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薔薇の下で ~ Under the Rose 奇譚 ⑤ ~

 
 
 
【~Under the Rose~】 秘密で・内緒で・こっそり

 

***
 
 

平日の昼下がり、ぼくは映画館のチケット売場の傍にいた。

今日、ここに、彼女が映画を観に来るはずなのだ。そう──吉岡怜子が。

今日で必ず足がかりをつけ、早めに終わらせるつもりだ。焦れば事を仕損じる──そんな事はわかっているが、仕損じるつもりはない。

(……来た……!)

人混みの隙間から見え隠れする吉岡怜子の姿を、ぼくは見逃さなかった。

次回上映の列に並ぶ彼女から、間に2~3人置いて立つ。彼女が予約した席の隣は、既に調査員が確保していた。彼女と反対隣の席も。そのチケットは、今、ぼくの手の中にある。

やがて前の回が終わり、観終わった客と、これから観ようとしている客が一斉に動き出した。ほくもその動きに合わせて場内に入り、映画のパンフレットを購入すると、ゆっくりと彼女の隣の席に腰を下ろした。

先に席に着いていた彼女は、どうやら何も買わずに真っ直ぐに着席したらしい。隣に座ろうとするぼくを一瞬見上げた彼女が、不思議そうに首を傾げるのが目の端に映る。恐らく、一度だけ合わせたぼくの顔が、記憶のどこかに残っていたのだろう。

彼女が座っているのは通路側。その隣がぼく。ぼくの隣は空席になるようにしてある。男がひとりでこんなロマンス映画を観に来る設定としては、『振られた』が一番説得力ありだろう。

(……さて……と……)

仕損じるつもりはないが、とりあえず彼女がぼくに興味を持ってくれない事には始まらない。ここ数回の『仕事』にはなかった緊張感。

ぼくは静かに、昔の感覚を呼び起こした。

映画のストーリーは、ぼくにとっては退屈極まりないものだった。欠伸が出そうになるのを懸命に堪え、真剣に観ているふりをする。

隣にいる怜子の様子を窺えば、これと言って変わったところはなく、眉ひとつ動かさずにスクリーンに見入っている。この映画に興味があって来たとはとても思えなかった。

(……さてさて……目測を誤ったかな……)

もしかしたら、作戦変更を余儀なくされるかも知れない、と心の中で溜息をつく。薔子には『今回で決める』と豪語した手前、少々罰が悪いが、これも仕方のない事だ。

──だが。

映画が終わってエンドロールが流れ出し、客によっては早めに出ようと動き出す頃。ぼくも席を立つ心構えを固めた、その時。

「……ううう……」

それまで無表情だった怜子が、突如号泣し始めた。号泣、と言うと大袈裟だが、周囲の客を驚かせるには十分な音量。そして、必然的、と言おうか、客たちの視線は怜子を経た後、隣に座っているぼくに注がれた。

怜子とは反対隣の席は空席──つまり、ぼくは状況的に、他人の目には彼女の連れ、に見えたであろう。この状況、考えようによっては使える。

フッと短く息を吐き、ぼくは動いた。

「……これ……」

ぼくが怜子の目の前にハンカチを差し出すと、涙を流したままの彼女の目が、ぼくの手を見たのがわかる。しばらく眺めていた彼女は、差し出されたものが何なのか、ようやく認識出来たらしく、ゆっくりとぼくの顔を見上げた。

「……どうぞ」

ぼくの顔とハンカチを交互に見やり、おずおずと受け取って涙を拭う。

「……入れ替わり制だから……とりあえず出ましょう」

彼女を促し、ぼくは外へ連れ出した。

(……さて、どうするか……)

目を真っ赤にした女連れで、洒落たレストランだのカフェに入っても仕方ない。ぼくが変な目で見られるだけだ。

(……このまま最初の予定通り行けるか……?)

ぼくは怜子を、ぼくたちのホームグラウンドであるバー『 Under the Rose 』へと誘なった。あそこなら薄暗いし、何より『事情』をわかってくれているから。

簡単な仕切りのあるテーブルで、泣き腫らした顔の怜子とぼくは向かい合って座った。彼女は、ぼくが渡したハンカチを握りしめたまま下を向いている。

適当に頼んだ飲み物が運ばれて来ると、頭が少し持ち上がり、目線をグラスに向けたのがわかった。

「……綺麗な色……」

掴みは良かったらしい。

「勝手に頼ませてもらったけど……プースカフェのレインボー……まんま虹って名前だよ。……まあ、一般的には……どっちかと言うと観賞用だね。ここのは悪くはないと思うけど……飲みにくかったらこっちの方がいいと思う」

