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声をきかせて〔第15話〕

 
 
 
 社への道筋、ぼくはあちこちに寄りながら雪村さんを探し続けていた。

 彼女はずっと目立たないよう、多くの人と関わらないよう、あまり広い範囲で敢えて行動しないようにしていた節がある。それほど遠くに行くとは思えなかったが、思いつめている人間の行動には油断はできない。

 しかし、仁志氏から彼女の思い出に関する場所、行きつけていた場所などの情報は入って来なかった。自宅と社の往復、多少の習い事や家族との外出、それ以外はほとんどなかったようだ。

 年頃の女性が、過去を恐れてずっとそんな風にしていのかと思うと、そして今、どこでどうしているのか考えると、心だけが先に行こうとする。焦るな。自分に言い聞かせ、何とか心を押し留める。

 もう一度、雪村さんの自宅の方に向かって行ってみようと、駅に向かおうとしているところで、ふいに携帯電話が振動した。雪村さんかと急いで取り出すと、画面に表示されていたのは今井さんの名前。

「はい、藤堂……」

「ちょっと!藤堂くん!今、どこにいんのよっ!?」

 ぼくの応答を吹っ飛ばして話し出す勢いに、思わず携帯電話を耳から遠ざける。

「企画室にかけたら外出中とか言うし……とにかく、今、ど……」

「本当に外なんだ。ごめん、今井さん。今、ちょっと立て込んで……」

「立て込んでるとか言ってる場合じゃないわよ!!今……今、どこよ!?」

 それどころじゃない、と会話を打ち切ろうとして、逆にぼくの言葉の方が飲み込まれた。むしろこんなに慌てた今井さんは珍しい。……と、彼女の口からスゴい情報が飛び出した。

「今さっき、雪村さんが歩いてるの見かけて……こんな時間に外にいるなんてありえないし、しかも何か様子が変だし……」

 思わず耳を疑う。

「ちょ、ちょっと待って、今井さん!雪村さんを見かけたって……本当に!?」

「そうよ!外にいるだけで変なのに、ものすごい深刻な顔してるから気になって気になってどうしようもなくて追いかけたいんだけど……私、今、ゲスト接待中で追いかけたくても追いかけられないのよーーー!」

 今井さんは息継ぎなしで一気にまくし立てた。

「今、何とか化粧室とか言って抜けてるんだけど本当に時間ないの!だけど絶対に業務外出じゃなさそうだったし、企画室に連絡したらあなたもいないし……」

「今井さん!雪村さんをどこで見かけたって!?」

「……ほら、あそこ。前にサンドイッチ食べた公園あったでしょ?あの近くよ……ちょ、待っ……yeah……sorry……」

 ゲストに返事をしているのか、小さく英語でしゃべる声が混じっている。

「ありがとう、今井さん!」

「ん。行かなくちゃ。切るわね。あとで報告は聞かせてもらうわよ?」

「……了解!」

 奇跡かと思える手がかりの提供に思わず顔が緩む。彼女には一生かけても返し切れない借りが……と考えかけて、恐ろしくなってやめた。

 改札を通り、電車を待っている間も心が先走ってどうにもならない。列車の中から仁志氏にメールを送る。確証はないが、とにかく行ってみると。

 列車を待つ間、雪村さんの携帯電話に何度もかけてみていたが、未だ返事はなかった。もう、今井さんからの情報が最後の砦のように思える。

 滑り込んで来た列車に乗り、最寄り駅まで向かう時間。ほんのその数分を、これほど長く感じたことはなかった。

 駅に着き、公園に向かって走る。そう言えば、雪村さんが昨日、今井さんにサンドイッチのことを教わったと言っていたのを思い出す。

 夜の帳が迫り、混じり合う夕方の微妙な空の色が、今のぼくたちの心情を表しているようだった。

 大きな公園だが人も疎らで、ここに雪村さんがいるのならすぐに見つけられそうな気がする。が、園内を探し回っても彼女らしき姿を見つけることが出来ず、焦りだけが大きくなって行く。

