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おとぎ話を信じたら。

僕が初めてふたりを見たのは、10月の終わりだった。

明るく笑った彼女は、「雪」と自分の名前を名乗った。
カフェのカウンターでカクテルグラスに注がれた二層になったコーヒーを飲んでいる。
緊張気味に座る男に、誠人さんと雪は語りかけた。
彼は青のジャケットにジーンズを合わせていて、派手な髪色のわりに、話し方から誠実なのが分かった。
穏やかな秋の夕暮れ。小さなカフェから、暖かなおとぎ話が始まろうとしていた。

次にふたりを見たのは、新宿御苑の芝生の上。
恐る恐る寝転んで、無邪気を味わっている。
誠人は雪にスマホを向けて写真を撮る、雪は嫌がるふりをするけど、嬉しそうに手で口元を隠しながら笑っていた。

そのあとも時々、僕はふたりを見かけた。
映画館やプラネタリウム、クリスマスのレストラン、高い橋の上でふたりがはしゃぐのを見た。
いつも誠人が距離を詰めるから、雪は席の端っこに追いやられていた。街中でも人目を気にせず抱き寄せる誠人に、初めは戸惑っていたけれど、そのうち当たり前に受け入れて、ふたりだけの距離感をつかんでいった。

それからしばらく、ふたりのことは忘れていた。
たまたま夜の住宅街を歩いていた時、一軒家の前で雪を見た。
彼女は玄関の隅にしゃがみこんで、泣きながら煙草をふかしていた。なんだか、とても痩せていた。

ふたりの間には、僕にはわからない空気が流れ始めていて
雪は自分の中の黒いものに飲み込まれているようだった。
僕は不安になって、雪のそばにいた。

「私だけを愛して」
彼女はその言葉を口にしてから毎日泣いていた。
叶わない夢を見ているようで、少しずつ壊れていった。

冬が終わって春になって、彼女の好きな夏が来るころ
離れたり近づいたりを繰り返して
ふたりはとうとう、静かになった。

今まであんなに泣いていたのに
雪はもう、泣かなくなった。
時々、玄関の外の椅子に座って、空を見上げて
「煙草をやめられない訳じゃなくて、この空を眺めるのが好きなだけ。」僕が元気な時は、そんな雪の声が聞こえた。

毎日、白と黒を繰り返すように、雪は苦しんでいた。
失った自分を探して、ゆらゆら揺れて落ち着かないらしい。

平日の昼間、駅のホームは人が少ない。
珍しくスーツを着た誠人が、冷えた電車に乗るのが見えた。
僕は慌てて一緒に乗り込む。

「気持ちは伝わらない」
誠人は甘いカフェオレを飲みながら、スマホを自分に向ける。
それはすぐに、雪のもとへ届いた。

彼のことが中心になっていた生活を
雪は少しずつやめていた。
彼に出会って見つけた夢を、現実にすると決めたらしい。

「誰にでもできることが、私にはできない」
仕事から帰る車で、雪は1本だけ煙草を吸う。

雑居ビルの6階
丸い窓の内側でクラシカルな音楽が流れている。
雪は周りを無視して、空気を読まずに踊り続けていた。

帰りの車で、雪は珍しく煙草を吸わなかった。
「私が生きたかった人生だ。」
抜けるような青空の中に、そうつぶやいて笑った。

#あの選択をしたから