新規合成_2020-03-01_18-03-32

呼び合うもの〔八〕〜かりやど番外編〜

 
 
 
 優一(ゆういち)の脳裏に、祖母・冴子(さえこ)の訴えが押し寄せた。
 責任は自分にある、責めるなら自分ひとりを責めてくれ――ひたすら、そう書き連ねていた理由に初めて納得が行く。
 
「昇蔵(しょうぞう)さまの不安は、むしろ陽一郎(よういちろう)さまがお産まれになってから増したようです。安全且つ確実な遺伝子保存を求められ、松宮(まつみや)の研究所に最優先事項として命じておられた、と……」
「でも、昇吾(しょうご)さまや美鳥(みどり)さまは……」
 夏川(なつかわ)としては、昇吾の産まれた経緯については、特に話す必要性を感じていなかった。まして、春(はる)にはそこまで説明する必要はない。
 
「そうです。可能性はゼロではない。それでも、昇蔵さまは待つことが出来なかった。陽一郎さまと美紗(みさ)さまが結婚して程なく、昇蔵さまは誰にも話さずに独断で……お二人の遺伝子をお使いになったのです」
 夏川が、一旦、言葉を区切ったと同時に春が息を飲んだ。だが、言葉を発することはなかった。正確には出て来なかったのであるが。
 
 重苦しい空間であった。
 だが、ただひとりの松宮家直系は、全ての開示を求めてやまなかった。
 
 その気持ちに応えるように、夏川は話を続けた。
 
「約束されていたそうです。お二人が自然に子どもを授かることが難しいと判断される年齢までは、決して使わないと。しかし、その約束は守られなかった……」
 悔しそうな表情を浮かべる。
 
「当時、主治医だった私の父さえ知らされていなかったのは、反対されることを予想した昇蔵さまが、絶対に逆らえない者だけを使ったからのようです。
 もし、父が知らされていたなら、どんなことをしても阻止したでしょう……いや、知らされなかったとしても、間を置かずに知り得たのであれば、どんなことがあっても陽一郎さまたちを説得するために尽力したでしょうが……」
 
 優一と和沙(かずさ)を除く全員が、言葉もなくうつむいた。
 今さら言っても始まらないことを、どうこう言えるはずもない。何より、一番やるせない思いを抱えていたのは、他でもない夏川の父であったと、彼の話しぶりから察せられたからだ。
 
 その時、ふと優一は思い至った。
「あの……夏川先生は、私を産んでくれた方のことはご存知ではないですか?」
 祖母の手紙にも、副島(そえじま)や育ての母・沙代(さよ)からの情報にも、代理母と言うべき人物の話はなかった。だが、確かに存在しているはずである。
「申し訳ない。その方のことについては聞いたことはありません。相手方のプライバシーに関わることなので、一切の情報を消してしまっていたのではないかと……ただ、奥様のことですから、考え得る最大限のことをされているのは間違いないでしょう」
「そうですか……」
 
 優一は肩を落とした。
 血のつながりはなくとも、自分をこの世に送り出してくれた女性──その人を知る術は、恐らくもうない。ここで得られない情報なら、もう他に知る者はいないと考えていい。それでも、確認出来たことで、ある種の踏ん切りもつけられた。
 
「優一さまがお産まれになって、事の真相を知った冴子さまはさぞかし驚かれたことでしょう。本来なら、松宮家次期当主のご誕生です。これほど喜ばしいことはありません。しかし、その時の冴子さまは、どうしても事実を……昇蔵さまが約束を違えたことを、陽一郎さまたちに話すことは出来なかったのでしょう」
「あの……祖父は……松宮昇蔵と言う人は、一体どんな人だったんでしょうか?」
 
 訊いてみたかったのは、むしろそこであった。
 この件に関してだけ言えば、松宮昇蔵と言う人物はひどく臆病で傲慢、身勝手に聞こえる。にも関わらず、他のことはおろかこの件に関してさえも、彼を悪し様に言う人間はいない。その事実は、優一に興味を抱かせるに十分と言えた。
 
「真面目で誠実、聡明にして怜悧、努力家でもありました。巨大財閥を背負い、率いるに相応しい御方です。そして、何より冴子さまを大切に想っておられた」
 遠い記憶を呼び起こすように、夏川が目を細める。
「だからこそ、松宮に関する責を、全てご自分で背負おうとされた。負う必要のないことまで。それをご存知だった冴子さまは、どうしても昇蔵さまのなさる全てを否定することが出来なかったのでしょう。だからこそ、信頼出来る者に相談し、託した。それが、冴子さまにとっては副島氏であり、あなたの育ての母上である倉田(くらた)沙代さんだったのです」
 
