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かりやど〔伍拾伍〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
終わることはない旅路
 
この身体に流れる血のように
 
 

 
 

 身体が壊れてしまうのではないか、と言う程に泣き続けた数刻後、ようやく意識が途切れるように、美鳥は眠りに落ちた。
 そのまま抱えて眠り、朝を迎えた朗は、起こさないようにそっとベッドを抜け出す。
 
 リビングに入ると、朝食の支度をする春さんと、新聞を手にコーヒーを含む夏川の姿。いつもと変わらない光景。
「おはようございます」
「おはようございます、朗さま」
 挨拶を交わすと、春さんが朗の後ろを覗くようにしている。
「朗さま、お嬢様は……」
「……少し、疲れているようだったので……起こさないで来ました……」
 一瞬、顔を見合わせたふたりは、すぐに納得したように頷いた。
「じゃあ、お嬢様の分の玉子焼きは別にしておきましょうね」
 春さんの言葉に、夏川が口元を緩める。
「さあさ、朗さまと先生はしっかりと召し上がってくださいな」
 あたたかく立ち昇る湯気に、朗の顔も綻んだ。
「はい」
 男ふたりの声が揃う。
 
「……朗さま……美鳥さまは……」
 熱い味噌汁をすすりながら、夏川が窺うように訊ねる。
「……ようやく、今までの緊張から少し解放されたみたいで……それから、やっと昇吾の事を我慢しなくて良くなったのもあるでしょう……」
「……そうですか……」
 夏川が安心したように頷く。だが、寂しげに、
「……ずっと……必死に我慢していたんですね……」
 ひとり言のように、ポツリと呟いた。
「……はい……美鳥の中で、ここまでは、と言う決め事があったんでしょう……」
 それが良い事だったのか、は朗にはわからなかったが。そして、やらないで済む事なら、そうして欲しくもあったが。
 だが、昨夜のあの様子を思い出すに、終えなければ、美鳥の方が壊れてしまったのかも知れない、とも思う。どうしても、あの過程が必要だったのだ、と。
 その時、足音が聞こえ、美鳥が目をこすりながら入って来た。
「……おはよ……」
「おはよう、美鳥」
「おはようございます、美鳥さま」
 見るからに腫れぼったい目。泣きはらしたのが一目瞭然であった。
「……いい匂いがする……」
 その言葉に、春さんが声をかける。
「お腹が空かれたんじゃありませんか、お嬢様。昨夜、何もお召し上がりになられませんでしたし……」
 テーブルに促され、美鳥はおとなしく腰かけた。だが、まだ眠そうな目でぼんやりしている。
「……頭痛い……」
 ひとり言のように呟くと、朗が心配そうに顔を覗き込んだ。
「……熱でもあるのか?」
 額に触れると、特に熱さは感じない。
「……泣き過ぎですよ」
 ボソリと夏川が呟いた。プクっと膨れた美鳥の前に、春さんが別に取っておいた玉子焼きと温め直した味噌汁を置く。
「はい、どうぞ。昨夜の分も、しっかり召し上がってくださいませ」
 しっかりと盛られたゴハン。朗の方がたじろいだが、美鳥は黙々と食べ始める。
「……玉子焼き、美味しい……」
 春さんが嬉しそうに笑った。
 
