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声をきかせて〔第13話〕

 
 
 
 ぼんやりとした意識の中で気づいたのは、どこかわからない場所の椅子に座らされたこと。近くで何かを話している声が聞こえるけれど、言葉自体は耳に入って来ない。……が。

「藤堂。大丈夫か?何があった?」

「藤堂くん。わかる?」

 いつでもぼくを安心させてくれるその二つの声に、意識が少しずつ明瞭になって行く。

「……課長。……今井さんも……」

 ぼくの顔を覗き込んでいた二人は、安心したように顔を見合わせて頷き合う。

「……ここは……」

 どこかの店のようだったが、意識が働かなかった。

「……いいから。はい、これ飲んで……熱いからゆっくりね」

 今井さんがぼくの唇にそっとカップを充てがい、少しずつ傾ける。喉に流れ込んで来る温かくて優しいミルクの味。パサパサに渇いていた唇から喉を潤し、ゆっくりと胃の中を包んで行く。

「大丈夫ね?はい、これ持って」

 そう言ってぼくの両手にカップを持たせ、横の椅子に腰かける。

「……藤堂。いったい何があった?あんな状態のきみを見たのは初めてだったぞ」

 課長の問いかけに、ついさっきの出来事が脳裏に甦る。

「……それは……」

「専務に聞いたが……昨日、護堂家の仁志氏と会ったそうだな。そのことと関係しているのか?」

 ぼくが口ごもっていると、課長は一気に本筋を突いて来た。課長の目は誤魔化せない。昔から。こうなっては隠していても仕方ない。

「……フラれました……完膚なきまでに」

 手で顔を覆いながら白状した。すると二人が同じように「えっ」と言う反応をし、顔を見合わせる。

「雪村さんに……と言うことか?」

「……そうです」

 二人の顔を見ることさえ出来ない。今井さんにもあれだけ励ましてもらったと言うのに。ちゃんとトライする前にエラーしてしまった。

「……藤堂くん。自分の気持ちを伝えたの?ちゃんと……」

 今井さんの言葉に首を横に振る。

「伝えようとしている途中で察せられて……遮られた挙句に……牽制された……」

「……それって……」

「焦り過ぎたぼくの失敗ではあるけど……それ以前の問題だったんだ……」

「え?」

 ぼくの言葉に、再び二人が不思議そうに顔を見合わせ、ぼくの方を見る。

「どう言うことだ?それ以前の問題って……」

 課長の言葉に、一番、辛い言葉を言わなければならない事実に気づく。

「……誰よりも大切な人が……いる、と……言われました」

 二人が息を飲むのがわかった。

「で、でも……それって、相手は男の人、って決まってないんじゃ……ご家族かも知れないし……」

 ぼくは再び首を振った。今井さんの精一杯の励ましを感じるが、今回ばかりは、その言葉ではとても納得できるものではなかった。あの言い方からは、間違いなく、雪村さんが想う男、だと考える方が自然だろう。

 ところが、今井さんは退かなかった。

「藤堂くん。その何とかって人と会ったことも含めて、覚えてる限り詳しい経緯を話しなさい」

 断固とした口調でぼくに言う。はっきり言えば命令形だ。驚いて顔を上げると、課長が唖然として今井さんの横顔を見ている。だが、彼女の顔は真剣そのものだった。

「……詳しくって……」

 ぼくも困惑を隠せない。しかも今、一番思い出したくない、一番辛い、そしてある意味、恥ずかしいこと、を全て包み隠さず話せ、と言っているのだ。彼女は。

「いいから。今さら、そんなことであきらめるつもり?」

「ちょ、ちょ、ちょ、今井さん。『そんなこと』って……」

 さすがに片桐課長が助け舟を出してくれる。……が。

「そんなこと、ですよ。今日日(きょうび)、実は結婚してます、とか言われた訳じゃなし。男か女か、はたまた誰なのか正体もわからない相手、しかも本当に存在するのかすらわからないような相手ですよ?」

