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竹富島へやってきて 物のない場所だからこそ見える家族の変化

2021年の春。
娘をママチャリに乗せて爆走していると、保育所のお友達が何人か遊んでいる場に出くわした。よくある働く親の風景のひとつかもしれない。

ちょっと違うのは、ここが東京から1400km離れたところにある沖縄県の竹富島だということだ。

人口350人ほどの小さな島は、全体が国立公園に含まれている。国の「重要伝統的建造物群保全地区」に指定されていて、伝統的な琉球建築の家屋が並び、赤瓦屋根の上にはひとつひとつ表情の違うシーサーがちょこんと座っている。コンビ二やスーパー、大きな病院、信号、一般的なまちにあるものは、なにもない。そんな集落の中で、2019年の春から生活をしている。

集落の景色。「沖縄の原風景がある」とも称される。

島には小中学校と保育所がひとつずつある。子ども達は上級生も下級生も関係なく親戚のような距離感で遊びまわっている。気づくと家にいる子どもが増えているのはあるある話。(今はコロナなので、少し減ってはいる。)

保育所に通う5歳の娘は、兄2人の末っ子長女だ。家だとつい赤ちゃん扱いしてしまう。すぐに「抱っこして〜」とせがんでくるし、夜は絶対に私が近くにいないと眠れない。「鬼が怖い」と、節分の日は毎年保育所をサボる。

ママチャリで友達が遊んでいるところを通りかかったとき、そのまま合流して遊ぶことになった。その場にいたのは、4歳男の子、4歳女の子、2歳女の子、1歳になる男の子。そこに5歳の娘。子育て中の方ならピンと来るかもしれない、なかなかカオスになりそうなメンバーだ。

4歳の男の子が刀のおもちゃを持っている。
娘が「貸して」と言うと、「いいよ」と快く貸してくれたジェントルな少年。娘は「ぜんいつのかたなだー!」と嬉しそうに、スカートに刀を差し込んで「〇〇のこきゅう!!」と真剣な顔をして叫んでいた。そんな子どもたちを見つめる母たち。

しばらく遊んで、「そろそろ帰ろう」と、娘が男の子に刀を返そうとしたとき、一緒に遊んでいた4歳女の子が「刀ちょっと貸して」と言った。持ち主の4歳の男の子は「いやだ!」と即答した。

「貸して」「ダメ」
「ちょっとだけでもいいから、触らせて!!!」「いやだ!!!!」「おねがい!!さわるだけでいいからああああ!!!!!!!」「ダメーーー!!!!!!!!!!!!」

お互いに一歩も譲らない押し問答。2人とも、目に涙をたっぷりとためて、今にもあふれ出しそうだ。お母さんたちも「ちょっとだけでも触らせてあげなよ」「さっき◯ちゃん(娘)には貸してあげたよね」とオロオロし始めた。4歳の女の子はついに泣き出してしまい、抱っこされている。

すると、我が娘がスッと静かに動いた。

4歳男の子のそばへ行き、耳元でささやく。

「少しでもいいから触らせてあげたら。もうすぐ○○ぐみさんになるんでしょ」

胡蝶しのぶの「もしもし 大丈夫ですか?」のモノマネが得意な娘。蟲柱がそこにはいた。

蟲柱のささやきに圧倒されたのか、4歳の男の子は「いいよ」と何事もなかったかのように女の子に刀を差し出して触らせてあげた。一件落着。

男の子のお母さんは「私が言ったらこんなに素直に言うこと聞かないよ……!」と驚いていた。最後はみんなで明るく笑顔で「バイバーイ!!」と言ってお開きに。私はあっけにとられてそんな様子を眺めていたものの、蟲柱の活躍に、顔が自然とにやけそうになる気持ちを抑えていた。

娘は末っ子だ。年下の子に対してこんな立ち回りをできるようになっているなんて……!!周りの子と親戚のようにわちゃわちゃ過ごしている島での暮らしだから、年下の子との関わりを持てる。末っ子の娘にとって、得難いことだなとこの日の出来事を見て嬉しくなった。

ある日の海。遠浅で延々と歩いて行ける。


2022年1月現在、東京で育った私と夫と、3人の子どもたちは、沖縄県にある竹富島で暮らして3年目になる。改めて、この島に来るまでのことや来てからの変化、出会いについて綴りたい。上記はそのうちの1つのエピソードだ。

島暮らしのエッセイを、本にまとめたい。ウェブではない場所だからこそ、人の目を気にしすぎずに書けることがあるのではないかと考えている。以下に、プロローグ〜島に行くまでについて綴る。


横浜から竹富島へ行くことになった

2108年の夏。
横浜市の自宅で夕飯を食べていたとき、突如夫が口にした。
「あのさ、竹富島に異動希望を出すのってどうかな」

竹富島、たけとみじま、タケトミジマ……ってあの?新婚旅行で一瞬立ち寄ったあの島のこと?