 完食した後、美鳥はテレビのニュースを見ながら新聞を開いた。目を通す顔は、いつもの表情を取り戻している。朗もその場でパソコンを開いた。
「……やっぱり、黒沼がどうこうなっても、副島が動く様子はないみたいだね」
 先に新聞に目を通していた朗が呟く。
「……うん。予想はしてたけど……黒沼ってホントにバカだよね。副島をこそ、しっかり味方にしとけば良かったのに……」
「……それで?黒沼はこのまま放置、で終わり、って思ってていいのかい?」
 不安を隠さずに訊ねる朗を、美鳥が上目遣いで見た。薄っすらと口元が笑う。
「……ひとつだけ……二度と、復帰出来ないようにはするつもりだけどね」
 何か言いたげに顔を上げた朗を、やんわりと手で制した。
「……殺さないよ……」
 そう言われれば、それ以上は何も言えない。美鳥の言葉を信じるしかなかった。
「……それから……」
 何を言われるのか、一瞬、身構えている自分に苦笑する。
「……倉田さんの事だけど……」
 予想外の方向。
「……倉田さんが……どうかしたのかい……?」
 視線を一点に固め、美鳥は少し考え込んでいるようだった。早く続きを聞きたい──急く気持ちを抑え、朗はじっと待つ。
「……結論としては、朗たちが言ってる『倉田さん』って人は……副島の息子だって……」
 朗は声も出せず、何の反応も出来なかった。見開かれた目だけが、唯一、驚きを表している。
「……本当に……?」
 美鳥は黙って頷いた。
「……じゃあ、別の意味でも、彼が“緒方昇吾”を知らないはずはない……って事?」
 再び、美鳥は頷く。
「……じゃあ、やっぱり味方のフリをして、ぼくたちを監視していたのか……?」
 朗は、自分でも驚くほどのショックを受けていた。そして、その事を自覚している事も、また複雑であった。
「……そんな人だとは思えなかったが……」
「……たぶん、監視していた、の意味合いが違うと思う」
 美鳥の言葉に首を傾げる。
「どう言う事だい?」
「……監視していたのは……ううん……正確には、何かあった時に対応出来るようにしていたんだと思う……副島側に、ではなくて、こちら側のために……」
 朗は一瞬、その言葉の意味を考えた。脳内で反芻する。
「……ぼくを……つまり緒方昇吾を助けるために、敢えて、って事かい……?」
「……たぶん……」
 それもまた驚きであった。
「……一体、何故……」
「……それは、ちょっと込み入った事情はあるんだけど……」
 歯切れの悪い返事。だが、気になる言葉。
「込み入った事情って?」
 訊かれる事は予想していたであろうに、美鳥は下を向いて黙り込んだ。
(……また、ひとりで抱え込んでダンマリか……)
 溜め息が洩れるも、仕方ない、とも思える。しかし復讐が終わった今、もう敢えて隠し事をする必要はない、とも思うのだ。それでも、朗は言葉を選んで語りかけた。
「……翠(すい)……」
 穏やかに呼びかけると、目だけを上げて朗に向ける。叱られるのを警戒する子どものような目。
「……まだ話せないかい?」
 ゆっくりと前屈みになり、覗き込むように見つめる。
「……もう、終わったんだろう?」
 再び、美鳥の目は下を向いた。
「……どうしても話せない事がない、とは言わないよ。だが、きみが黙っている事は、『ぼくに話してはいけないから話さない』のではなくて、ほぼ『自分が背負わなくてはいけない事だから』と言う思い込みから来ている、とぼくは思っている。……違うかい?」
「………………」
「……もう、この段階において、そんな風に思わなければならない事案は、ほとんどない、と思うんだけど……」
 答えたくないのか、答えられないのか、美鳥は黙り込んで下を向いたままだった。
「……確かに、ぼくはきみより少し歳上ではあるけど、きみのように継ぐべきもののための教育を受けた訳じゃないし、背負うものがある訳でもない……世間的に見たらただの若造だ。……でも……」
 そこで言葉を切ったのは、美鳥に自分の方を向かせるため、である。思った通り、美鳥は様子を窺うが如く、朗の方に目を上げた。そこで、しっかりと目を合わせ、朗は問う。
「……力くらいは……ぼくの方がある、と思わないか?」
 ほんの一瞬、美鳥の目が泣きそうな色を浮かべた。
「……ん?」
 その後、朗の目をしっかりと見つめ、だがそれでも首を縦には振らない。
「……ごめんなさい……」
 何をそんなに隠したいのか。朗には全くわからなかったが、今の段階ではこれ以上言っても無駄、と判断した。
「……翠……そんなに言いたくなければ仕方ない。……だけど、忘れないで欲しい……いつでもぼくは、ここにいる」
 そう言って傍に行き、ふわりと抱きしめる。
「……うん……」
 背中に回された手が、朗のシャツを掴んだ。
 

