことなのだろう。自由に生きる、大人と子供の間。結論を出さないということは、どちらにも転べることを意味する。ーー大人になるべきか、まだまだ女子を謳歌すべきかーーこの猶予も刹那的であることを彼女たちは知っている。そんな揺らぎを包み込むように「アラサー」は機能する。
恋に仕事に悩み、夜景を見ながら女子会するのは最高に楽しい。しかし、その先にあるのは無縁社会だ。
消費社会は甘い言葉で許容のポーズをとるけれど、その先までは担保してくれない。惑わされてはいけないと、27歳独身の私は思うのである。
Top image by Osamu Kaneko/flickr
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