 ひと気の途切れる、本当に一番奥の方まで差し掛かったところで、ふと、目を吸い寄せられたベンチに座る人影。見間違えるはずもない細い後ろ姿。

 名前を叫ぼうとして、押し留まる。ここで掴まえられなかったら、最後のチャンスを失ってしまう……そんな気がして。

 ぼくは彼女が座り込んでいるベンチへと近づいた。彼女は俯いたまま身動きひとつしない。唯一、膝の上に置かれたその手の指だけが、握られたり緩んだり、僅かな変化を見せていた。

 ぼくが静かに傍に立つと、人の気配に気づいたのであろう彼女が、顔を上げ、ゆっくりとこちらを向く。……途端に、弾かれたように立ち上がった。

「……藤堂主任……どうして……」

 震える声。

「……捜したよ」

 彼女は唇を震わせながら、ただ、ぼくの顔を見つめている。

「ごめん。昨日のことがあったから、何かあったのかと思って……心配で堪らなかった。皆も心配している。ぼくと一緒に帰ろう……雪村さん」

 微かに頭(かぶり)を振りながら、彼女の足が少しずつ後退しようとしている気配を感じ、ぼくはジリジリと少しずつ距離を詰めて行く。

「雪村さん」

 その声を合図にしたかのように、彼女が逃げ出そうと動くより一瞬早く、ぼくは彼女を掴まえた。

「………………っ!」

 逃げようとする彼女を両腕に閉じ込める。昨日のように腕を掴むのではなく、身体ごと。

「……や……しゅに……放し……」

 逃げようと必死にもがく彼女を抱え込む腕に力がこもる。華奢な身体は強く抱きすくめると折れてしまいそうで。それがまた、ぼくの心を焦らせると同時に煽る。

「放さない、もう……!きみに……きみに何かあったのかと思って本当に!……本当にどうにかなりそうだった……!」

「…………しゅ…………」

 彼女の身体から力が失われていくのを感じる。だけど、ぼくは腕の力を緩めなかった。それは、彼女を逃がさないため、だけではない。このまま放したくない……ぼくの心がそう叫んでいた。

「雪村さん。お願いだから逃げないで……ぼくから。ぼくの気持ちから……」

 ぼくの腕の中で力なく崩折れそうになる彼女を、半ば支えるように抱きすくめながら必死で言葉を繋げようとする。

「頼むから……」

 それ以上の言葉は出て来なかった。ただ何とか、彼女を繋ぎ止めようとしているぼくの上着の袖を握る、彼女の指が震えている。

 無言のままに、甘く苦しい数刻が通り過ぎて行く。いっそ、このまま時が止まればいい。

 ━と、その時。

「これは、これは。お取り込み中の所をお邪魔してしまったようで……と言いたいところですが、こちらとしてはちょうど良い所に来合わせたものです」

 背後からの聞き覚えのない男の声が、突然、その時と空間を押し破って侵入して来た。

 彼女を抱きすくめたまま、ゆっくりと顔だけで振り返ったぼくの目に映ったのは、見るからに癖のありそうな、油断のならない目つきをした男。恐らく、この男が『髙田』と言う記者に違いない。やはり彼女の周りを嗅ぎ回っていたのだ。

 彼女の姿を自分の陰に隠したまま、ぼくは無言を貫いた。

「ほ……どうやら、私に心当たりがおありようですね。と言うことは、そのハンサムなご容姿、あなたが藤堂主任……ってことでしょうかね?」

 何とも嫌な感じの話し方をする。村瀬のストレートな暴言とは違い、本当の意味で厭らしい。だが、さすがに一応はその筋のプロと言うべきか。ぼくのことまですっかり調べ上げているらしい。

 それでも、一切、言葉を発しないぼくに苛立って来たのか、薄笑いを浮かべていた顔に微かに不機嫌そうな色が走る。冗談じゃない。気分が悪いのは、むしろこちらの方なのだが、と心の中で苦笑いする。