「沙代さん……」
 黙って耳を傾けていた春が、不意につぶやいた。
「それは、わたくしがお世話になる以前に奥様にお仕えしていたという……奥様が『沙代ちゃん』と呼んでおられた方のことですか?」
「母をご存知なのですか?」
 優一の問いに、春が首を振る。
「お会いしたことはありません。ただ、時おり奥様からお名前は伺っておりました。懐かしそうにお話しになられては溜め息をつかれて……そうでしたか、貴方様のお母様が……それで、わたくしは奥様との御縁を戴けたのですね」
 春は優一を真っ直ぐに見つめた。
「奥様は、貴方様のことも沙代さんのことも、片時もお忘れにはなりませんでした」
 そう言って、春は握りしめた己の手に視線を落とす。
「あの頃のわたくしには、奥様のお心の中にあるものはわかりませんでした。たまに遠い目をされて……それは昇吾さまや美鳥さまと過ごされている時に良くお見かけしました。
 お二人に誰かを重ねているような……いいえ、お二人の後ろに誰かを探しているような……今にして思えば、あの時、奥様はお二人を通して貴方様を見ていらしたのですね」
「…………!」
 何故か、春と言う老婦人のその言葉が、祖父母に対する優一の思い──敢えて言うのなら『痼』──を溶かして行くような気がした。
「赦す赦さないは、また別の問題です。優一さまにしてみれば、手放されたことは変えようのない事実……けれど、それと同じように、奥様たちが貴方様のことを想っていらしたことも、また事実でございます」
 
 皮肉なものであった。
 副島とも話したように、両親にその存在すら知られることなく手放された自分と言う存在は、そのお陰で難を逃れ、今、ここにいる。まるで、祖母は運命を知っていて、命をつなげてくれたようではないか、と。
 むろん、朗の前で口にすることは出来なかったが、恐らくは誰もが同じように感じているだろう、とも思えた。
 両親や妹たちと運命を共にしていたなら──そう考えない訳ではない。だが、母・沙代との日々が不幸せなものであったか、と問われれば、『否』としか言いようがないことも、また変えようのない事実であった。
 
「出生については、もう、十分です。ありがとうございました」
 どうしようもなく、こうなることが運命だったのだと、春の穏やかな人柄がそう思わせてくれたようにも思える。
 
 こうとしか定められないものが、この世には確かに存在する──そのことを優一は知った。
 
「教えてください。両親のこと、妹のこと、そして従弟のことを……」
 
 返事のように朗が目を瞑った。
 噛みしめるような間の後、瞼の動きに合わせてゆっくりと立ち上がり、傍の棚から幾冊ものアルバムを取り出す。
 
「データより、こちらの方が見やすいでしょう」
 厚手の大きなアルバムを開き、優一たちの前に置いた。
「これで全部と言う訳ではないのですが、燃えてしまったものも多く……これも出入りの写真館に保存してあったフィルムやデータから、あるだけやっと搔き集めたものです」
 
 そっと開いた最初のページには両親の結婚写真。その下には、少し歳を経た二人が満面の笑みを浮かべ、小さな赤ん坊を抱いている写真。
「美鳥が産まれた時です。結婚して15年近く経っていたそうです」
「15年……」
 両親の笑顔は、やっと授かった小さな娘の存在に輝いていた。
 既に過ぎてしまった、どうしようもなかったこととは言え、自分には与えられなかったもの──それは少なからず、優一の胸に痛みを覚えさせる。
「もし、今、陽一郎さまたちがここにいらっしゃったら、もっと喜びに輝いたでしょうに……」
 優一の心情を知ってか知らずか、春が涙を拭いながらポツリとつぶやいた。そのたったひと言が、不思議なほどに痛みを霧散させて行くのを感じ、思い直した優一はアルバムをめくった。
 
 そこには、満面の笑みを浮かべた小さな少女の写真。年長の少年が、溶けそうなアイスクリームのように甘い表情で少女を受け止めている。
 昇吾と美鳥であることはわかったが、それよりもある一点に、優一の目は釘付けになる。
「……瞳の色が……」
 少女の瞳は茶や黒味を帯びておらず、鮮やかに濃いグリーンであった。
「それが美鳥の生まれつきの……本当の瞳の色です。ほんの時折、松宮家に出るものだと聞いています。間違いなく直系である証として……」
「おれが先生の供として会った時はコンタクトだったのか……」
 つぶやいた優一の言葉は素になっていた。
「……カラーコンタクトを着けるようになったのにも訳があります」
 朗がつぶやくと、夏川がうつむいた。
 
「美鳥は松宮家の事件の後遺症で、一度、目が見えなくなっています。その時、瞳の色素も壊れてしまい、薄い翠色になってしまいました。さすがに日本人としては違和感があり過ぎる色であること、また、眼球保護の目的もあってコンタクトを着けるようになったんです」
 
 肩を強張らせた優一の手に、横から和沙が自分の手を重ねる。
 
「元の色が失われても、透ける翡翠のような瞳でした」
 
 愛おしげに語る朗の表情。
 和沙の手を握り返した優一は、もう片方の手でアルバムをめくった。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 

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