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消えた弔い


 俺は公衆電話を使ったことがない。

 いや、使ったことはあるか。中学生の頃は携帯電話を持っていなかったから、生徒玄関に設置されていた公衆電話でたまに親の迎えを呼ぶことがあった。ただ、自転車での帰宅が困難なほどの天候悪化などに見舞われない限り、基本的にはその緑の物体を目で捉えることすらなかった。
 だから、多分実際に使ったことがあるのも数えられる程度だと思う。それに今になって気付いたが、俺が言いたかったのは「公衆電話を使ったことがない」ではなく、「電話ボックスに入ったことがない」だ。少なくとも記憶があるうちでは、間違いなく。

 つまり、今この折れ戸に手をかける俺は、生まれて初めて電話ボックスに入る俺だ。そして、大げさでもなんでもなく、これは人生の最初で最後の電話ボックス体験だ。生まれて初めてはあまりコントロールできるものではないが、これで最後にすることは決めている。だってなんだかその方が、ちゃんとお前に近づける気がするから。
 本当は、もっとお前に近づくために、時間も限りなくあの日に合わせようとしていた。でも、さすがにそれは俺の心が耐えうる強度をもちあわせていない気がして、お前にはどこか申し訳ないが、あの日とは真逆の時間を選んだ。

 視界上方に広がる青が眩しい。透き通る薄い雲が広範囲に点在している。電話ボックスの頭上を覆う松の枝葉が、磯の香りをのせた乾いた風でしゃらしゃらと揺れる。緑の芝生の遥か前方で、5、6歳ほどの子ども二人を連れた若い夫婦が歩いている。兄と妹だろうか。じゃれ合い高らかに笑いながら歩く彼らの足が踏みしめる緑と、この電話ボックスが踏みしめるコンクリートが地続きであることを不思議に感じた。きっとお前は、ここがこんなにのどかな場所だったとは知らなかっただろうな。

 折れ戸をゆっくりと押す。少し籠もったような空気が流れ出る。大人一人がかろうじて身を収められるスペースに、そろりと足を進める。
 背後で扉を閉めると、世界には俺しかいないような心地になった。全面ガラス張りの壁から見える景色は先ほどと変わりはないはずなのに、なぜかこれだけでどこかお前に近づけた気がする。
 記号めいた緑の電話機の上に、小銭がまばらに積み上げられている。銅色や銀色の硬貨が無秩序に積まれたり崩れたりしている様は、賽銭や投げ銭を思わせ、確かな祈りを感じさせた。こんなに特殊な電話ボックスは、人生の最初で最後の電話ボックスにふさわしすぎるな、とぼんやり思う。
 どこにかけるかなんて、決めていない。ただ、気づくと左手は受話器を持ち上げ、右手は一番高い位置に積まれた十円玉を掴んでいた。
 少し力が入った左手が、受話器を耳に押しつける。銅色の硬貨を投入口に滑落とすと、右手の人差指はお前の番号を流れるように押していた。
 そもそも、携帯電話の番号を空で言えるのなんて、お前のだけだよ。
 胸の真ん中でぼんやりとそう呟きながら、しかし頭は冷静に「機械的なアナウンスが流れるだけだろうな」と想像する。この番号がもう繋がらないことも、いや、繋がったとしてもお前には決して繋がらないことも、全部分かりきっている。
 お前は最後にこの受話器に触れたのだろうか。それともこんな電話ボックス、視界にすら入っていなかったのだろうか。
 何を思い返そうと、悔やもうと、お前はもう戻ってこない。この潮風と、崖下に広がる青い波たちが、お前の最後の体温を覚えているだけだ。
 こんな無意味な行動は弔いになるのだろうか。繋がらないことを伝える電子音を待ちながら考える。だけど、お前の声が聞きたい。どんなに無理だと分かっていても、あの日から随分経ってここに来ようと思えた時、一番に感じたことを素直に実行したかった。

 数秒待っただろうか。想定した音声は流れない。無音が左耳から身体の中に流れてくる。

 ガタガタッ。

 電話ボックスが揺れた。後方の海から強い風が吹いたようだ。ガラス越しの松たちが揺れる。俺はまだ、世界に一人だけだ。

 気づくと、ツーツーと電話が切れた音が鳴り響いていた。どこにも繋がらなかった。そりゃそうだよな。俺の左手は受話器をおろす。
 無意味な行動に、あるいは別の何かに耐えられなくなったのか、俺の身体はすぐに向きを変え、扉を引いていた。

 なぜ、電話をかけようなんて思ったのだろう。

 目の前の海は、松林や岩肌に縁取られながら絵画のように悠然と存在する。湿った、しかし匂いのしない風を浴びていると、大事な何かを忘れている気がした。

 ブブブッ、ブブブッ。

 右ポケットの中で震える携帯を手に取る。お前からの着信だ。
「こんな休日に、また飲みの誘いかよ」
 そう独りごちながら、うわずった気持ちを隠すように少し低めの声で電話に出る。
「おっす。どした」
 やっぱり、予想通りの誘いだ。どうせ今日も俺がたくさん愚痴を聞く羽目になるんだろう。
 だけど、俺はなぜここで海を見ていたのだろう。この声を聞ける嬉しさの裏側で、何か大きなものが消えたような感覚がある。

 まぁ、そんなのどうだっていいか。

 右耳からお前の声を聞きながら相槌をうつ。踵を返し、穏やかな波音に背を向けると、芝生の前方で四人家族がピクニックをしているのが見えた。姉と弟だろうか。5、6歳ほどの子ども二人が、服を掴み合いながら喧嘩に勤しんでいる。
 AB型左利き仲間なのになんでこの気持ちが分からないんだとかなんとか、いつの間にか愚痴の矛先が俺に向かってきた。「後は直接聞くから」と電話を切りながら、幸せだなと思う自分に気づく。
 今日はお前の好きな焼き鳥屋にでも行こうか。いつもほどほどに聞き流していたお前の愚痴も、なぜか今日はゆっくりと向き合いたいと思った。

2022.07

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