2009年の夏、夫と結婚したばかりの頃、新婚旅行で日帰りで竹富島へ立ち寄ったことがあった。

竹富島は、石垣島から高速フェリーで15分ほど南下した場所にある小さな離島で、暮らしている人は350人ほど。

竹富島には「沖縄の原風景がある」とよく言われるが、これは国の「伝統的建築物群保存地区」に指定されているためだ。赤瓦屋根の沖縄建築の家が並び、屋根の上にはシーサーが座っている。道は白い珊瑚の砂が敷かれている。信号やスーパー、コンビ二、本屋、一般的なまちにあるものは、ほとんど、ない。

この島の風景や美しいビーチを求めて、年間50万人も観光客が来る。

多くのお客さんが、レンタサイクルで島内を散策し、また石垣島へ帰っていく。私たちが竹富島へ立ち寄ったときも、そうだった。

ただ、そのときに島を歩いて、小さなかわいい保育所を見かけた。「わあ、ここに保育所があるよ!どんな子たちが通っているんだろう」と口にしたことは覚えている。

また、夏日だったからか、歩いているときに島の人らしい人にほとんど会わなかった。建ち並ぶ赤瓦屋根の家には、それぞれの人々の暮らしがあるんだろうな、と想像を巡らせる。昔から旅行をすると、観光地よりもその土地の暮らしに惹かれる部分はあった。そういえば奥多摩へ行ったときに「奥多摩移住ナビ」みたいな冊子をいそいそと持ち帰ったことがあったな。

でもまさか、この10年後、私が生んだ3番目の娘がこのときに見た保育所に通うことになるとは、思ってもいなかった。

島の景色や、ビーチで遊ぶ子どもたちの姿を思い浮かべつつも、「いや、暮らせるのか?」と冷静になる。私も夫も、都会や人混みは苦手だけれど、一応東京の西側で育ってきた。島の暮らしに東京育ちの私たちが適応できるのか、わくわくと同時に不安も押し寄せてきた。

改めて、島について調べてみる。
東京からの距離は、およそ1400km。沖縄県といえど、沖縄本島から石垣島までは350km離れていて、石垣島や竹富島からは、沖縄本島よりも台湾の方が近い。え、台湾!!!!

私の実家は東京、夫の実家は京都。帰省もままならなくなる。そして、両方の親元を離れての子育て。どうなるんだろう。

暮らしは?
検索してみても、あまり情報がない。民宿や小さなホテルを営んでいる人のブログやSNSがいくつか見つかった。私は車でドライブをするのが好きけど、小さな島だとドライブする必要ってきっとなさそうだ。コンビ二でちょこっとおやつを買うのも好きだけど、それもできないのかな。

学校は……?調べてみると、島には小中学校がひとつあることがわかった。島民が一丸となって、島の子どもたちのために何かしてあげたい!との気持ちが強くあると書いてある。全校児童数十人。各学年数人ずつ、のようだ。

島では、数多くの祭が営まれているそうだ。特に、600年前から続く、国の重要無形民俗文化財に指定されている種子取祭(たねどりさい)では、島の多くの人が踊りや芸能を披露するという。

うーん。知れば知るほど、奥深そうな島だ。
夫も私も人見知りというか、夫は子どもの幼稚園や小学校でほかの保護者と交流するタイプではなかったじゃないか。それなのに、小さなコミュニティでやっていけるのだろうか?できない理由が、頭にぽこぽこと浮かび上がった。

学校に行けなくなっていた長男

夫が「異動希望を出そうかな」と言ったとき、長男は小学2年生だった。公立小学校に楽しく通っていたはずが、ゴールデンウィーク明けに突然、学校へ行けなくなった。朝になると「おなかがいたい……」と言い、学校を休むようになったのだ。

私は、子どもが生まれてから、ルールや決まりでしばることや、何かを強要するような環境に置きたくないと思うようになった。そして、私自身の小中学校生活があまり楽しくなかったこともあり、長男を学校へ入れるときは、かなり緊張もしていた。しかし、私の心配をよそに、小学校生活は楽しそうに過ごしているようだった。それなのに、2年生のゴールデンウィーク明けに突然登校を嫌がるようになった。

教員をしている友人へ聞いたところ、「2年生での登校渋り」は、意外と多いらしい。学年が上がっての環境の変化や、上級生として求められるものが変わること、学習内容が変わることなどが理由だという。

