魔都に烟る~part12~
ローズが目覚めた時、薄暗いながらも陽は完全に昇り切っているようであった。
心も身体も重い。
淫靡な余熱、昨夜の余韻を残す気だるい身体を、ベッドから引き剥がすように起こす。
自分の身体を確認すると、昨日、浮かび上がっていた不可思議な紋様は消えていた。代わりに、身体中に刻み込まれた印(しるし)。
叫び出したくなるくらいの屈辱。頽(くずお)れそうになるほどの羞恥。
恐怖すらも感じられないくらい、ワケがわからなくなるほど、レイに嵐のように翻弄され、最終的な記憶は途切れてしまっていた。
震える唇を噛み締め、零れそうになる涙を堪える。
(……こんなことで泣く訳にはいかない……こんなところで挫けてる訳にはいかないのよ……)
必死で自分に言い聞かせる。
(……目的を果たすまでは……ここで立ち止まってる場合じゃない)
顔を上げ、虚空を睨むように見つめた瞳には、明るい中では目立たないものの妖しい金色の光。
意を決したように立ち上がったローズは、身仕度を整え、緊張する身体を奮い起たせながら階下に降りて行った。
ダイニングに入ると、だが、テーブルにレイの姿はなかった。安堵の気持ちより、強い驚きと衝撃が走り抜ける。
(……何故……?)
顔を合わせるのが気まずい、などと考えるような男ではないだろう。では、何故か?
考えながら椅子に着くと、執事のヒューズがポットを持って近づいて来た。
「ローズ様、おはようございます」
「おはよう。……レイ……は?」
ローズの言葉に、
「セーレン様は用事を済ませてからお出でになるそうです」
ヒューズは紅茶をカップに注ぎながら、いつもと変わらぬ静かな口調で答えた。その変わらなさが、逆にローズの心をざわつかせる。
「……用事って何なのかしら?」
呟くようなローズの問いに、ヒューズはチラリと視線を向け、
「……大切なお手紙のお返事を用意していらっしゃいます」
小さく頷くような仕草で答えた。
「……そう……」
変な話ではあるが、もっともらしく『嘘』だとわかる。そして、ローズが『嘘』に気づいていることは、恐らくヒューズもわかっているであろう。
しかし、今日のローズに食い下がる気力はなかった。むしろ、いきなり顔を合わせずに済んだ安堵感の方が優勢になって来る。
ヒューズが注いでくれたミルクティーを含んでいると、嫌でも昨夜のことが思い出された。
今まで遭遇した、どんな相手よりも強く感じた恐怖感。心のどこかで覚悟すら決めさせるような、そんな絶対的な感覚。
何よりも、振り払おうにも振り払えない、拭い去ろうにも拭い切れない、身体中に刻み込まれた印。
そして、閉ざされた氷室のように冷たく、青白い焔のように熱く残る余韻がローズの身体中を火照らせ、否応なしに現実であることを突き付ける。
その反芻に耐えながら、黙ってカップに口をつけているローズの耳に、
「おはようございます、セーレン様」
静かなヒューズの声が、まるで矢のように突き刺さった。
顔を向けると、扉の方から歩いて来るレイの姿が目に映る。いつも通りにしなければ、と思うのに、身体は正直だった。
「……おはようございます、ローズ」
何事もなかったかのような声。いつもと変わらぬ態度。その様子が、却ってローズの恐怖心を煽る。
「……お……おはよう……」
無理やり声を絞り出す。頷いたレイが静かにローズの脇を通り過ぎた瞬間━。
「…………!?」
ローズはレイの後ろ姿を見遣った。
(……この香り……これは……)
通り過ぎるレイから舞った香り。いつもとは明らかに違う。だが、ローズはその香りに憶えがあった。
(あの時、部屋の中から香って来た……?)
━そう。
それは、真犯人と思しき存在を見かけた夜、レイの部屋の中から漂い、ローズにも纏わりついたあの香り。
一体、何の香りなのか。何とも言えない不思議な香り。だが、香水と呼ばれるもののような湿り気のある香りではなく、もっと乾いた印象の香り。
カップに口をつけるレイを上目越しに窺う。本当に、何もなかったかのような様子ではあるものの、身構えずにはいられない。━その時。
「……ローズ……」
身構えていたことなど、何の役にも立たなかった。
不意に名前を呼ばれ、カップを持つ手が戦慄き(わななき)、カチャカチャと受け皿との不協和音を引き起こす。
「……何……?」
隠そうとしても隠せない動揺、そして恐怖。そんなローズを、意に介した様子も見せせないレイの言葉。
「……大丈夫ですか?」
「…………!?」
胸の内の広がって行く困惑。
(どう言う意味なの?大丈夫か、って……一体、何が大丈夫か訊いているの?)
「……何のことを言ってるのかしら?」
自分を思うがままにした男が。
されるがままでしかなかった自分に。
(……この人は……一体、何を考えているの?何を知っているの?)
ローズには理解出来なかった。それは至って普通のことであったろう。
だが、その言葉に含まれた本当の意味を知る時━それは否応なしに、過去との遭遇にも繋がることを、この時、まだローズは知らなかった。
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