「そちらの女性が……雪村……静希……さん……ですな。いやいや、誠に絵になるお似合いのお二人でいらっしゃる」

 沈黙したままのぼくに痺れを切らしたのか、高田、と思われる男はさらに厭味ったらしく続ける。自分の名前を口にされた雪村さんが、腕の中で微かに身体を反応させた。

「私は記者でして……高田、と申しますが。その雪村さんに、ですね。色々とお伺いしたいのですがね?こちらに顔を見せて戴け……」

「その必要はないでしょう。彼女にあなたと話す義務も理由もない。お引き取り戴きたい」

 やはり、この男が高田だった。そうわかった瞬間、相手の言葉を遮断する。その瞬間、高田の目が色を変えた。

「あなたに言ってるんじゃありませんよ?藤堂さん?」

 言葉は丁寧だが、明らかに恫喝めいた口調を醸す。どうやら本性を現して来たようだ。

「ぼくは彼女の上司です。ご家族の同意も得て彼女を捜していました。あなたこそ、これ以上、彼女の周りをうろつかないで戴きたい」

 言いながら、腕の中の彼女が震えていることに気づく。

「余計な口出しは身の為になりませんよ。いくら部下だとは言え、そちらの女性、なかなかのヤリ手のようですしね。あなたが身を呈して庇うほどの価値がある大切な部下であるかどうか……」

 その言葉に雪村さんが激しく反応した。

「あなたに彼女の価値がどうこう言われる謂われはありません。お引き取りください。そして二度、彼女の前に現れないように願います」

 彼女を抱く腕の力を強めながら、敢えて淡々と、感情を抑えて突き放すと、高田は尚も続ける。

「おやおや。いいんですか?彼女の美貌にすっかり取り込まれているようですがね。どんな女かご存知で?正体を知ってもそんな事が言えますかね」

「彼女の正体?あなたこそご存知ない。彼女がどれだけ優秀であるか。どれだけ誠実に業務を熟しているか。そして何より、我が社にもなくてはならない存在であるか……あなたに説明しても無意味です。もういいでしょう。お引き取りを」

 ぼくの言葉に、高田は再び嫌な笑みを浮かべた。

「私が言っているのは仕事の能力のことではありませんよ。女……としての本性のことです。あなたもその女の美貌に目が眩んでいるようですが……」

「……そんなことが、何故、あなたに関係あるんです?ぼくが彼女に目が眩もうが眩むまいが、あなたの知ったことではない」

「私の話を聞いても、そんなことを言っていられますかな」

 高田は目に凶悪な光を浮かべながら自信ありげに宣う。

「ほう。そこまで言うなら、いいですよ。あなたの話とやらを聞いて差し上げても。ただし……」

 ぼくは正直、言い争いも含めて争い事は好きじゃない。仕事の論争でさえ。だが、この男だけは論破しなければ気が済まない。争うのではなく、付き纏うことに意味がないとわからせ、彼女から確実に手を退かせなければ。

「……あなたは切り札を失う、と言う訳だ」

 ぼくのその言葉に、高田の目は怒りを顕にした。

「……だったらお望み通り教えてやる。入れ込んだこと、後悔するなよ。その女はな……」

 高田がそこまで口にした、その時だった。

 突然、雪村さんが渾身の力でぼくの腕を押し遣り、ものすごい勢いで走り出した。

「雪村さんっ!」

「おい、藤堂とやら!知りたいんだろう!あの女はな……」

「あなたが何を言おうと、ぼくはあなたの言うことなど端から信じない。それに……」

 ぼくはもう高田の言葉を聞くつもりはなかった。この男に関わっている暇はない。

「……ぼくは彼女の秘密は全て知っている」

 それだけ答えてやると、ぼくは雪村さんを追った。

 後ろで高田が何やら喚いているのが聞こえたが、既にぼくにはどうでもいいことなのもあり、言葉自体は耳に入って来なかった。

 それよりも、雪村さんは予想外、と言うより、確実に足が早かった。このまま行くと繁華街に入ってしまう。それまでに追いつけなかったら見失ってしまうかも知れない。胸に不安が広がる。

