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魔都に烟る外伝/終宴の始まり~part5~

 
 
 
「おめでとうございます、伯爵」

「ああ……」

 クライヴ立ち会いの元、医師に懐妊の事実を告げられた時、マーガレットの中には不安と恐れしか浮かばなかった。こうなることを望んでいたにも関わらず、自身の『目的』を知られたことで、夫に対する罪悪感が先に立つ。

 もちろん、結果的には『夫』は端から気づいていた訳で、彼女の及びもつかない男、でもあった。それでも本来、権謀術数とは無縁の彼女にとっては、あくまで己の方が先にクライヴを利用しようとした、と言う認識になる。例え、父に強要されたことであっても。それ故、今、夫がどんな顔をして医師の言葉を聞いているのか、それすら確認出来ない有り様であった。

 アシュリー子爵エドワード・ライナスに嫁ぎ、子を授かったとわかった時には喜びしかなかった。何しろ、彼女が反応するより先──医師からの言葉を認識出来ずにポカンとしている時──に、既にライナスは跳び上がらんばかりに喜んでいたのだから。

(……どうしよう……怖い……とても見れない……カーマイン様が今、どんな顔をしてらっしゃるのか……何と思われているのか……)

 膝の上で握りしめた手を凝視し、医師の説明など到底耳に入っては来ない。何も知らない医師が不審に思うかも、などと言うことすら考えられなかった。まるで心臓を掴まれたように身を縮ませる。

 説明を終えた医師が退室して二人きりになると、いよいよマーガレットの気持ちは追い詰められた。固まったまま息を詰め、判決を待つ被告人のような心持ち。──が、その耳に思いもかけない言葉が飛び込んで来た。

「身体を厭って……大事にしなければなりませんよ。くれぐれも無理はしないように」

 思わず夫を見上げる。いつもと全く変わらぬその顔を見て、変な話ではあるがマーガレットはホッとしていた。嬉しそうな表情など期待していない。だが、心底迷惑そうな顔でもない。要はいつもと変わらぬ『全く感情の読めない表情』である。

 それが却って安心感をもたらした。例え形だけであっても、自分を気遣う言葉をくれたこと、それだけで救われた気持ちになれていた。

「……はい……」

 安心した表情を浮かべたマーガレットの返事に、頷いたクライヴが下方を見たまま呟く。

「……ガブリエル……」

「……え……?」

 夫の口から洩れたとは思えない『名』に、マーガレットはキョトンとした。

(ガブリエル……大天使様のお名前?)

 夫の顔を見つめる。

「……子どもの名は“ガブリエル”にしましょう。男でも女でも……」

 マーガレットは呆気に取られた。いくら何でも気が早過ぎるだろう、と。とは言え、子の存在を否定されていない証拠のようにも思え、仄かに胸の内が暖かくなる。例え、心から望まれてはいなくとも、精神的な、延いては肉体的な安定をもたらしてくれる。だが、その名にこめられたクライヴの心情を彼女が知ることはなく──。

 それは束の間の平穏でしかなかった。

 ゴドー伯爵夫人懐妊のニュースは、敢えて大々的な公表はされなかったため、一気に国民の知るところ、とはならなかった。

 とは言え、当然、マーガレットの父であるオーソン男爵からは娘宛の文が届き、一般的に考えれば祝いのはずである。だが、第三者から見れば、それを読んでからのマーガレットは落ち着かない様子で、どこか不安定な状態に戻ってしまっていた。

「カーマイン様。奥様の父君からのお手紙、内容を確認した方が良いのではありませんか? あのお手紙を読まれてから、どうも様子がおかしい気がしてなりません」

 ヒューズが心配そうに進言するも、クライヴの返事は「無用だ」と顔も上げずにひと言。マーガレットへの優しさを見せていた、と思った矢先のその対応に、ヒューズの方が言葉を失う。