私も夫も、子どもの頃は友達と外を走り回ったり、家でマリオカードやドラクエをしたり、ピアノを習ったり少年野球をしたり。びわや桑の実が近所にあり、そういうものを味わうことも楽しんでいた。子どもらしく、たっぷりと遊んで、地元の公立中学へ。さらに自転車で通える範囲にある都立高校へ進学し、教育を学ぶ大学で出会った。

東京育ちだが、受験産業とはほぼ縁がなく育ってきたこともあり、低年齢での受験には懐疑的な部分があった。2人とも教育とは全く関係のない仕事へ就き、子どもが生まれ、教育や子育てについて、一人でよく情報収集をしていた。

もう、転校しようかな……?やっぱり公立小学校は限界があるんじゃないか。クラス全員が同じ方向を向いて、一斉に授業を受けるのは長男に合わないのかもしれない。今は色々な面白い学校も増えている。

そのなかで、「山村留学」や「離島留学」など国内で地方に留学する制度があることも知った。ひょっとしたら、こういう環境に行くのも良いのかもしれない。通っていたピアノ教室で、本人の希望で種子島の宇宙留学へ行き、目的意識を持つようになり大きく成長した話をきいたこともあった。

……と、考えていたが、長男は2学期になったら、突然元のように学校へ通うようになった。夫が島行きを提案してきたのは、この頃だった。


引っ越しへ向けてまたハードルが

戸惑いつつも、やっぱりワクワクが勝った。ひとまず異動希望を出し、夫の異動希望が通ることがわかったのが、2018年9月頃。

夫は11月末には異動しなければならないらしく、既に、仕事のことで頭がいっぱいな様子が見られる……おいおい。ここでまた、迷う。次男は年長で、卒園を控えていた。年度の途中で転校、転園をするか、年度末まで待ってから引っ越すか。

当時、次男の卒園へ向けて謝恩会委員を引き受けていた。この幼稚園へは、長男が年小のとき、私は仕事を辞めて専業主婦になったと同時に転入した。

それまでワーママをしていて、保育園でほとんど他の保護者との交流がなかったなか、初めての幼稚園生活、保護者コミュニティだった。穏やかで優しい方が多く、特にトラブルもなく過ごしていたが、いつもどこかなじみ切れていなさを感じていた。長男が幼稚園に入園して4年ほどたち、ようやく、ようやく……保護者の皆さんと親しくなれている感覚があった。

せっかくだから、きりの良い年度末で引っ越す方が良いのか。でも、1年生でいきなり新しい友達の中に入るよりは、年長の間に引っ越して、仲良くなってから入学した方が次男にとっては良いのではないだろうか。

「2学期終わったタイミングで転入してくる子っている?どんな感じ?」
小学校の先生をしている友人へ聞いたりもした。

子どもたちはというと、島へ行くことを楽しみにしているよう。「お父さんと一緒だったらなんでもいい〜」って。さらに、「今すぐ行っても春でもどっちでもいいよ〜」と、のんきな様子。

結局、私と子どもたちは次男が卒園してから島へ行くことに決めた。夫は一足先に11月に旅立った。私と、3人の子どもたちで3月の卒園まで半年過ごす。引っ越しに、卒園に、進学進級準備。え、これ、ワンオペでできるのかな?そんな不安を抱えながら、新たな暮らしへ向けて動き始めたのだった。




小2のときに横浜の小学校で登校渋りをしていた長男は、2022年になった今は5年生になった。島の学校へ通い、4月から6年生になり、児童会長になる。みんなの前で司会をしたり、発表したり、毎日楽しそうに学校へ通っている。

全校の児童数が少ない学校だからか、それぞれの性格や個性をお互いに把握しながら、なんというか、つかずはなれずの距離をみんながそれぞれわかっているような感じが、見ていて面白いなと思う。

次男は島で小学校の入学式を迎えた。引っ越してから半年後、末っ子の長女は保育所へ入った。専業主婦生活のなか、働くことへどんどん自信がなくなっていた私は、ライターの仕事をするようになった。

こうして、おそるおそる島へやってきた私たちは、3年で、じわじわと変わってきた。あと何年いるのか、この先どこへ行くのか、全然わからない。それでも、なんとなく、なんとかなるんじゃないかな。島での暮らしは、私たちに小さな自信もつけてくれている。


1回目の緊急事態宣言、全国一斉休校になったときは、家族でよくビーチで過ごした。
天然記念物の「セマルハコガメ」。たまに歩いているのを見かける。
観光のお客さんの多い島。最終の船は18時前後に終わる。それからは島の人と泊まる人だけの時間。


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