 今井さんはさらりといつもの調子で言う。片桐課長も返す言葉がないようだった。海外営業部における最強の敵は、実は課長ではなく彼女かも知れない。

「実在しないかも知れない、そんな相手に、彼女を囚われたまんまで……いいの?」

 彼女はぼくの目を真っ直ぐに覗き込む。

「 Try and Error ……まだ仏の顔は二度目じゃない?」

 『Try and Error』……彼女の言葉に、思考が動き出すのを感じた。

「藤堂。『人間、万事塞翁が馬』って言葉もあるしな。何がどう転ぶかわからん。一か八か、今井観音さまのお告げを聞いてみたらどうだ?」

 まいった、と言うように、それにしては面白そうに課長が発破をかけて来る。そうだ。仁志氏にも全力を尽くす、と約束したのだ。こうしていられるうちは、まだ、全力には程遠い。

「ほら、まずは、Try!」

 今井さんのその言葉に促され、ぼくは仁志氏との会話に始まる一連の経緯を、記憶にある限り詳細に話し出した。ショックが大きかった分、強く記憶として焼き付き、正直、却って忘れられないくらいに鮮明に覚えていることに苦笑いが洩れる。

 時おり入る質問に答えながら話していると、不思議なもので頭の中が整理され、思考がクリアになって行く。だからと言って起死回生の鍵が見えた訳ではないが。

 一応、自分ではこれで全部、と思うところまでを話し終わると、今度は今井さんから情け容赦ない確認が入る。

「そこ。そこのニュアンス、もうちょい詳しく」とか。

「そこんとこは、……に、なの?……には、なの?」とか。

 折れそう、で何とか踏ん張っていた心をバキバキに折られた気がする。彼女からの確認が途切れると、どっと疲れが押し寄せて来た。

 彼女はぼくが話したことをあれこれメモに書きなぐり、それを「あーでもない、こーでもない」と組み合わせたり外したりしながら、何やら考え込んでいる。隣にいる片桐課長も既に引き気味だった。

「藤堂くん。もう、この際、50パーセントの可能性にでも賭けるでしょ?賭けるよね?」

 ……ぼくには選択の余地はないようだ。確かにぼくは、例え0.01パーセントの可能性であっても賭けるしかない。『全力を尽くす』という約束を果たすために、それしかないのは間違いないのだから。

「……やっぱり人間って。冷静な時って適当な言葉をハメ込んで逸らかすことが出来るのに、何故か、本当に逸らかしたい時って、核心の部分を口にしちゃったりするのね」

 意味不明なことを呟きながら、今井さんが自分で書きなぐったメモを置いた。

 ━そして。

 ついに御神託がくだったのだろうか。彼女は「うん」と言うようにひとり頷き、ぼくの方を見た。その目にあるのは……何だかよくわからないまでの力強さ。と、みなぎる自信。思わずゴクリと息を飲む迫力だった。

「藤堂くん」

「は…………」

「ふたり、いるわ」

「は…………?」

 課長の目が泳いでいる。いや正直、ぼくも同じような状態だと思うが。

「『誰よりも大切に思う人』と『何よりも傷つけたくない人』は、私の見立てでは違う人だと思う」

「え……え~と……今井さん?」

 驚きで声も出ないぼくの代わりに、課長が何とかその意図を聞き取ろうとしてくれている様子が窺える。

「一人だろうが二人だろうが『大切な人』がいたら、藤堂には何の救いも望みもない……と……思うのですが……」

 ……が、課長の声も小さく尻すぼみになって行く。かと言って、ぼくも何と言えばいいのかさっぱりわからなかった。

「片桐課長、せっかちですね。ちゃんと最後まで聞いてください」

「……すみません……」

 今井さんに瞬殺された片桐課長は、昼間の協議会とはまるで別人のようだ。平時であれば笑える場面のはずなのだが、いい歳の男二人、今は全くその余裕がない。

 今井さんはメモを見ながら続ける。

「私が藤堂くんから聞いた印象ではね。そのふたりは別人で、最後の『その人にだけは~』の件(くだり)はこのふたりを同時に指してると思う。つまり、知られたくない人はふたりいる、ってことね」