「内容は、大方、見当がついている」

 付け加えられた言葉に含まれる意味を計りかね、ヒューズはまたも拗ねた様子で黙り込んだ。

「それより出かける」

 そんなことは意に介さず、突然、クライヴが立ち上がった。

「お出でになるのですか?」

 意外そうに訊ねるフレイザーに上衣を預け、溜め息をつく。

「リチャードの呼び出しなら放っておいたんだが……今回は仕方ない。太王太后のお召しだ」

「太王太后……陛下の……!?」

 フレイザーが珍しく驚いた様子を見せ、クライヴは着替えながら空(くう)を仰ぎ、再度、溜め息。

「まあ、ちょうどいい機会だ。いずれは来る日とわかっていたこと……この際、全て話してくる」

「カーマイン様……」

「……それより、マーガレットから目を離すな」

 面倒くさそうな顔をしながらも、鋭い目をフレイザーとヒューズに向けて命じ、クライヴは城へ向かった。

 城に着くと、リチャードへの謁見の際とは違い、待ちかねていたのは上品そうな年輩の女と若い娘。

「久しいな。息災で何よりだ、ヘルダー夫人」

「恐れ入ります、伯爵」

「……そなたはマチルダ、と言ったか?」

 『ヘルダー』と呼ばれた女が返事をすると、『マチルダ』と呼ばれた若い娘はドレスの端を摘まんで会釈した。嬉しそうな二人が丁重にクライヴを迎え、国王がいる棟とは離れた奥の一角に案内する。

 久方ぶりに会った、と言う割に、二人はクライヴの結婚についても、子どものことについても、祝いの言葉はおろか、一切触れようとしなかった。立場上、知らないと言うことは有り得ない。つまり、意図的であると言えた。

「こちらにお出でくださるのは、本当に久しぶりでございますね」

「そうだな」

 当たり障りのない会話。感情のこもらぬクライヴの返事も、ヘルダーはさして気にする風でもない。ただ微かな笑みを湛え、最奥の重厚な木の扉の前に導いた。

「陛下。ゴドー伯爵をご案内致しました」

 特に返事はなく、既に示し合わせているのが窺える。クライヴを通し、ヘルダー自身とマチルダはそのまま扉の外に残った。背後で静かに扉が閉じられ、前方奥の椅子には女がひとり腰かけている。

 窓から光が差し込む広い室内。中央まで歩を進め、クライヴは部屋の主に敬礼した。

「ゴドー、お召しにより参上仕りました。陛下にはご機嫌麗しく……」

「ずいぶん仰々しい挨拶だこと。それにしても久しいですね。ゴドー伯爵、と呼んだ方が良いですか?」

 口元に笑みを浮かべながら訊ねる女は、落ち着いた雰囲気だけを見れば歳の頃50代程に感じられる。だが、若々しく知的な美しさを放ち、見た姿だけでは30代とも40代ともつかなかった。

 『太王太后』──即ち、先々代国王の正妃である。とは言え、当然リチャードの祖母ではない。最初の正妃を喪った国王が、後に彼女──アリシア・ロザリンドを迎えた結果であった。

「……陛下の御随意に……」

 一向に崩れないクライヴの態度に、アリシアの唇からフッと寂しげな溜め息が洩れた。諦めたように椅子を勧める。

「息災でおりましたか?」

 手ずから茶を淹れながら訊ねるアリシアに、返事のようにクライヴが視線を落とす。

「……婚儀の祝いもまだでしたね。奥方もご懐妊とか…………おめでとう…………で良いのですよね?」

 口をつけたカップの縁からアリシアを見遣り、何も答えずに視線を戻した。

「やはり、何かあるのですね……」

 悲しみとも憂いともつかず、ひとり言のようにアリシアが洩らす。

「……国王陛下にも困ったものです……」

 溜め息をつく様子に、カップを持つクライヴの手が止まった。先日の騒ぎが、彼女の耳にも入っていることは予想の域である。正式な報告ではなかったとしても、人の口に戸は立てられない。

「オーソンの目的は何なのです?」

 答えようとしないクライヴに、穏やかに、だが確実に核心めいた質問をぶつけて来る。

「陛下……太王太后陛下ともあろう御方がお心を煩うようなことではありません」

 カップの表面に視線を落としたままの返事に、やや表情を硬くしたアリシアが身を乗り出した。

「……なればこそ、です。オーソンの思惑が危険なものであるのなら、国にとっての大事(だいじ)を引き起こしかねないではありませぬか。わたくしも無関係ではないはず……けれど、それだけではなく、わたくしは太王太后である前に……」

