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かりやど〔伍〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 
 

 
 
誰の罪なのか
 
どうすれば償える
どうすれば赦される
 
壊れてしまったものを
元に戻すことは出来ないのに
 
 

 
 

 翠たちが入った部屋は、かなりの広さであった。部屋自体の造りも豪華で、奥に設置されているベッドもクイーンサイズ。坂口の『専務待遇』そして『重要案件』の程も窺えた。
 カーテンの隙間から外を覗き、翠は坂口の方を見遣る。
「シャワーはどうされます?お湯を張りますか?」
 ハンドバッグを置きながら訊ねる翠の表情は、広い室内でふたりきりであること、を意識している風でもない。が、坂口からの返事は言葉ではなかった。いきなり背後から抱きついて来たのである。
 これには、さすがの翠でさえ、一瞬、唖然とする。
「……坂口専務……シャワーを……」
 もう一度言ってみるも、興奮して我を忘れているのか、坂口の耳には翠の言葉など届いていないようだった。スーツの上衣を剥ぎ取るように脱がせにかかると、次いでブラウスの襟元を無理やり開き、首筋に顔を埋める。
 一度、肌に触れると歯止めが効かなくなったのか、身体をまさぐりながら翠をベッドへと押し倒した。
(……不粋な男……)
 自分の身体の上でせっつくように服を脱がせようと奮闘し、夢中で滑らかな肌を撫でまわしている坂口を冷めた目で一瞥する。男の重みを受けながらも、そのまま眉ひとつ動かさずに天井を見つめた。
「……感じない……」
 感情のこもらぬ翠の呟きに、坂口が気づく様子はない。ますます興奮して行く坂口に対し、翠の瞳は冷めたままだった。
「……こんなに綺麗な肌、今まで見たことがない……!」
 ひとり興奮する坂口の呼吸が、次第に早く、荒くなって行く。
 やがて直に肌を合わせたくなったのか、自分も服も脱ぎ捨て、再び翠に覆い被さった。が、坂口の動きに反し、翠は天井を見つめたまま微動だにしない。
 ──その時。
「……違う……」
 まるで感情の波がない表情のまま、翠の唇が微かに空気を震わせた。
「……えっ?」
 不思議なことに、無我夢中だった坂口の耳にもその囁きは届いたらしく、僅かに顔を上げて翠の顔を見下ろした。感情の色が褪せた翠の表情に、一瞬、息を飲む。
 だが、坂口の意識が記憶を留めたのはそこまでであった。
 

 
 突然、遭遇した堀内承子(ほりうちしょうこ)──その顔を見つめて硬直した朗の目は、瞬きすら滞っていた。
「……忙しいのに、何度も連絡してごめんなさい。今回はどうしても参加して欲しくて……」
 承子の言葉にも反応出来ず、朗はただ立ち尽くす。
「……さっきも断りの返事だったから、どうしようかと考えてて……用事が終わって車に向かっていたら、目の前に小松崎くんがいるから……一瞬、幻かと思っちゃった」
 笑いかけて来る承子から、朗は翳りを帯びた瞳を逸らした。俯いたまま目を合わせようとしない。
 その様子に、承子はこの再会が心底望まれていなかったことを察する。
「……あの……ごめんなさい……忙しいのに迷惑だったわよね……」
 悲しげに項垂れる承子を見ても、やはり朗には気休めや社交辞令は言えなかった。それは性格故の問題ではなく、『会うことを憚る確固たる理由』が存在するから、であるのだが。
「……でも玲子は……玲子はきっと小松崎くんに会いたいと思うの。……だって玲子は小松崎くんのこと……」
「……申し訳ないが……!」
 承子の言葉を遮るが如く、朗は楔のように声を発した。ビクッと反応した承子の言葉が止まる。
「……ぼくは行くことは出来ないんです」
 絞り出すような朗の言葉に、承子は眉根を寄せた。
「……どうして……!?」
 唇と言葉を震わせながら問い詰める承子に、朗は俯くことしか出来ない。強く握りしめ、震える拳。
「……急ぎの仕事の途中なので……失礼します……」
「……小松崎くん……!」
 一方的に話を断ち切り、足早に立ち去ろうとする朗の背中に、承子の声が追い縋った。足を止めた朗から、だが返事はない。
「……時間のある時に合わせるから来てね……また連絡するわ……」
「……連絡もしないで欲しいんです……二度と」
 承子が硬直する。
「……何度、連絡をもらってもぼくは行けません。……もし、理解してもらえないようなら……もう、連絡先も変えますので」
 今度こそ朗は走り出した。
「……待って!小松崎くん……!」
 背中を追いかけて来る承子の声。朗は逃げるように地下鉄の駅に向かい、階段を駆け下りた。この状況でホテルに入るところを見られる訳には行かず、地下通路を使って遠回りせざるを得ない。
(……何故、よりによってこんな時に……!)
 連絡先を変えておかなかったことを、今になって悔やんでも始まらない。変えられなかった事情を、今さら責めてみてもどうにもならない。
 地下道を必死で走りながら、だが、何よりも朗は焦っていた。
 承子とのことで、予定よりかなり時間を食ってしまっている。途中までは聞こえていた、翠の声と部屋に入ったらしい音、そして衣擦れの音は、いつからか聞こえなくなってしまっていた。それが朗の心を逸らせる。
(……間に合ってくれ……!)
 心の中で叫びながら、朗はホテルの裏口から飛び込んだ。
 
