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魔都に烟る~part2~

 
 
 
 満ち足りた月が赤く輝き、街を妖しく照らし出す。

 寝静まった石畳の街。足音が、烟る霧の中に響く。

 ──と、足音が止まった。

「……におうな」

 つぶやく、若いと思しき男の声。抑えたその声からは感情を読み取ることは出来ない。

 男は止まったその場から動かず、注意深く周りの様子を窺っているようだった。

 ハット、マント、暗闇の中で尚、影のように黒みを帯びた姿。顔は隠れていてよく見えない。

 指で鼻先を掠め、

「……遅かったか」

 そう呟くと踵を返し、フワリと宙を舞った。

 微細な赤い粒子が、烟る霧を染めていく。

 冷たい石畳の上には、ほんの少し前まで暖かかったはずの生命の塊。

 縋るものがなかったのか、それとも届かなかったのか……伸ばし切り、極限まで開かれた手。その必死な様子が憐れを誘う。

 その傍らに立つひとりの女。

 横たわる、かつて生を宿していたはずの器を見下ろしている姿には、ある種──蠱惑的とも言える──の美しさが滲んでいる。

 静かに女の背後へ。──と、女は僅かに顔だけを男の方に向けた。

(ほう。気づくのが早い。しかも力も大したものだ。だが……)

 感心しながら、足音も立てずに降り立った男は、

「……きみではないのですね」

 そう言って、一気に女との距離をつめる。女は驚愕の表情を浮かべ、後退りながら宙へ逃げようとし、その瞳がさらなる驚きに見開かれた。

(……とべない……)

 冷や汗を浮かべながら壁に背を預け、女は必死の形相で男を睨みつける。せめてもの抵抗。

「どんなに頑張っても、恐らくそれ以上は動けないでしょう。大した力ですが、それでも、きみより私の方が力が強いようですから」

 無慈悲にも言い放つ。

 女が動いても少しも動じることなく、無理に逃げようとして半ば意識を失い、落下して来た細い身体を受け止めた。

 気を失う直前、女は男の顔を垣間見、目を見開き息を飲む。しかし、そこまでだった。

 微かに残っていた意識は闇へと吸い込まれる。

 それを見届けたのか、月明かりの下、男は空を翔けるように女を連れ去った。

 夢を見ていた。恐ろしく、妙に生々しい夢を。

 自分より強大な力を持つ存在。かつて、そんな存在に遭遇したことなど一度とてなかったのに。

 絶対的に自分を凌ぐその相手が、今、目の前にいる恐怖。その威圧感だけで身体はうち震え、身動きひとつ取れない情けなさ。

 そして──。

 その相手に、されるがままの自分。どんなに叫んでも、自分の声が空気を震わせる音となることはなかった。

「………………!」

 おびただしいくらいの汗にまみれて目覚めると、首を絞められていたのかと思うほどの息苦しさ。呼吸で胸が大きく上下する。

 目に映るのはベッドの天蓋。初めて自分がベッドに寝かされていることに気づき、辺りを見回す。

「……ここは……?」

 呟いて身体を起こそうとし、己の現状も否応なしに認識させられる。

 腕一本が、持ち上げることが困難なほどに重い。自分の身体ではないかのように。必死に身体を返してうつ伏せになり、何とか腕で半身を持ち上げる。──と。

「………………!」

 何とかそこまで動けたものの、自分の身体が何も纏っていないことに気づき、再び驚愕する。

「目が覚めたようですね」

 気配を感じる間もなく聞こえたのは、聞き覚えのある男の声。暖かくもなく、かと言って冷たくもない、だが、感情の読み取れない。

 重い身体を支えながら、声のする方を睨みつける。

「きみの力の程度がまだ読み切れなかったので……加減がうまく行かずに悪いことをしました」

 全く悪いなどと思ってはいないことが、ありありとわかる声音。しかも、暗に自分の優位を見せつける言葉。

「きみを視せてもらうために邪魔だったのでね。まあ、どちらにしても、きみの着ていたものは血煙で酷く汚れていたし……」

「私に何を……!」

 微妙なニュアンスを含んだ男の言葉に、屈辱と羞恥が入り交じった怒りの表情を向ける。

 その顔を遠目で一瞥した男は、読んでいた本を閉じると、ゆっくりと立ち上がった。一瞬、女が怯む。

 しかし、灯りの下で男の姿を認めた女は、別の意味で驚き、息を飲んだ。

 背が高く大人びてはいるが、まだ『少年』と言っても通るのではないかと言うくらいの容貌。黒髪に通った鼻梁、整った唇は微かな笑いを含んでいるのが見て取れ、それがまた腹立たしい。

 そして何より、昨夜、女を驚愕させたその目──。

 右目は闇を映した漆黒。

 そして左目は──右目と同じ漆黒だった。

(……まさか……見間違い?)

 少し切れ長気味の目が、どこか東洋的にも見える。

 驚いて怒りをも忘れていた女は、我に返り、再び男を睨みつけた。

「別にきみの身体に変なことをした訳ではありませんよ。言葉の通り、ただ『視た』だけです。きみが『何者』なのかを知るために」

 女が呆然とした体(てい)で目を見開く。身体を視ただけで、相手の素性がわかると言うのか?そんな疑問が脳内を駆け巡る。

「第一、私には意識のない女性を襲う趣味はありません。そこまで飢えてはおりませんのでね」

 その嫌味な言葉に、また怒りの振り子が激しく揺れ出す。──と。

「ひとつ断っておきますが」

 唇から笑みを消し去り、また、あの独特の声音。

「目を覚ました後はその限りではありませんよ。もし、面倒な行動を起こすようなら……」

 ゾッとするような冷たい響き。その後に放たれた言葉は、女にとって正に首元への刃(やいば)。

「……指一本、動かせないようにして、死ぬほどの屈辱を味わってもらいます」

 怒りと恐怖で女の身体が震える。

 戦意を喪失しそうな空気の中、男がいきなり女の腕を掴んで身体を引き寄せた。驚きで声を上げる間もなく、震える唇を塞がれる。──が、鉛のように重い身体に抗う術はなかった。

 身に纏うものもない状態で組伏せられ、羞恥で目の前が赤く染まる。──が、女は直に奇妙なことに気づいた。

 痺れたように重かった指先に、少しずつ感覚が戻っている。それが、この男の力であることは一瞬で理解出来たものの、俄には信じられなかった。何故、そんなことをするのか──。

 数刻の後、女を解放した男は、

「この部屋の中にあるものは、衣類も化粧品も好きに使って戴いて構いません。仕度が済んだら……私は階下で待っていますので」

 そう言い残し、何事もなかったかのように部屋を出て行った。

 後にひとり残された女は、男が消えた扉を見据えたまま、ただ、これから自分がどうなるのか、その不安感に思いを巡らせていた。
 
 
 
 
 
 
 

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