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内田樹『武道論』【基礎教養部】

今月も引き続き、シトさんとTKさんと同じ本を読み書評を書きます。『武道論』というタイトルを聞いたときは、武道なんて中高の授業で柔道をやっていた(後にやっていたとはいえないことをこの本によって訂正されますが)ぐらいだな…読めるのかなという不安が過ぎりました。しかし読み進めていくと、武道の具体的な技の話などをずっとしているというよりは武道とは何か、能では何をやっているのか、などの話を雑誌等に寄稿された文章で語っていたので素人の自分にもわかりやすい内容でした。TK氏の記事でご指摘の通り、この本は構造上何度も同じ主張(しかし言い方は違う)を目にするようになっているので、なるほどこれが言いたいんだなということが理解しやすかったです。

まず武道とは、天下無敵("無限消失点"であり、到達することはない)を生涯かけて目指す道であり、スポーツのように特定の身体能力をある時点で最大化するものではないという違いがあるようです。武道はスポーツの一分野であり、本来は戦においていかに合理的に相手を殺すかの術を体系的にまとめたもの、という認識だったので改めました。武道が天下無敵という無限消失点を目指すのなら他の道はそれぞれ何を目指し修行するのかが気になるところではあります。自分に比較的近い茶道からそのルーツを今後探っていきたいと思いました。

身体を使った一動作ですら、どこの筋肉がどう動いてなど本当に正確に我々が認識することは不可能という立場を取っていました。どういうイメージでその動作をするか、というような違いを持たせることで動きの改善ができた、という話は僕自身も経験があったので共感しました。確かに一動作をする上での筋肉の細かい動き、意識の持ち方などは現在の技術を使っても完全に数値化することはできないというのも、科学を学び、何かそれに新たに知恵を付け加えようとしている人間として納得できました。文明が進み、以前に比べあらゆるものが定量評価できる時代になった結果、そういう「数値化できないものの存在」が希薄になってしまっているし、むしろ僕らは意識的に目を背けようとしているのでしょう。あらゆるコンテンツの「スポーツ化」が進んでしまったのはこういったことが背景にあるんだろうと思います。徒弟制をやっているのが本当に職人ぐらいになってしまったのはこういう定量化できるものしか存在するとはみなさない思想が知らず知らずのうちに我々に浸透しているからだと思います。

型通りに生きること、例えば規則正しい生活習慣で生きていると、自分の内側で起きた微細な変化に対する感度も高まるようです。実際カントはそれを実践していたらしく、僕もこれは真似できそうだと思いました。型通りに生きることで、型から外れた自分の思考の断片の尾ひれを掴むことがやりやすくなる。僕は現在典型的な夜型人間で、規則の正しさのへったくれもない生活を送っているわけだが、後に研究をするとなった時にはアイデアの一つや二つ出すことが重要になってくるフェーズがあるはずです。そういう時期になるまでには規則正しい生活習慣で生きてみるのも一つの手だと思いました。

内田氏の文章は東大国語の現代文で読んだのが最初でした。確か知性的な人・反知性的な人の話でしたが、当時の自分は仲間内のチャット内に共有するぐらいにはひどく共感していたようです(今見返すと少し恥ずかしいけど)。後は三島由紀夫 VS. 東大全共闘のドキュメンタリーにも出演されていたのを拝見したぐらいですね。ちゃんと書籍として触れるのは初めてでしたが、共感できる部分はここに書いた以外にも多々あったので嬉しかったです。
しかし、全ての文章を通して一貫した主張をすることが僕にはまだ難しいことのように感じます。そういった主張を見つけること自体も、主張し続けることもです。きっとまだまだインプットやアウトプットの修行が足りないのでこう思ってしまうのかもしれませんが、読書と文筆という修業は生涯続けていくつもりでいます。そういえばTwitter(現X)で再バズりしていましたが、ホストですら(というのは失礼ですが)も、新聞を読みまくって文章力を鍛えるご時世のようですね。


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