 
 その数日後。
 
 美鳥、朗、夏川が何となくリビングに集まり、各々違う事をしている時である。誰が見るともなく、何となくついていたテレビから流れたニュースに、男ふたりが釘付けになった。
「……黒沼が……自ら完全に引退……」
 朗が不安そうに美鳥を見る。
「……美鳥……何かしたんだね……?」
 その質問に、夏川も美鳥を見つめた。
「……笑顔でおわかれしただけだよ」
 ふたりの視線を、特に気にする様子もなく答え、ふわりと笑う。
「……笑顔でおわかれ、って……黒沼と会った訳じゃないだろう?」
「……伊丹にお願いした。……“療養中”の黒沼に、私のメッセージを届けてもらうように」
「……メッセージ?」
 不思議そうな朗と夏川に、美鳥の唇が艶やかに花開いた。
「……私の姿と一緒に、ね……」
 ふたりが顔を見合わせる。
 
 ふたりには詳しくを語らなかったが、美鳥が伊丹に頼んだメッセージ、と言うのは、至って単純な仕掛けであった。だが、通常の状態であればともかく、不安、猜疑、恐怖に支配されている人間相手なら話は別である。
 黒沼は、以前までの黒沼ではなく、「いつでも殺せる」と言う美鳥の脅しに怯える、ただの老人となっていた。その黒沼に、美鳥の音声メッセージをつけた映像を見せた、だけの事である。
 本当にどうと言う事もない仕掛けではあったが、黒沼への効果は覿面だった。恐らく、黒沼の目には──いや、心には、幽霊か、幻でもあるかのように映った事だろう。
 その証拠に、運び込まれた精神科では一時的なノイローゼ、程度の診断であったものが、半精神錯乱の状態にまで悪化した。
『……そんな風に笑うな!』
『……わしには関係ない!わしは知らない!』
『……やめてくれ……!』
 などと半狂乱で叫び続け、一時退院したにも関わらず、再び病院に運び込まれる始末。原因がわからず、対処のしようもなく、医師も匙を投げた。
 
 命を狙われた時にかかって来た、美鳥からの電話。その存在を知っていた秘書は、比較的新任であったため、松宮財閥の件は知らされていなかった。そのため、良くある脅迫電話としてしか認識されなかったのもある。
 
 結果として、黒沼は引退せざるを得ない状態となった。年齢的にも、これから回復して復帰、の見込みは、ほぼないであろう。何しろ引退の話も、代理人を通したほどだ。
 
 ここまで来て、美鳥の本来の目的は、全て果たされた、と言えたかも知れない。
 

 
 一方、黒沼の引退は、副島サイドにも少なからず衝撃を与えていた。
 
 にも関わらず、慌てふためく周囲を尻目に、副島は一切、動こうとはしなかった。側近たちの方がどうしたものか、と副島の顔色を窺うありさま。指示がないため、結局、誰も何も出来ないままだった。
 
 唯一、確認を取ったのは小半だけである。
「……本当に、何もしなくて良かったんですか?先生……」
 だが、その訊き方も形式的なもので、感情がこもっているものではなかった。業務として、とりあえず訊いている、と言うような。
「……何の事だ?」
「……黒沼先生の件です」
 副島が目を上げ、小半の顔を見た。
「……構わん」
 しかし、答えると同時に、副島はすぐに書類に目を落とす。
「……何故です?黒沼先生が動けなくなった今、先生以外に代われる人は……」
「……代わる必要はない。……代わるつもりもない。放っておけ」
「……しかし、このままでは、先生の事をあれこれ言う人間も出て来るでしょう」
 書類を置き、副島は再び顔を上げた。
「……構わん。言いたい奴には言わせておけ。……そもそも、何をしても、何もしなくても、とやかく言う輩は出るものだ。むしろ、本来、黒沼を良く思っていない人間は多い。ただ、怖くて諂っていただけで、こうなって大喜びしている者もいるだろう。私が動けば、調子に乗って追随するつまらん輩が増えるだけだ。それとも、何かしておいた方が良い事でもあるか?」
「……いえ……」
「……ならば、今後一切、黒沼の事には触れるな」
「はい」
 返事をした小半が、部屋を出ようと扉の方に向かう。すると、
「小半」
 予期せず、副島が呼び止める。
「はい?」
「……この間の話だが、進めていいのか?」
 ほんの一瞬の間。
「……はい……」
「……本当にいいんだな?」
「……はい」
 じっと小半の目を見つめ、副島は静かに目を伏せた。
「……わかった」
「……よろしくお願い致します」
 
 退室した小半は、閉めた扉に凭れるようにして大きく息を吐き出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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