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声をきかせて〔第5話〕

 
 
 
 片桐課長と久しぶりにサシで飲んだ翌週明け。

 欧州部やアジア部も含めての打ち合わせは週の半ばから始まるため、いよいよ準備も本格的になって来た。

 そのため、帰りのタクシーの中で課長に言われた『謎の言葉』の意味を深く考えることもないまま、忙しさに身を任せる状態に陥る。

 打ち合わせに関しては、経験の浅い雪村さんに仕事内容を少しでも見せるため、ぼくは時間調整が可能な限り彼女を伴って出席することにした。

 ……というのは口実で、彼女の能力に期待する気持ちの方が実は大きい。

 彼女を出席させる理由が『企画の仕事を把握して慣れてもらうため』というのであれば、はっきり言ってほぼ必要ない。彼女はぼくが説明したことは即座に理解してくれるからだ。

 むしろ、ぼくが許容し切れない部分を補填してもらえるよう、彼女にも聞いておいてもらいたいというのが正直なところで、別の耳で聞いておけば誤解も曲解も、そして洩れも防ぎやすい。

 先日の歯抜け状態の打ち合わせと違い、全メンバーが揃う初めての打ち合わせの日、ぼくは他部署との顔合わせも兼ね、予定通り雪村さんにも同行してもらうことにした。

 企画室からは永田室長とぼくたち二人、総合部の正木部長、欧州部の室井部長と曽我課長、米州部の矢島部長と片桐課長、アジア部からは林部長と、出張中の津島課長の代わりに今井さんが出席していた。

 ぼくは隣に座っている雪村さんに、着席順に出席者の名前を紹介して行ったのだが、ほとんど必要なかったようだ。彼女は元々総合部だったこともあり、主だった上長の名前は既に把握できていた。さすがに全員の顔までは覚えていないようだったが。

 まず永田室長から、前回よりもかなり詳細に企画の説明があり、営業サイドから確認の質問が入る。それに対して室長は、ぼくたちからの情報を確認しながら慎重に答えて行く。

 それぞれの部署の出席者が、時々耳打ちしたりメモを見せ合ったりしているのを見ていてわかったのだが、今井さんはアジア部の津島課長の代理出席ではあるものの、林部長にかなり頼りにされているようだ。

 部長が今井さんに何かを耳打ちするたびに、彼女が懇切丁寧に説明しているらしく、そのたびに頭を掻きながら首を捻ったり頷いたりしている部長の様子が何だか可笑しい。

 ……と。

 時折、その様子を片桐課長も見ていることに気づいたぼくは、自分の予想に確信めいたものを感じ、思わず顔がほころびそうになるのを堪えた。

 ふと、打ち合わせ中に雪村さんの手元を見ると、綺麗な文字でびっしりとメモを取っていることに気づいた。議事録が作れそうなくらいで、よくこれだけ書けるものだというくらいの量を、話を聞きながら書き込んでいるのだから大したものだと思う。

 彼女の事務処理能力には、とにかく驚かされる。

 ひと通りの説明と質疑応答も済んだところで次回の日程を決定し、実質的な第1回目の打ち合わせは終了した。

 各々、部署に戻って行く中、ぼくは先日の礼を述べるために片桐課長に近づいて行った。課長もぼくに気づくと手を挙げてくれる。

「課長、先日はありがとうございました」

「いや、おれの方こそ楽しかったよ。また近いうちに行こう」

 その言葉に頷くぼくの後ろに、雪村さんが立っていることに気づいた課長が笑顔を向けた。

「雪村さん?米州部の片桐です。雪村さんが総合部にいた時はほとんど接点がなかったけど、今回、ご一緒できて嬉しいです。よろしく」

 昔と変わらない爽やかな挨拶。これなら、さすがの雪村さんも…………

「雪村です。よろしくお願い致します」

 …………いつもと全く変わらなかった。

 雪村さんの、その無機質とも言える挨拶を、課長は何ら気にする様子もなく「じゃあ、また」と爽やかな笑顔で去って行った。

 さすがにそれくらいのことで怯んだ様子を見せるような課長ではない。……特に美女相手には。

 いつもは親しみやすさを隠さない課長だが、ちゃんと相手を選んで対応していることは間違いない。誰彼構わず「いや~お綺麗ですね」などと、一歩間違えるとセクハラとも取られるようなセリフを初っ端から言うようなことはしないのだ。……特に雪村さんのようなタイプには。