 用意しておいたスタッフの制服に手早く着替え、朗はリネン用のワゴンを押して翠たちがいる部屋へと急いだ。
 部屋の前に立ち、ノックをするフリ。部屋の客に中から開けてもらった風を装い、持っていた鍵で忍び込む。
 息を潜めて中へと進み、メインルームの扉を僅かに開けて様子を窺うが、室内に人の気配は感じられない。もう少し扉を開いて中を覗き込むと、脱ぎ捨てた服が広いベッドの傍らに散らばってはいるものの、肝心の持ち主たちの姿は見当たらなかった。
 足音を忍ばせて近づき、朗は目を見張った。翠が着ていたはずの服に重なるように、坂口のスーツと思しき一揃え。そして乱れたシーツ。
 奥を見遣る。バスルームに続く扉の前に静かに立つと、中から微かに物音が聞こえる。朗は陰に身を潜め、そっと扉を開け放った。
 流れる水の音。広い洗面台の傍には半裸姿の翠が立ち、開けっ放しのバスルームの中を見つめている。
「……翠……!」
 朗の呼びかけに振り向いた翠が、感情のこもらぬ目をしてふわりと笑う。
「……やっと、来たぁ」
 バスルームに目を戻した翠の様子に嫌な予感を覚え、中を覗き込んだ朗は硬直した。
「………………!」
 思わず息を飲む。
「重くて大変だったんだから」
 小さな文句を言う程度の軽い口調。しかし目の前には、裸でバスルームの中に浮いている坂口の姿。
 呼吸をしているのに、肺に空気が入って来ないような感覚。朗は眩暈を覚えた。
「だって、朗、遅いんだもん」
 そして背中から突き刺さり、胸まで貫く翠の言葉。
 少なくとも、全く予想していなかった、訳ではない。だがそれでも、現実に目の当たりにした光景が、朗の心を打ち砕きそうになる。
「……何故……!坂口は関係ないはず……!」
 よろけた身体を支えるように壁に手を着き、朗は叫んだ。
「口が軽過ぎるんだよ、その男。それに……」
 あっさりと杭を打ち込み、翠はさらに続ける。
「女にシャワーも浴びさせない上に、いきなり襲いかかるなんて……不粋過ぎると思わない?」
 振り返った朗は、薄笑いを浮かべる翠を瞬きも忘れて見つめた。目が笑っていない。いや、口元だけが笑っている顔、と言った方が正確だろう。やはりその瞳に感情の色はなく、浮遊感だけが漂っている。
(……もう少し早く来ていれば……!)
 自分を映さぬ翠の瞳を見つめながら、朗は爪が食い込むほどに拳を握りしめた。
「……朗?」
 ふわりと笑いかける翠。唇を噛み締めて俯き、朗はきつく眼を閉じた。
『……終了した。撤収するので、予定通り頼む』
 小型マイクに向かって声を絞り出し、すぐさま、リネンで丸ごと包んだ翠を、運んで来たワゴンで別の部屋へと移動させる。
 坂口のことは、坂口がいつも通り自分であの部屋を予約し、ひとりで部屋に入り、不慮の死を遂げた、ことにしなくてはならない。
 脳裏を過る坂口の最期の姿を、朗は必死で振り払った。
 
