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6/8視聴:「違国日記」

こんにちは。

6/7に公開した新垣結衣さん、早瀬憩さん主演の映画「違国日記」について感想や考えたことを書きたいと思います。

ネタバレ全開で書きたいと思うので作品を見られていない方は自己責任で先に進むようにしてください。

原作となっているヤマシタトモコ先生の漫画は読んでいない状態で視聴をしているので原作ファンの方も暖かい目で読んでいただけると嬉しいです。

【感想】

本作の個人的な賛否は「賛」でした。

特にオーディションで主演に選ばれた早瀬憩さんが演じる、「朝」がとてもよかったです。

両親の事故や進学をきっかけにして今まで知らなかった大人や変化していく友達と接する中で、家庭という小さな世界で形成されてきた無邪気でステレオタイプ的な価値観が壊され、そのギャップにもがき、打ちひしがれながらも、自分なりの世界との向き合い方を模索していく姿がとてもよかったです。

僕も中学という小学校からの延長線だった世界から高校という「未開」の土地に踏み出した先で、価値観のギャップや、周りは将来のビジョンがあるのに自分には将来像がないことで、焦りや不安を抱えてたことを思い出しました。

否定的とまでは言えませんが、原作の漫画全部を描くことは映画の尺的に難しいのは承知していますが、話が急に飛び、人物間の距離が急に近くなっている箇所が何箇所かあり、ついていくのに戸惑う部分がありました。

【解釈・映画評】

・テーマ

本作のテーマを「過去との和解と自己発見」の物語のように理解しました。

小児心理でよく言われる言葉「子どもの心は乾ききっていないセメントだから、大人の不用意な言動で簡単に跡が残ってしまう」という言葉があります。

この作品は思春期に姉によって歪な跡を心につけられ、アダルトチルドレン気質がある新垣結衣さん演じるまきおちゃん。

まだ心のセメントが乾ききっていない、多感な思春期という難しい時期をこれから迎える中で両親というセーフハウスを失った朝。

2人の女性が共に生活を行う中で、まきおちゃんは朝を通して姉に植え付けられた劣等感と向き合い、朝は両親を通して形成された価値観と現実との葛藤の中で新しい自分を見つけていくカウンセリング映画のようにかんじました。

まきおちゃんの姉であり、朝の母親は自分が幼い頃に病気で他の人と同じように振る舞えなかったことを気に病み、執拗に朝やまきおちゃんに目立つことを避け、個を消し、集団と同一化することをまきおちゃんには直接的に、朝には婉容的に強いてきました。

朝は物語の冒頭で、まきおちゃんに何か食べたいものがあるか聞かれた時にも、夏帆さん演じるななちゃんに何か食べたいものがあるかと聞かれたときも「なんでも」と答えていたり、軽音部の活動のなかでボーカルになることを最初は断ってしまいます。

また、高校初日に、両親が亡くなっていること、弁当を自分で用意していることを新しいクラスメイトに話した後、家に帰ってから母親の言葉を思い出したのか、頭の中の母親のイメージがそう言ったのかは不明ですが、自分が目立とうとしてしまったことに嫌悪を感じてしまいます。

朝は最後に母親が「朝の好きなようになっていいよ」と言いつつも自分のさせたい方向に導こうとしてたことにイラつきを覚えていながらも、個を持たず、集団と同一化することが、ある種の美徳とされる価値観の中で育っていたために、まきおちゃんが朝になぜ母親が嫌いなのかを打ち明けたときに、朝の母親がまきおちゃんに求めていた姿はまさに今の自分だということに思い当たりました。

一方でまきおちゃんは姉に言われた心無い発言をコンプレックスと感じ、人はみんな個と個であり、あなたと私は別の人間という価値観のもとで朝に接します。

話が脱線しますが、まきおちゃんの自分と他人の間に線を引き、「私たち」という言葉をWeではなく、I and Iとして使っている様子にこの作品に帯びるフェミニズム的な視座を感じました(後述しますが他にもいろんな場面でそういう場面が出てきます)。

朝は今まで「朝のやりたいようにやればいいよ」という母の発言の裏には、「私の望むようであれば」という枕詞が付いていることを知っていたので、母の理想に叶う自分を演じなければならないという思いが強く、まきおちゃんが発する「朝の好きなようにすればいい」という言葉を素直に受け止められず、反対されることを恐れている姿がとても印象的でした。