「それ以上、仰ってはなりません」

 静かながら強制力のある声。言葉を飲み込んだアリシアの睫毛が翳る。

「……貴方のそう言うところ、お父上に……先代の伯爵にそっくりですね……」

 無言のままのクライヴに、諦めの息を洩らして目を上げた。その目には、先程までとは違う意志が浮かんでいる。

「……では、太王太后として訊きます。何故、オーソンの娘御を娶ったのです? 貴方はいずれは、オーソンと完全に袂を分かつ心積もりがあったのでしょう?」

 アリシアの顔を見遣り、クライヴはゆっくりとカップを置いた。脚の上で手を組み、正面から視線を合わせる。

「マーガレットが全て承知の上、と聞き及びました故、オーソンの出方がどれ程のものであるか、を確かめる目算はありました。それ以上でも以下でもありません」

 その返答にも、確証も持たずに話を持ち掛けて来たリチャードに対する憤りが暗に含まれていた。

「では、レディ・マーガレットの懐妊の件は、彼女をゴドー家世継ぎの母として認めた、と言うことなのですか……?」

 やや躊躇いの感じられる声。だが、クライヴの方は眉ひとつ動かさずに答えた。

「いいえ」

「……っ……!」

「ただし……!」

 そして、何か言おうとしたアリシアを、牽制するかのように言葉を繋ぐ。気圧されたアリシアは、固唾を飲んで次の言葉を待つしかなかった。

「認めていない、とも言えず、認めた、と言えば語弊があります。それでも良い、と言う程度でしたから」

「……でした……から?」

 過去形であることに疑問を持たせて窺う。

「それは、今は違う、と言うことですか……?」

 カップの中身を含みながら、クライヴは再びその表面に視線を留めた。フレイザーに『全て話して来る』とは言ったものの、どこまでをどのように話すべきか──。

「やはりオーソンとは、互いに少しの歩み寄りも出来ない……それが結論です」

 だが、『結論』に躊躇いはなかった。

「それなら、何故……!」

「万が一、父からの言いつけ通りに事を運べなければ……『伯爵夫人としての責務』を果たせなければ、マーガレットの精神が堪えられぬと判断したからです」

 いとも簡単に言い放つクライヴを、アリシアは信じられないものを見るような目で凝視した。

「そのために、必要のない娘を娶り、子まで成したのですか? そなたは……」

「必要不必要などとおかしなことを。政略的な算段に対して、太王太后陛下のお言葉とも思えませぬ」

 通常を考えれば、特にキツい口調でもなかったが、坦々と返されたことでアリシアの方が怯んだ。既に老齢に近かった先々代国王に召された己が身に置き換えてみれば、それはクライヴの言う通りで反論の余地はない。

「しかしながら、オーソンの目的には確信が持てました。そしてマーガレットを視た上でわかったのは、彼女の産む子を『ゴドー家当主』には出来ない、と言うことです。例え、次期『ゴドー伯爵』には出来たとしても、本当の意味での『当主』には成り得ない、と……そう判断したのも事実です」

「……どう言う意味です?」

 クライヴは一瞬の間を置いた。

「彼女では、ゴドー家当主の“力”を受け止める子の母体にはなれないからです」

「……! ……それは……」

 その説明だけで、アリシアにはクライヴの言わんとする意味がわかってしまった。けれども、それは『ゴドー家の力が常人には強過ぎる』と言うたったひとつの事実だけであり、他の全てをわかっている訳ではなかった。

「幼い頃からのオーソンの対応のせいでしょうが、精神的にも肉体的にもあまりに華奢過ぎる……彼女が普通に安定して暮らせる場所は、ライナスの傍以外にはないでしょう。彼にはそれを受け入れる“力”と“器”があります」