「……なるほど」

 課長が感心したように聞いている。順応が早過ぎる。ぼくの思考は追いついて行かず混乱していた。

「藤堂くん。また頭の中で難しく考えてるでしょ」

「ごめん、今井さん。簡単に考えてもぼくにはよくわからない」

 苦笑いしながら、もう正直に言うしかなかった。

「ま、本人にはわかりにくい……か。そうかもね」

 今井さんの呟くような言葉に、課長が「えっ」と言う反応をする。

「本人って……ああ、藤堂がこの問題に関わってる、ってことか」

 課長の言葉に、今井さんは無言で課長を見つめる。その無言の圧力に、課長が怯えているのが何となく伝わって来る。が、ぼくも圧倒されて口を出せない。

 今井さんは「しょうがないわね」と言う顔をして、再度、ぼくの方に向き直った。思わず居住まいを正す。すると、今井さんは衝撃的なことを口にした。

「結論から言わせてもらうけど。藤堂くん。私はね。雪村さんの言う『誰よりも大切に思う人』は、あなたのことだと思ってる。だから、『知られたくない人』のひとりも、必然的にあなただと思う」

「……え……」

 今度は課長とぼくが顔を見合わせる。いくら何でも突拍子がなさ過ぎる。驚きのあまり、その根拠を訊き返すことも出来なくなっている男二人。

 もし今井さんの言う通りなら、ある意味、ぼくにとってはこれ以上嬉しいことはない。が、驚き過ぎて、そんなことも吹っ飛んでいた。

 ぼくたちのアホ面に痺れを切らしたのか、今井さんが自分の見解を最初から説明し始める。

 ぼくは正直、仁志氏との会話の内容など関係ないように考えていたが、彼女にとってはそこにも重要ポイントが混じっていたらしい。仁志氏と二人で会った時の話を聞いた後で、社長、専務、課長も含めて五人で会った時の話まで遡って事細かに説明させられたからだ。

「何て言うか。人って、とっさの時に本音が出るものじゃないです?」

 今井さんが切り出す。

「まあ、確かに」

 課長が返した言葉に彼女は続けた。

「もちろん藤堂くんの記憶が確かなら、なんだけど」

 その言葉に少し不安になり、知らず知らず次の攻撃に身構える。……が。

「まず、そのお義兄さんの話だと、雪村さんは少なくともお義兄さんには藤堂くんのことを話していたってことでしょ。しかも、藤堂くんに彼女のことを頼んで来るくらいだから、お義兄さんの中ではかなり高い評価になっている印象よね」

『静希が言ってた通り』

 確かに仁志氏はそう言っていた。

 彼女に指摘されて改めて気づく。仁志氏の言葉に。自意識過剰になるつもりはさらさらなかったが、いや、だからこそ、なのか。どんな風に話されているのかは気になったが、『高い評価になっている』などとは考えていなかった。単に同じ部署の責任者だから、という可能性しか考えていなかったからなのだが。

「そして、お義兄さんの『プライバシーに関わる』って表現。これが『誰の』プライバシーなのかってところが重要よね。何となくだけど、雪村さん以外の誰かも含まれてる気がするの」

 課長が感心したように頷きながら聞いている。ぼくにしても、聞く人によってこんなにも解釈することに差が出るものかと、正直、驚きを隠せない。

「……気になるのが『あの子には罪はないのに』って言葉なんですよね。悪いと思ってやったことではない、結果としてそうなってしまったけれど悪いことではない、だけど『誰か』が知ってしまうと深く傷つくこと、そして大切に思う男性にも知られたくない、こと……」

 今井さんはため息をつく。

「これだけは、正直……解釈の仕方で全く別物になってしまいそう」

 課長も顎に手をあてて考え込んでいる。

「単純に考えれば、異性関係のトラブル……とか、なんだけどな」

「そうですよね。でも、それだと『誰か』を深く傷つける、って表現に繋がらない気がするんです。申し訳ないですけど、今、大切に思う人に知られたくない、とは思っても、過去の人に知られて傷つくのがどうこうって、終わってる相手だったらハッキリ言ってどーでもいいですから」