 何かを言って失言になってしまった場合、無表情のまま無言でスルーされるのが一番堪えるものだ。

 だが、雪村さんの方から思わぬ言葉が飛び出した。

「米州部の片桐課長と仰ると、3年……4年ほど前のニューヨークでの案件を引っくり返した方ですか?」

 ぼくは一瞬、答えに詰まるほど驚いてしまった。

「……よく知ってたね」

 雪村さんが言っている『4年ほど前の案件』とは、他社との競合で我が社の負けがほぼ確実になった契約のことだ。

 あの時は社長直々の指示で、営業本部長、果ては専務までが乗り出したものの、完全に座礁して沈没寸前。絶望的状況だった。

 それが、当時、まだ係長だった課長の尽力で土壇場での逆転劇になったのだが、このことは実は公にされていない。

 その事実が伏せられた背景には、その時に課長が抱えていた他の案件が絡んでいる。動きが制限されるのを防ぐために、課長自らの提案で社内には少し違う形で公表され、そのため社内でも一部の人間しか知らないのだ。

 ただ、社長としては、課長のその努力に報いたい、という気持ちがあったのだろう。

 何しろあの契約の巻き返しで、我が社は最大の危機を乗り越えた、と言っても過言ではなかったのだから。

 その後すぐ、抱えていたもう一件の契約を勝ち取った時に、係長から課長へと昇進した。係長になったのも、課長に昇進したのも、我が社はじまって以来、最年少での快挙だった。

 課長は間違いなく、若手営業部のトップを独走していたのだ。いや、正確には今も、だ。

 だが、今はそれよりも、雪村さんがその件を知っていたことの方がぼくには驚きだった。ぼくは当時、まだ課長の元にいて、ある意味その活躍を一番身近で見ていたから知っているのだ。それなのに。

「総合部にいると、営業や企画とは別の意味で、いろいろと耳に入ることも多いですから」

 雪村さんはそれ以上は何も言わなかった。一応、公にされていない手前、周りのことも配慮したのだろう、と思った。この時は。

 だが、彼女がこの話を聞いたのは、実際にはぼくの予想外のルートからであったことを、この時はまだ知らなかった。


***


 第1回目の打ち合わせが行なわれた後。

 当然、企画室内での打ち合わせも行なった。

 試しに雪村さんから打ち合わせの報告をしてもらったのだが、棒読みのような話し方以外には特に問題はなく、報告自体の内容は完璧なものだった。

 あれだけの文字の書き取りもすごいものだが、それらをほぼ暗記していることにも驚かされる。と言うか、書き取りは必要ないのではないかとすら思う。

 メンバーからの質問に対する返答も的確で、返す返すも棒読みだけが惜しいところだ。

 が、この報告会によって、ある程度のことは雪村さんに任せても大丈夫だという確信は持てたように思う。

 まだ着任からひと月も経っていないのだが、メンバーからも信頼を寄せられる様子が見えたからだ。

 企画室のメンバーは、ぼくを含めて現在6名。男5人の最年長はぼく。他は1~3歳若いメンバーで構成されている。もちろん上層部は別だが。

 つまり雪村さんは紅一点であり、しかも企画室に於いては一番新人、それでいてぼくと同期なので年齢は最年長というややこしい状況だ。

 その複雑な状況に、普通であれば何かしら心配になるところ……ではあるが、皆の様子を見ていると取り越し苦労に済みそうでホッとする。

 これは別に企画室に限ったことではないのだが、とにかく全員が目一杯に近い仕事量を抱えている状態なので、出来ればあと2名は欲しいというのが正直なところだ。

 そうなれば、打ち合わせにも企画室のメンバーを常時1~2名連れて行けるのだが、今のところ難しそうだ。そういう意味では、雪村さんのような人が着任してくれたことは本当に助かったと言える。