並べて置かれたグラスを勧める。

──ピンク・レイディ──

その名の通りピンク色がキュートな印象で口当たりも良いが、ジンベースのカクテルはそれなりにアルコール度数が高い──『レディキラー』の異名を与えられる程度には。

「……可愛い色……」

ほんのりと笑い、口をつける。表情から察するに、心を惹かれたようだ。ぼくは何も言わずに心の中だけで頷き、自分が頼んだスコッチを含む。あとは、何も訊かない。

黙ってグラスを傾け、軽いものをつまんでいると、やがて落ち着いたのか怜子が顔を上げた気配。

「……あの……」

手元のグラスから目線だけを渡す。一瞬、怯んだように肩をすくめ、もう一度背筋を伸ばしたところを見ると、どうやら意を決したらしい。

「……ご迷惑を……おかけしました……」

そう言って、深々と頭を下げた。

「……いや……」

ぼくの方からは、やはりそれ以上は訊かない。これが不思議な事に別の効果を生む。それを、ぼくは経験的に知っているから、だ。つまり──。

「……私的なことで申し訳ありませんが、ちょっと色々とあって感情が昂ってしまって……」

……計算通り。敢えてあれこれ訊かなければ、勝手に話してくれる。

「……そうですか……生きてれば色々ありますよね」

ぼくの言葉に、少し意外そうに顔を上げた。

「……あなたでも……あるんですか?」

こんな言い回しをされるのも初めてではない。昔は「どう言う意味だ」と思ったものだが、何度か同じ事があれば自ずとわかるようになる。──自惚れるつもりなどなくても。

「……そりゃあ、ありますよ。何もなくて、男がひとりであんな映画を観に行ってると思いますか?」

驚いたようにほんの少し目を見開き、納得と困惑が入り交じった顔でぼくを見つめた。すぐに逸して下を向く。

「……すみません……そうですよね……人それぞれ、色んな事がありますよね……」

「でも、その中には、時に素晴らしいことも混じる……そう、例えば……出会い、とか……」

グラスを口に運びながらつぶやくと、彼女の目が再びぼくを捉えたのがわかる。それに合わせて、グラスの縁から視線だけを渡す。彼女の目の真正面に向けて。

──そのまま数秒。目を動かす様子が全くない怜子に、ぼくは囚えたのを確信した。

「……もう一杯、どう?」

「……はい……戴きます……」

頷き、ぼくはオーダーした。

『ロングアイランドアイスティー』を。

フラフラに酩酊した怜子を、半ば抱えるようにして『いつもの』部屋へと運ぶ。

酔いが回り始めた彼女は、堰を切ったように己の身にあったことを洗いざらいぶちまけ、そして潰れたのだ。その勢いは、傍から見れば凄まじいものであったが、見慣れたぼくにとってはどうと言う事もない。

ミスもしていないのに首切りに合いそうな危うい状況である事、片想いしていた相手に失恋が確定した事、など。

正直、何の感慨も湧かない。ぼくの過去など聞いたら、知り合った事を激しく後悔するだろう。

ソファに座らせると、苦しげな表情を浮かべる。

「水、飲む?」

冷蔵庫から冷たい水を取り出し、頭の位置が定まらない怜子の背中を支え、ゆっくりと飲ませた。

「……ふ……」

むせそうになる口からグラスを離し、背もたれに促す。怠そうにしなだれかかった怜子は、自分の手の上に顔を伏せた。その様子を、ぼくは上から見下ろす。

そんな状態の女を眺めていても、何も感じない。飲ませた罪悪感も、そしてそのままモノにしようと言う欲情も。全く何も感じない。

ぼくは、そのまま部屋を出ようと踵を返した。──と、その時。

「……………………」

怜子が何かをつぶやいた。うわ言、と言うよりは、むしろ寝言に近いほどの。だが、ぼくには聞き取れた。いや、聞き取れてしまった。

『……あの時、山際産業に近づいたりしなければ……』

彼女はそう言った。

詳しく聞きたかった。ただ、直に部屋を出ることを連絡してしまっていたぼくは、早くここから出なければならない。第一、そのひと言だけを発し、怜子はもう完全に沈没してしまっていた。

仕方なく諦め、ぼくは階上の部屋へ向かうしかなかった。

すっきりしない気持ちのまま、最上階の扉を開ける。部屋に入ると、大窓から眼下を見下ろす薔子の後ろ姿。白いシャツを一枚羽織り、ブランデーグラスを持った彼女がゆっくり振り返り、微笑んだ。いつもと同じ艶やかな薔薇のような微笑みを。

「お疲れさま」

そう言ってグラスを置き、ぼくに近づくと、腕をするりと首に回して来た。腰を抱き寄せると、その感触でシャツしか身に付けていないことが瞬時にわかる。いつもなら、瞬殺される瞬間。だが、今日は──。

『山際産業』

その名前がぼくの意識を引き戻す。

薔子と縺れ合うように倒れ込みながら、ぼくはとうの昔に固く封印した扉を、自分で抉じ開けようとしている事に気づいてしまった。
 
 
 
 
 
 

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