 全てを終えて部屋に戻った時、翠はまだバスタオルを巻き付けただけの、しどけない格好のままだった。
「……翠……何故、服を着ないんです」
「まだ、シャワー浴びてない」
 朗が訊ねると、理由になっているのかわからない返事。
「……何故、早く浴びないんです」
「朗が戻って来なかったから」
 朗は溜め息をつく。
「鍵は持っていましたから、シャワーを浴びてて構わなかったのに……」
 そう言った朗に、翠は思わぬ言葉を口にした。
「だって、朗が戻って来ないと洗ってもらえないでしょ?」
「……え……?」
 意味がわからず、朗の身体も思考も停止した。固まったまま翠の顔を見つめる。
「朗が洗ってね」
 反芻すればするほど、朗の脳内は混乱して行く。
「……何を言ってるんです?」
「あの男に身体中撫で回されたから……洗ってね」
 やっと口に出すも平然と言い返され、朗は唖然とした。
 翠のエキセントリックな物言いなど、今に始まったことではないが、さすがの朗も困惑を隠せない。
「来るのが遅かった罰だよ」
 返事がないことに痺れを切らしたのか、翠からとどめの一撃。
「……バスルームに行っててください。……すぐに行きますから……」
 拳を震わせながら、朗がやっとのことで答える。
「……ん……早くね」
 歩いて行く翠の気配を背中で感じながら、朗は数秒の間、身動き出来なかった。
 俯いて歯を噛み締める。
(……赦されない……永遠に……)
 絶望感を抱えたまま、朗は袖と裾を折ってバスルームへ向かった。
「……翠?開けますよ」
 声をかけて扉を開けると、高い位置からのシャワーを頭から浴びている翠の姿。
「……入りますよ」
 近づいてシャワーを止めると、翠の首筋にボディソープの泡をのせた。
「何で服着てるの?濡れるよ?」
 答えないまま、朗は黙々と翠の身体を洗いシャワーで流す。
「……もう、いい。自分で流す」
 答えない朗に機嫌を損ねたのか、シャワーヘッドを捥ぎ取ると自分で身体を流し始めた。──と。
「うわっ!」
 小さく溜め息をついた朗の顔に、シャワーの湯が勢いよくかけられた。
「ほら、濡れちゃった。だから言ったのに」
 からかうように言いながら、朗に湯を浴びせ続ける。服は既にずぶ濡れであった。
「……子どもみたいなことを……!」
 呆れた口調で窘めながら、朗が片腕で翠の身体を抱きすくめて押さえ、もう片方の手でシャワーヘッドを取り上げる。蛇口を捻って止めると、翠は不満気に朗の顔を見上げた。
「……何です?」
 さすがの朗も、少々不機嫌な様相になるが、翠はお構いなし。
「……運んで」
 その言葉に再び呆れる。
「……翠。いい加減に……」
 その時、突然、ずぶ濡れの服の上から翠がしがみ付いて来た。
「……翠……!」
 こうなると手がつけられない。朗の顔にも脳裏にも、諦め、の文字が浮かんだ。
「……翠……ホテルの床を濡らす訳には行きません。……服を脱いで絞りますから、せめてそっちで身体だけでも拭いていてください」
 上目遣いで朗を見た翠は、素直に腕を放してバスルームから出て行った。
 その後ろ姿を眺めながら、自分は日に何回溜め息をつけばいいのか、などと考え、また溜め息が洩れる。
 朗は着ていた服を脱いで絞ると、軽くシャワーを浴びた。
 バスルームから出て身体を拭こうとすると、頭からバスタオルを被った翠がじっと鏡を見ている。化粧をする以外では、滅多に見かけない姿。
「……翠……?どうかし……」
 不思議に思って声をかけ、後ろから覗き込んだ朗は息を飲んだ。
「……翠……!コンタクトをどうしたんです!?」
 肩を掴んで自分の方を向かせ、翠の瞳を覗き込む。視線と視線が絡み合い、何も見ていないような、感情の色を留めない翠の瞳に宿る色が、それを見つめる朗の瞳に映り込んでいる。
 ──澄んだ緑色が。
「……翠……!?」
 珍しく取り乱した朗が翠に詰め寄った。
「今、外した……それ……」
 翠が指さしたところには使用済みのカラーコンタクト。それを見た朗の口から安堵の息が洩れる。
「……驚かせないでください」
 翠の眼球にだけ合わせて特別に造られたレンズは、残しておくと厄介なことになる可能性が高い。翠は、紛失しないように回収している朗に凭れかかった。
「……疲れた」
 気だるげに呟き、目を瞑る。
「………………」
 朗は何も答えずに、翠の身体をタオルで包んで(くるんで)抱え上げた。首に腕を回し、完全に身体を預けて来る翠をベッドまで運び、静かに下ろす。──が。
「翠……手を離してください」
 翠が手を離さず、立ち上がろうとする朗にぶら下がって来る。
「……翠……せめて服くらい取らせてもらえませんか?」
「……いらないよ……どうせ必要なくなる」
 溜め息まじりに『お願い』する朗に、翠の挑発的な返事。呼吸が溜め息としてしか出なくなっているのを感じながら、朗は諦めてそのままベッドへ入った。
「……朗……」
「……はい?」
「……拭って……」
 首にぶら下がったまま翠が呟く。
 一瞬、動きを止めた朗だが、その言葉が本当に意味するところを理解するのに、大して時間はかからなかった。一拍置き、頬に触れる。
 見上げる瞳を覗き込み、唇を重ねると同時に、自分の身体を翠の身体に重ねた。
 呼吸と身体の温度が高くなるごと、翠の唇から微かに洩れる声。
「…………ご……」
 ほんの一瞬だけ動きを止めた朗は、目を閉じて唇を噛むと、すぐに何事もなかったかのように口づける。いつものことであったから。
 昇りつめるごと、それは次第にはっきりとして行く。
「……昇吾……」
 口づけの合間に、そして朗の唇が、指が、翠の肌を滑るたびに。
「…………昇吾…………昇吾…………」
 その名を呼びながら縋りついて来る腕を押さえつけ、朗は翠を緩やかに追い上げて行く。
(……きみならどうする……?)
 
 答えの出ない謎を抱えながら。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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