 その雪村さんの着任に関しては『歳上の新人』という意識よりも、何はともあれ『一緒に仕事ができるのが嬉しいくらいの美女』であるとか『噂に聞く才媛は、噂に違わぬ才媛だった』と言った意識に塗り替えられた感がある。

 片桐課長も言っていたが、雪村さんがどの部署でも『知る人ぞ知る才媛』だったことは間違いない。それが良い方向に作用してくれるのはありがたいことだった。

 そんな中、企画室のひとりで、ぼくたちの次に年長の野島くんが提案して来たのは雪村さんの歓迎会。突然の着任だったこともあり、流れ的な紹介で済ませてしまっていたのは確かだ。

「そうだね。じゃあ、室長たちと雪村さんに都合を訊いてみるよ」

 ぼくがそう答えると野島くんは、

「いえ、室長には返事を戴いてるんです。すみません、主任に話すのが後になってしまって。本当は室長から話してもらおうと考えていたので……」

 何か言いにくそうにしている彼の様子を不思議に思っていると、

「室長に提案したら、『他の上長たちは参加しないけど、ぼくはいつでもいいから、雪村さんのことは藤堂主任に訊いてみてくれ』……と」

 彼の答えに、思わずぼくも苦笑いする。永田室長は雪村さんのことを気に入ってはいるが、やはりあの鉄面皮を前にすると落ち着かないらしい。あの綺麗だけど無表情な顔で断られるのが嫌なのだろう。

「そうか、わかった。ぼくから雪村さんに確認しておくよ」

「はい。お願いします。もし雪村先輩が大丈夫なら今週末でも来週でも。ぼくたちの方が合わせますので」

 野島くんはホッとしたようにそう言い、仕事に戻って行った。

 誰の目から見ても、見るからに雪村さんは『歓迎会』や『送別会』などの社内行事への参加意思がなさそうな印象なのだろう。正直、ぼくもそう言う先入観がない、と言えば嘘になる。

 それでもこの歓迎会が、彼女にとってもメンバーと打ち解けるいい機会になってくれれば、と簡単に考えていたぼくは、やはりまだまだ甘かったのだろうか。

 どちらにしても、打ち合わせや営業への説明会が本格的になると、今度はもっと時間の調整が難しくなる。

 そうなると、いつ開催できるかもわからず、ヘタをすると誰の歓迎会なのかわからない状態になってしまう。それなら早いうちに行なった方がいい。

 ぼくは、その日のうちに雪村さんに歓迎会を開催したい意向を伝え、彼女の都合を確認した。その際、彼女から返って来た答えは、ある意味、想定内のことだったのだが。

「雪村さん。企画室で雪村さんの歓迎会をやりたいと思ってるんだけど、今週末は都合どうかな?」

 何となく参加を渋ることが予想されたので、ぼくは敢えて『参加することが前提』として訊いてみた。

「それは社の行事の一環として、でしょうか」

 やっぱりそう来たか、とぼくは心の中で苦笑いした。当たって嬉しくない予想が的中した時ほど虚しいものはない。

「……どうしても無理に、ってことではないけれど、皆、雪村さんとうまくやって行きたいと思っているんだ。室長も参加されるし、親睦を図るために少しだけでも……どうだろう?」

 ぼくなりにやんわりと伝えてみるが、彼女に関してはうまく伝わるのか、伝えられるのか全く自信が持てない。

 そんなぼくの不安を看破してくれたのか、雪村さんは少し迷った様子を見せながらも、思っていたよりはあっさりと承諾した。……快諾、とは言えないが。

 承諾してくれたことにひとまず安心したぼくは、室長たちにその旨を伝え、店などの手配は野島くんたちに任せることにした。

 その後、会場は会社近くの小綺麗な居酒屋に決まったことを伝えられた。

 週末━。

 打ち合わせの資料や、営業部への説明会で使う資料の確認に追われ、あっという間に歓迎会の当日。

 資料の半分は雪村さんが作成してくれたもので、ぼくは自分で作らなければならない量を今までの半分ほどに減らせたことになる。

 もちろん、全て目を通して確認をしなくてはならないが、雪村さんの作成してくれた資料はほとんど手直しが必要なかった。今までは土日もほぼ費やすことが多かったけれど、彼女のお陰でかなりの負担が軽減されたことになる。