 課長の表情から「そんなバッサリ行けるのは今井さんだけなのでは?」と言いたげなのが読み取れたが、口には出さないところはさすがだ。

「それに大体、過去の異性関係でそんな死ぬほど洩れることを恐れるってないと思うんですよね。いくら何でもそこそこの年齢で何もなかった、なんてあんまり考えないですし、ましてや護堂家の失墜を狙えるほどのネタじゃないし。……じゃあ、あとはって考えたら、例えば傷害事件だったり事故だったり、くらいですよね」

「それも、好きな人に知られたくないってのはあっても、誰かを傷つける、って表現とは少し違う気がするな」

「……ですよね。それに彼女にそんなイメージもないですし。とすると、もう予想範疇を超えちゃうんですよ……」

 二人はそんな風に言っているが、既に今井さんの仮説が正しい、という前提になっている気がする。ある意味、ぼくは当事者だから、二人のようには考えられないところがあるのだけれど。

「でも結局のところ、その『何か』は藤堂くんが雪村さんに直接訊かなくちゃいけないこと、なんですよね」

 二人の会話を他人事みたいに聞いていたぼくは、今井さんの言葉で一気に心が引き締まる。

「それと……」

 何かを言いかけて彼女は言葉を止め、メモを見ながら考え込む様子を見せた。その表情がどこか気になる。今までの表情と違う気がしたのだ。……が、彼女は「いっか」と小さく呟き、ゆっくりとぼくの方を見て、最後に希望のひと言をくれた。

「藤堂くん。最初に言ったように、間違いなく雪村さんもあなたに心を寄せていると思う。ただ、その『隠しておきたいこと』のために表に出せないだけで。『その人にだけは知られたくない』という言葉が、すべて、そのことを指し示しているわ」

「え……」

 情けないことに、今井さんが言う『その言葉にすべて指し示されている』の意味を、ぼくには読み取ることが出来なかった。『その人にだけは知られたくない』という言葉。それが何故、雪村さんがぼくに心を寄せてくれている事実、を指し示すことに繋がっているのか。

 ぼくの顔に『さっぱりわかりません』と書いてあったのだろう。だが、今井さんは今度ばかりは真面目な顔のまま続けた。

「もしね……もし、本当に周りに洩れるのが怖いだけなら、『その人にだけは』なんて言葉を使ったりしないわ。『騒ぎになってしまうから関わらないでくれ』で済むもの。わざわざ、あなたに向かってその言葉をぶつけたってことは、彼女の真意は『あなたにだけは知られたくない』ってことなのよ、藤堂くん」

 今井さんの真っ直ぐな目が、それが間違いない真実だ、と確信を持って言っているようだった。もちろん確率は50パーセントだ。それは彼女もぼくもわかっている。それでも。「信じろ」と今井さんの目が言っていた。

「藤堂。おれも今井さんの意見に一票だ」

 課長もぼくの背中を押してくれる。そうだ。課長は0.01パーセント以下だった契約の可能性を引っくり返して来た人だ。賭けて、負けてしまったこともある。それでも一線で戦っている人だ。ぼくはかつて、誰よりも近くでその姿を見ていたはず。