「ならば尚更、何故、レディ・マーガレットに子を……! 早々に、ライナスの元に返せば良かったではありませぬか……!」

 食い下がるアリシアに、クライヴが目を伏せる。

「その通りです。仰る通り、私はオーソンの目的を確認して後、そうするつもりでおりました」

 クライヴの脳裏に、婚礼当夜のマーガレットとのやり取りが思い出された。何をどのようにしても、どうにもならなかった『妻』の姿が。

「無理だった……ただ、それだけです。どれ程の説明を試みても、彼女の思考を父親から解放することは出来なかった。本人が『役目』と考えていることを叶えるしか……」

 アリシアの心は疼いていた。クライヴの言っていることは、恐らく真実である、とわかるからこそ、かつての己の境遇に重ねて考えてしまう。

「しかし、そなたの子であれば、結果的には確実に力を受け継いでしまうでしょうに……そなたは今、レディ・マーガレットでは無理だと申したではありませぬか……」

「……渡してはおりません」

 返された謎の言葉に反応出来ず、一瞬の間。

「……? ……何……?」

 翳らせた睫毛、何も見ていない目。

「私は彼女が身籠った子に、ゴドー家の“力”を渡しておりませんし、継がせるつもりもありません」

「……何を言って……既にレディ・マーガレットは懐妊しているのであろう……? どうするつも……」

 そこまで言いかけ、アリシアはハッとしたようにクライヴを凝視した。

「……まさか、そなた……子どもに何か良からぬことをするつもりではあるまいな……!?」

 怯えたように問う。

「そのようなことは致しません。それこそ必要ない。ゴドー家当主の“力”は、当主が決めるのです……受け継がせる相手を」

「どう言うことです?」

 やはり変わらぬ調子の返答に、アリシアの中には更なる疑問が湧いていた。

「言葉の通りです。“力”を継承させたい相手、渡すと決めた相手に渡す……それだけのこと」

 何でもない、と言う風な答えに呆然とする。

「……そのようなことが……」

「出来ます。そうやって……逆に言えば、だからこそ、ゴドー家は途切れることなく続いて来たのですよ」

 クライヴの答えは理解し難かった。視線も固まっているアリシアに、クライヴは小さく息を吐き出して続ける。

「陛下。巨大な“力”を受け継ぐには、それを受け入れられるだけの“器”……入れ物が必要です。相手がそれを育み産み出せる母体であるか、何より、子がその“器”を有しているか、が。でなければ、どちらも大き過ぎる“力”によって壊れてしまうからです。それを見極める“力”をも、代々、有しているのですよ……ゴドー家は」

「……では、あの時のことは……」

 理解しようとじっと聞き入っていたアリシアは、ふと何かに思い当たったように反応し、ひとり言のようにつぶやいた。しかし、それに対するクライヴからの返事はなかった。

「オーソンの目的が、ゴドー家の血を引く子どもを使い、より巨大な権力を得る……くらいのことなら、まだいい。だが、あの男のこと……恐らくそんなものでは済みますまい」

 まだ思いを巡らせているアリシアを見据え、変わらぬ声音に断言を上乗せして告げる。

「……よって、歴代の国王陛下と、我がゴドー家当主が暗に交わして来た約定……今日、この場限りを以て返上致します」

「……カーマイン……」

 アリシアはクライヴのことを『伯爵』ではなく、無意識に名前で呼んでいた。

「おわかりかと思いますが、正直言って、元々、私はこの国のことなどどうでも良い。本当なら、約定とていつでも勝手に違えることは可能でした…………が……」

 アリシアの顔を立てていた、だからこそ不必要な報告に来たのだ、と暗に伝える。

「……カーマイン……!」

「……あの男だけは放っておけません。せめてもの置き土産に、完膚なきまでに……」

「いけません!」

 思わず立ち上がったアリシアが叫ぶ。その顔を見上げたクライヴも、眉ひとつ動かさずに立ち上がった。

「ここに来るのは……お会いするのは、これが限りになるやも知れませぬ」

 ゆっくりとアリシアの方に動く。

「……カーマイン……待って……待ちなさい……」

「太王太后陛下……」

 頭(かぶり)を振るアリシアの眼前に跪き、最敬礼を示して白い手を取った。

「お身体をお厭いください」

 震える手にそっと口づける。

「どうかお元気で…………伯母上……」

 立ち上がったクライヴが、アリシアにしか聞こえぬ程度の声で囁いた。

「…………!」

 身動き出来ないアリシアから離れ、中から扉を叩く。示し合わせたように開かれた扉の外に、悲しげなヘルダーとマチルダが敬礼していた。

「息災であれ。……陛下を頼んだぞ」

 泣き崩れるアリシアをそのままに、二人に見送られながらクライヴは城を後にした。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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