 確認が概ね済む頃には定時だった。

「藤堂主任。そろそろ店の方に移動したいと思うのですが……」

 ぼくの仕事の区切りを気にしたのか、野島くんが申し訳なさそうに声をかけて来た。

「もうそんな時間か。もうすぐ終わるから先に行っててくれるかな。すぐに追いかけるよ」

 すると野島くんは、さらに言いにくそうに口を開く。

「すみません……雪村先輩も見当たらなくて。どちらにいらっしゃるかご存知ですか?」

 土壇場でキャンセルされるとでも思ったのか、可哀想なくらい困り顔だ。

「さっき資料を探してくれるように頼んだから資料室だと思う。ぼくが一緒に連れて行くから、皆は先に行ってて。あ、室長には声をかけてくれるかな。場所がわからないかも知れないから」

「わかりました。じゃあ、室長たちと先に行ってます。主任は場所はご存知ですよね」

「大丈夫。わかっているから。すぐに追いかけるよ」

 そう言うと彼は安心したように頷き、他の3人と共に室長を連れ、先に店へと向かった。

 ぼくは確認した資料を片づけ、雪村さんを呼びに資料室に向かう。

 海外営業部、特に欧州部と米州部は時差があるため、まだ現地からの連絡待ちをしている担当も多いだろうけれど、企画室から資料室までの廊下には既に人影はなく、物音ひとつしない。

 静かな廊下をひとり歩いて行くと、向こうの方から微かに人の話し声が聞こえて来た。

 まだ誰かいるのだろうかと近づいて行くと、その声は聞き覚えのある声だった。しかし、その声の主以外に他の声は聞こえて来ない。

 不思議に思い、さらに近づいて行くと、どうやら声の主は電話の相手と話しているようだった。思わず耳を澄ませる。

『申し訳ありませんが……』

 それだけははっきりと聞こえたが、その後の言葉は歩きながら話しているのか、よく聞こえないままかき消された。何かボソボソと話しているのだけはわかる。

 盗み聞きするつもりは毛頭なかったのだが、何故か、足が止まらなかった。そこを曲がれば資料室がある、廊下のどん詰まりの手前。

 曲がり角から資料室の方を見やると、女性らしき人影がこちらに背を向け、肩を竦めたような姿勢で電話を抱えて話しているのが見える。

『今日は部署内の歓迎会なので……』

 そう話す声が聞こえたと同時に声をかける。

「雪村さん?」

 その影が、ぼくの声にビクッと反応したのがわかった。

『すみません、急がないと……』

 抑えた声で早口にそう言って電話を切り、ゆっくりと振り返ったのは、やはり雪村さんだった。

「……藤堂主任」

 雪村さんの様子がどこか、いつもと違う。明らかに。

 不審に思いながらも気づかないふりをする。何故かそうしなければならない……そんな予感。

「ごめん、電話中だった?そろそろ店の方に移動する時間だから呼びに来たんだ。皆には先に行ってもらったから追いかけないと……」

 ぼくの言葉に一瞬の間を置き、

「すみません。資料がまだ見つかっていなくて……」

 彼女にしては珍しい、言いよどんだ様子が何か予感を深める。


 ━だが。


 追及するな。

 追いつめるな。

 ぼくの奥の方で、本能のようなものが叫んでいた。

「いや、今日はもういいから。早く店に向かおう。室長たちが待っているから」

 努めて普通に。徹せただろうか。

 彼女は眉を少し強ばらせたまま、

「……はい。すみません」

 そう言ってぼくの方に向かって歩いて来る彼女の顔は、元々、雪のように色白の肌が心なしか色を失い、氷のように硬く透明に見える。

 それが一層、彼女を侵さるべき孤高の存在に感じさせた。

 それでも、彼女と並んで廊下を戻りながら、さっきの電話のことを訊いてみる。

「……さっきのは、ご家族への電話?」

 彼女は一瞬だけピクリと眉を反応させたものの、すぐにいつもの様子に戻り、

「はい」

 とだけ、短く答えた。

 この時の彼女の電話の相手が、ぼくも知っている人物だったなんてことは、この時にはまだ知る由もなかった。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 

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