同じような言葉を母親とまきおちゃんから向けられながらも、その言葉が持つ意味のギャップの中でもがき、最後には「私」に正直になっていく朝の歌はものすごい心に響くものがありました。

・フェミニズム的描写

次にこの映画の中で気になったことは、要所要所で組み込まれるフェミニズム的な描写です。

図式化され過ぎている気もしましたが、朝の価値観の変化や葛藤を生み出す装置としてとても外せない描写であったと思います。

一つ目は親友えみりちゃんのレズビアンであることのカミングアウトです。

朝は上にも記したような、いわば保守的な価値観の中で育ってきた部分があり、本人もヘテロセクシャルで、恋愛は男女の関係の中にしか存在していないと思っている節があったと思います(瀬戸康史さん演じる笠待とまきおちゃんの関係を受け入れられないことも然り)。

そのため、親友のえみりちゃんにもヘテロセクシャルであることを前提とした、ちょっとウザめの絡み方をしています。

二つめの描写は学年で1人しか選ばれることのない海外研修プログラムを女子という理由で選考から落とされてしまったクラスメイトが先生に対して抗議を行う場面です。

女子という理由で落とされたことに憤りを感じている女子生徒に対して「そんなに怒らなくても」や、「向こうからも男子をって言われてるんだよ」と言えてしまう男性教諭を、男性というだけで自分が社会から受けているマジョリティの優位性に対して無自覚な存在として描きたかったんだとは思いますが、流石に図式化され過ぎているのではないかと感じました(東京医科歯科大学などで問題になってはいますけど...)。

この選考に落ちてしまったクラスメイトは朝がどの部活に入るか悩んでいる横で、自分のなりたいもの、理想に対して努力をしている「個」を確立した少女として描かれています。

自分の性的自認と理想を掲げられる少女を見て、朝は「自分」という存在の虚無感のようなものにぶち当たってしまいます。

このような感情は思春期であれば誰しもが一度はぶつかる壁のようにも思いますが、朝がその壁を過去の母親との関係で乗り越えていく様子、なりたい自分は見つけられなくても「個」というものを形作っていこうとする姿はとても清々しい青春映画のようでした。

この作品の中で描かれる人間関係の中でのI and Iはフェミニズムの基本原則。1ページ目に描かれることになります。

本作ではその1ページ目の基本原則をテーマとしていたので、上記の2人の少女を朝の内的葛藤のトリガー装置として使っているのはとても効果的だと思いました。

・残念だったポイント

ただ、朝とまきおちゃんが母親であり、姉と改めて向き合うことで自分の中の葛藤やコンプレックスに折り合いをつけるというプロットは良かったのですが、朝の母親、まきおちゃんの姉という関係性の中でしか、母親・姉が描かれず、1人の個として朝の母親が描かれていないことが残念でした。

関係性の中でしか語られることがないため、どうしても母親が朝に向ける愛が軽薄に見えてしまう部分がありました。

朝の母親が朝に対して目立たず、個を消して、集団と同一化しなさいと言っていたのは、何も朝をマトリオットにしようとしていたわけではありません。最後に朝の母親から朝に向けての日記で朝は改めて母親の愛を感じますが、この作品の文脈の中で捉えるとどうしても朝の母親が朝をコントロールしようとする毒親として見えてしまいます。

私は私、わかりあえないもの。でもその「私」は尊重されるべきだというメッセージを含んだ作りの中で朝の母親が1人の私として描き切れていなかったところがとても気になりました。

以上、「違国日記」を見て感じたこと、思ったことになります。

【最後に】

どうしても漫画原作を映画の2〜3時間の中でやろうとすると尺的に全てを描き切ることはできないんだろうなと感じました。

ただ、作品として話に矛盾が生じていたり、脈絡のないつながり方をしているわけでもないので、原作を好きな方、原作を読まれていない方でも一つの作品として充分楽しめる内容になっていると思います。

なんで朝の母親はあんなに保守的な価値観の人間として描かれているのに夫婦別姓で事実婚という形をとっていたのかわかる方に補足をしていただけるとありがたいです。

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