 急激に人通りが増え、走りにくい上に、彼女の姿を捉えにくくなって来た。見失わないようにしなければ。焦りが汗のように全身に纏わりつく。

 その時、遠目に雪村さんが角を曲がったのが見え、ぼくは慌てた。その角に辿り着き、彼女が曲がった方を見やると、どこかの脇道に入ってしまったのか、それとも人波に飲まれてしまったのか、既にその姿を確認できなくなってしまっていた。

 まさか、こんなところで彼女を見失うなんて。せっかく、今井さんのお陰で掴まえることが出来たのに。人を掻き分け、脇道を覗きながら足を進ませる。

 彼女は、高田の口から自分の秘密をバラされることを恐れて逃げたに違いない。このままでは彼女は、ぼくの前から永久に消えてしまうかも知れない。そう考えると、背中を嫌な汗が伝う。

「……藤堂!」

 ふいに名前を呼ばれ、思考が止まる。その、聞き覚えのある声に。

 声の聞こえた方向に目をやると、そこには車に寄り掛かった村瀬が立っていた。驚いて目を見張るぼくに、村瀬は無愛想ではあるが、以前の好戦的な口調とは違い、至って普通の様子で話しかけて来る。

「えらい慌てようだな。もしかして、あの女を見失って……捜してる真っ最中……ってとこか?」

 ぼくは息を飲んで村瀬の顔を凝視した。

「やっぱり、な。雪村も、おれにも気づかずに、目の前をすごい勢いで走り去って行ったから、そんなとこだろうと思った」

「雪村さんを見たのか!?」

 ぼくは冷静さを保つことも、村瀬からの情報だと言うことも忘れて食いついた。

「ああ。専務から高田の話を聞いて気になってな。案の定、だ」

 専務から……?そう言えば仁志氏が『礼志が直接、村瀬氏の後輩に会いに行ってくれたんだ』と言っていたことを思い出す。

「おれが高田の言うことを鵜呑みにして乗せられたばかりに……直接、専務とこいつから話を聞いて目が覚めた」

 村瀬はぶっきらぼうに言い、身体を少し横にずらした。すると、車の中にいたおとなしそうな男が、こちらに向かって小さく会釈する。ぼくも小さく返した。彼が病気を患って退職した村瀬の後輩なのか。

「雪村は……この先にある公園を知っているか?そっちの方向に向かって走って行ったぜ」

 変わらず無愛想に村瀬が言う。ぼくが顔をじっと見つめると、

「ま、信じる信じないはお前の勝手だけどな」

 そう言うと運転席の方に廻り込み、乗り込む直前━

「……悪かった」

 目を逸らしたままボソっと言い、そのまま乗り込むと運転して去って行った。

「……公園……」

 その車を見送りながら呟いたぼくは、この先にはもうひとつ大きな公園があることを思い出す。村瀬はそこのことを言っているに違いない。

 何故か。村瀬の言葉を信じる気になったのは。それは、彼の目が以前と違っていたから。そう。誤解が解けたことで、彼の目の中にあった、曇り、濁り、のようなものがなくなっていたから、だろうか。

 どちらにしても、もう彼の言うことを信じてみる以外に雪村さんを見つける手段はないような気がしていたぼくは、とにかくその公園に向かうことにした。と、その時、携帯電話が振動する。

