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森見登美彦でもないし京都でもないけれど(めぐり逢い触れる君の全てが僕の愛の魔法)

 サブタイトルはアジアンカンフージェネレーションの「或る街の群青」から引用。
 悠久に咲くと書いて悠咲という。当然偽名であるが、私の本名などこの駄文劇場において何の役割も持たないため代用させてもらう。いつまでも生にしがみついてやると息巻いていた威勢は忘れないでおきたいので、使い続けることとした。
 
 私は齢十数年にして自らの思慮浅さに絶望した。電子の海を遊覧すれば、創作物に対し様々な観点からモノを述べている記事が目に入る。豊富な語彙、圧倒的な知識量から放たれる文章に、私は幼少から羨望の視線を向けていた。いわゆる、考察ブログ。いつか、大人になれば私も同じように教養に溢れウィットに富んだジョークを挟む文章を織りなせるはずだと信じて疑わなかった。だが、実際はどうだろうか。私が打ち込んでいる文章を見れば、火を見るよりも明らかである。 

 毎日コピーアンドペーストを繰り返す日々だったとは言わない。種種雑多のイベントを越え、年々「大人」に近づいている実感はある。だが、足りない。このまま歳だけ重ねて十分に精神が成熟していかなければ成せるはずのことも成せない。大人もどきにして、半人前の体現者が今の私だ。

 焦燥と危機感が、私を哲学の道へと導いた。

 先日、私が友人と観賞した映画「哀れなるものたち」の作中にて。諦観した黒人男性はこう言っていた。「哲学を学ぶことは馬鹿だ。哲学に傾倒してる奴は現状からの逃避をしているだけで、シンプルな答えを見ないふりしているのだ」と。細かい言い回しは気にしないでいただきたい。記憶力は良い方ではなく、少ない脳知リソースは我が意に反してあらゆる記憶物をボトボトと溢している。残念ながら、それに気づくことが出来る感覚器官は持ち合わせていないのだが。とりあえず、こういったニュアンスの発言をしていたということが大事なのだ。それを聞いた私は、怒髪冠を衝く勢いでシアターを後にした…なんてことはなく、いや、これから哲学学習を進めるにあたりそれほどの情熱があるべきなのかもしれないが、すんなりとそれを受け止め納得していた。同年代の学友が社会人として働き始めるという中、哲学を学びに大学へ通うというのはあらゆる面で逃避であった。モラトリアムの延長を望み、金銭のために時間を削って働くことに嫌悪し、なによりこの胸躍るものが皆無の栃木からの脱出を懇請した。そのための大学進学であるという側面も持ち合わせているが故に、逃避。
 映画の登場人物に言い勝つことなど容易なはずである。何故ならその人物はこちらの反論に返答することが不可能だからだ。それでも、私はぐうの音も出なかった。出たのはせいぜい「くっ…」という空気を震わせたのかも怪しいような音だけである。

 この正論に立ち向かい、解答をださねばならぬ。

 私は一度敗北を喫した。ならば後は勝つだけのこと。

 負けた。考えた。勝った。かのユリウス・カエサルもゼラの戦いの結果をローマに報告する時は明瞭簡潔であった。私の向かう先はいたってシンプルで良いのだ。逃避から何か実益をもたらすものを生み出せたのなら勝ちと言っても差し替えないだろう。
 この悠咲、大学生活四年間をかけてこの命題に立ち向かうことをここに宣言する。
 
 話は変わり、大学生になり一週間ほどが経過した。森見登美彦氏の名前をわざわざ出している点から察せられるかもしれないが、私は森見登美彦氏の紡ぎだす物語及びキャラクター達を愛している。彼らの多くが大学生という身分を首から掲げて自堕落にかつ自虐的に生を刻んでいる。その人物たちと同じ身分になるのだ。高揚しないわけがない。
 そんなわけで私は大学生活に希望を見出し、この先の展望に胸をときめかせているわけなのだが、皮肉なのが基本的に彼の作品は大学生活を肯定的に捉えたものではないということだ。それでも、そのアイロニーさえも、愚痴る姿にさえも羨ましいと思ってしまったのだ。一人で四畳半の部屋に横になり思慮に耽り、憎らしくも愛らしい友人達と毎日を過ごす。不思議な少女に恋をして、空回りを繰り返しながら本懐を遂げる。私だって、語るに値しない結末を迎えてみたい。様々な人間と交流して悩み、それでも毎日を生きたい。

 そんな私の胸を躍らせたイベントでも紹介しようと思う。

 四畳半神話大系のアニメを見れば幾度となく目にするサークル勧誘のシーン。大手を振って歩く「私」に対し、数十のビラが向かってくるあれ。あれが、実在した。勧誘しようと躍起になる学生たち、どれにしようかと目を輝かせ歩く新入生たち。今後の学生生活の命運を分ける最初の分岐点。ここでどの未来と握手するか、どのイフを切り捨てるか。数百の人間が握る手を迷っている空間。そんな中、一人歩きながら愉悦に浸る。良い時間だった。
 私は一人でサークル説明会をまわったのだが、事前に目を付けていた組織から全く興味の無いものまで加入員の力説を聞いた。音楽と私は切っても切り離せない関係にある(良い意味でもその逆も)ため、軽音楽系のサークルへの加入を考えている。弊学は五個以上該当のサークルがあるため、どのサークルがどの空気感でやっているかを知る必要があった。様々な人間に出会いたいと独言しながらも積極的に関りを作りにいきたい性分ではないため、他学との交流が活発であることを唄っている組織は除外。次に説明を担当する学生がチャラい・強面な組織を除外。(説明会に駆り出される人員は一年生が親しみやすい人間を連れてくるべきであり、選別した結果が金髪ピアスマッチョな場合、私のいるべき組織ではないため)
 そんな具合で消去法で二つまで絞り込んだわけなのだが、より自分の性質に近しい方に決めた。決め手は会議にディスコードを用いることである。

 どれだけ「憧れ」をなぞったところでそれにはなれないし、どれだけ形を寄せたところでどこかで崩れてしまう。分かっているけれど、寄り添わずにはいられない。
 私の人生の新編であり、「私」のものではない。
 ただ、この触れる空気・抱く感情が新鮮で魔法のようである。
 

 

 
 
 
 


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