「……中途半端で立ち止まっている方が……キツいですね」

 課長に言われた言葉は、そのまま、その通りだった。

「引き返す気がないなら、進むしかないぞ」

「……はい……」

 仁志氏が言っていたように、多少、強引にでも、抉じ開けるつもりで彼女に相対するしかないのだろう。優しいふりをした躊躇いが、時として逆に作用することもある。

 傷つけたくない。その気持ちはもちろんある。だけど、彼女は既に傷ついていて、だからこそ、他の介入を拒んでいる。

 これ以上、彼女の中に踏み込みたいのなら、無傷と言う訳には行かないだろう。彼女も。そして何より、ぼく自身が。それ相応の対価を覚悟しなければ。仁志氏のように。

 ぼくが顔を上げると、二人は力強い笑顔を浮かべていた。そして、今井さんが決定的な後押しをくれる。

「藤堂くん。そんなはずは絶対にないけど、もしも……もしもよ?私の読みがはずれていて、あなたがバキバキに折れるくらいフラれた時は、私が責任とって慰めてあげるわよ」

 ぼくは驚きで目を見開いた。彼女がこの言葉の裏に込めた捨て身の覚悟に、恐らく課長も気づいただろう。このぼくでさえ気づくほどだったのだから。

 彼女なりの最大限の励まし。私が責任持って保証してやる、と。絶対に大丈夫だから行って来い、と。

 だからこそ。だからこそ、ぼくは気づかないフリをする。

「それは怖いから遠慮したいな。二度と立ち直れないくらいバキバキにされそうだ。その時の慰めはむさ苦しく男同士で……課長にお願いしたいです」

 笑いながら答えると、課長も気づかないフリをして返してくれる。

「おう、まかせとけ。また浜崎さんに頼んで、いい酒、記憶ごとなくすくらい飲ませてやる。安心しろ」

 ぼくたちの言葉を聞いた今井さんが笑みを浮かべた。大丈夫だ。この二人がいてくれるなら、ぼくは進んで行けるはず。

「大体ね。そもそもお義兄さんの言葉から考えても、彼女の様子から考えても、異性の影なんか見えないわよ?見えたらお義兄さんだって藤堂くんにアプローチなんてして来ないしだろうし、ね」

「そりゃあ、その通りだ」

 課長も笑って同意した。

「……行きます」

 ぼくがそう言ったところで、「はい、これ。景気づけの一杯」と後ろからグラスが置かれる。

「……浜崎さん!」

 驚いて周りを見回せば、そこは浜崎さんのバーだった。他の客からは見えにくい奥まった席。

「浜崎さん、絶妙のタイミングです。……ここに伺う途中で、藤堂、ゾンビみたいなきみと遭遇したんだ」

 課長が笑いながら言うと、浜崎さんも笑顔を浮かべて続ける。

「なかなか見ものでしたよ、藤堂さん。やはり、いい男は憔悴していても絵になるものだ、と感心したほどです」

 ぼくは穴があったら入りたいくらいの恥ずかしさで、思わず手で顔を覆った。が、課長たちは他人事だと爆笑する。

「ほら、藤堂。浜崎さんの今日のお勧めの一品だ。……浜崎さんも宜しければ一杯お付き合いください」

 そう言って、ぼくと今井さんにグラスを渡した。

 「では、お言葉に甘えて」と、浜崎さんが追加のグラスを持って来ると、課長は今井さんに向かって、

「今井観音さま。藤堂への激励に、何かありがたいお言葉を一節(ひとふし)賜わりたいと存じますが」

 わざとふざけた調子で言う。一瞬、目を丸くした今井さんはすぐに口元に不敵な笑みを浮かべ、ぼくの方にグラスを掲げた。

「 Do your best!」

 「ぶっ!」と課長が吹き出したが、何とかそれ以上を堪えグラスを掲げた。

 グラスの合わさる小気味よい音が響く。飲み干して、ぼくは立ち上がった。

「課長……」

「おー。明日に備えて、帰れ、帰れ。前みたいに送っては行かんぞ。今日は美女を無事に送り届けなくちゃならないからな。当然、そっちが優先だ」

 ニヤニヤしながら言い放った課長に浜崎さんが吹き出す。ぼくは二人に深く一礼した。課長は笑顔で腕組みをしながら手で「行け」の合図を、今井さんも笑顔で手……いや指をヒラヒラと振っている。浜崎さんに会釈をし、ぼくはひとりで店を出た。

 大通りまで出てタクシーを拾う。
 

 さっき今井さんが言いかけて、結局、言うのをやめた言葉。実はそれがそもそもの核心を貫いていたこと。今井さんはあることからその『核心』に気づき、それでも想像の域を超えないから……と、敢えてぼくに言わないでおいてくれたこと。

 そのことをぼくが課長から聞くのは、もう少し先の話。
 

 ━そして。

 ぼくは自分のことだけで精一杯で。

 今井さんの、この人並外れた深い洞察力と察しの良さ、そして理性的な性格が、この後、彼女自らを苦しめる事態へと陥れることになるなんて。

 この時のぼくには、いや、たぶん課長でさえ、知る由もなかった。

 
 
 何はともあれ、ぼくの長い二日間が始まろうとしていた。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 

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