 確認すると、仁志氏からのメール。ただ、ひと言。『高田を確保した』とだけ、書かれていた。これで心配事が減ったことになる。ぼくは公園へと急いだ。

  急激に薄暗くなる夜の一歩手前。公園の入り口から入り、辺りを見回す。ほとんど人影はない。周囲に気を配りながら奥へと走って行く。ここにいてくれ。そう願いながら。

 すると、道端に女性用と思しきバッグが落ちていた。見覚えのあるそれは、確かに雪村さんのものに違いない。

 ここを通ったことは間違いないようだ。

「雪村さんっ!」

 ぼくは叫んだ。

 バッグを持ってさらに奥に進むと、完全にひと気はなくなっていた。

 ━と。

 小高い丘のようになっている頂に、小屋のような影が見える。ぼくは直感的にそこに向かった。

 上まで行くと小さな四阿(あずまや)があり、その片隅、柱に凭れ掛かるように立つ細い人影が、小さな外灯にほのかに照らし出される。ぼくは静かに近づいた。

「……思ったより足が早くて焦ったよ」

 彼女は顔を背けたまま俯く。

「きみを見失って焦っていたら……村瀬チーフがこちらに走って行った、と教えてくれたんだ。……きみに……悪かった、と」

 その言葉に、彼女は俯いたまま、ほんの少しだけ顔をこちらに向けた。ぼくが歩みを進めると、

「……それ以上、こちらに来ないでください」

 消え入りそうな、懇願にも似た声。

「……きみがこれ以上、ぼくから逃げないと約束してくれるなら」

 彼女は再び顔を背けた。

「……逃げようと逃げまいと……もう、意味はないでしょう?……だって……だって、聞いたんですよね……?」

「……何を?」

「さっきの……高田……と言う記者から……私のことを……」

 柱にかけた手の、指先が微かに震えている。

「……きみがスゴい勢いで逃げてしまったから……そんな暇なかったよ」

 彼女が少しだけ、顔を持ち上げた。

「……ぼくは、きみから聞きたい。きみの口から、全てを」

「……………………」

 昨夜のように焦らないよう。今度はゆっくりと、ゆっくりと、彼女の心に詰めて行く、と決めていた。

「……きみがどうしても話したくないのなら、それも仕方ない。でも……」

 彼女が柱に掛けていた手を握り締める。

「きみが隠していることが何であれ、ぼくにとっては。昨日の夜、きみから聞いた言葉、以上の衝撃をぼくに与えるものはないから……」

 その言葉に、彼女が僅かに肩を揺らした。

「聞いても聞かなくても、ぼくの気持ちは変わらない。ぼくが知らないでいることで、その方がきみが楽でいられるのなら、それでもいい。だけど……」

 ぼくは静かに呼吸を整え、思わず今井さんに祈る。

「それならば、逆に、ぼくは自信を持っていい……のだろうか。きみの心はここに……ぼくにある、と」

 彼女が大きく息を飲むのがわかった。

「きみは昨日、誰より大切な人がいる、と言った。その人にだけは知られたくない、とも。前向き思考にも程があるけれど、そこまで頑なになるのはぼくに……」

「……言わないで!」

 ぼくの言葉を遮り、彼女は震えながら自分で自分の肩を抱きしめる。

「……それ以上、言わないでください……」

 ぼくは静かに後ろまで近づき、肩を抱く彼女の手の上に自分の手を重ねた。彼女が身体中を締めるように硬直させたのを感じる。

「……ならば、聞かせて。……きみの方から」

「……………………」

「どちらの事実でもいい。きみの声で……」

「……変わらない訳がありません……」

「……え?」

 彼女が呟くように、初めて、ぼくの言うことに答える。

「……変わらない訳がない。……だって、私は……」

「……うん?」

 噛み締めるような沈黙。

 彼女の肩に、俯いて髪の毛に隠れた横顔に、迷い、恐れ、不安、躊躇い、そして、必要のない罪の意識━混じり合う複雑な感情が見える。

 ぼくは重ねた手に想いを籠め、ただ、待った。彼女の扉が開くのを。その、何分にも満たない数刻、ぼくの中は不思議と穏やかな海のようだった。このまま時が止まっていい、と思えるほどに。

 ━やがて。その時を断ち切り、彼女が顔を僅かにぼくに向ける。

 彼女のその様子は、羽ばたくの恐れる雛のように、言葉を発する勇気を探しているようだった。

「……私……」

 ぼくは何も言わずに、ただ、手に力を籠める。彼女はその手の下で、ゆっくりと、ゆっくりと、ぼくの方に身体を向け、その動きに合わせて、ぼくも手をゆっくりと放した。

 向き合い、立ち尽くしながら、彼女は震える声を絞り出す。

「……私には……私には、子どもが……います……」

 

 
 重く閉ざされた扉が僅かに開き、その隙間から一筋の光が差し込んだ。その瞬間。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 

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