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かりやど〔伍拾九〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
知らぬ間に
知らぬ場で
 
この身に受けていた
大いなる想いを
 
 

 
 

 美鳥の希望を受けた佐久田は、ありとあらゆる手段を駆使し、その通りにコトを運んだ。
 
「……別に式も何もいらない……報告したいのは昇吾だけだから」
 その言葉も、佐久田はしっかりと叶えるつもりでいた。即ち、前代未聞の『墓前式』を行なう、と言い出したのだ。
 呆気に取られるも、既に止められないところまで来ている事だけはわかる。しかも、その頃には春さんの盛り上がりも最高潮で、皆が諦めの境地に達していた。
「お着物はお写真だけでも撮りましょうね、お嬢様」
 馴染みだった呉服屋や仕立て屋を呼び、美鳥と朗の衣装、ついでに夏川の衣装も誂えた。放っておいたら、無精な夏川は自分の衣装を用意しない事などお見通しである。
 
 そうしている間に、佐久田は決算も無事に終わらせた。
 美鳥たちは予定通り、九月二日──昇吾の誕生日に入籍する事になった。
 

 
 七月後半。朗は26歳の誕生日を迎えた。
 ひとりで料理とケーキを作るべく、美鳥が前日から張り切っている。その様子を、朗は嬉しそうに眺めて飽きなかった。根を詰め過ぎるのが心配ではあったが。
「無理しないで、美鳥」
「全然、大丈夫」
 ただ、美鳥の誕生日のように、昇吾の墓前でお弁当、と言う計画は、夏川から許可が出なかった。真夏の強過ぎる陽射しと暑さの中、長時間の外出は身体への負担が大きい、と。断念し、墓参りだけとした。
 
 当日、美鳥からのプレゼントは腕時計。
「……あの時……昇吾の誕生日に、二ヶ月遅れで渡そうと思っていたプレゼント。これとは違うけど、腕時計にしよう、って決めてたんだ。昇吾と色違いで」
 ふたつの包みのうち、ひとつを朗の手に。
「ここんとこが、朗のはダークブラウンで、昇吾のは紺色なの」
 美鳥が文字盤の一部を指差した。
「ありがとう。大切に使うよ。これで腕時計は、一生買わなくて済みそうだ」
「うん。一生、大丈夫なくらい頑丈だ、って言われたよ」
 そう言って笑い合う。
「昇吾の分は、誕生日の当日に持って行く」
 もうひとつの箱は大切にしまった。
「朗にはもうひとつ……これ……」
「……ぼくに……?」
 差し出されたのはキーホルダー。
「今年の分。朗の誕生月と誕生日の石……さすがに指輪はしないかな、と思って」
 悪戯っぽい目で美鳥が言う。
「確かに結婚指輪だけで充分だ。ありがとう。これで鍵をなくさないで済みそうだよ」
 昇吾の誕生日までは一ヶ月余りであった。
 
 外出を控えているためか、美鳥の身体は比較的安定していた。
 着物やドレス、朗や夏川の正装も仕立て上がり、準備は万端。後は当日を待つばかりとなった。
 美鳥のドレスの上半身部分の生地は、店側が持参したものであるが、ひと目で美鳥も朗も感嘆の声を上げた。ベールの裾にも、同じようにレースが施されている。
「……すごいレース……」
「……お気に召して戴けましたら、使って戴けませんか」
 春さんが恐る恐る切り出した。
 美鳥が産まれた時、母親である美紗の許しを得て、春さんが数年かけて少しずつ編んだものなのだと言う。保管のため、店に預けておいたお陰で難を逃れたのだ。
「……これでドレスを仕立てて……お召しになったお嬢様を、生きているうちに拝見するのが、春の夢でございました」
 春さんが衣装に拘っていた訳を知り、もちろん美鳥に異存があるはずもなかった。
 
 最後の衣装合わせも済ませ、佐久田との最終的な打ち合わせ。と言っても、戸籍上の問題の事しか考えていなかった美鳥には、何をどう打ち合わせるのかは不明だった。
「まずは午前中に、おふたりには婚姻届を提出して戴きます」
 開口一番、佐久田が言う。朗も美鳥も口を挟まず、次の言葉を待った。
「お戻りになられたら、衣装など準備が整い次第、朗さまはおひとりで昇吾さまのところまでお出でください」
「……はい……」神妙な朗の返事。
「美鳥さまは……」
 頷いた佐久田に視線を向けられ、美鳥の表情が警戒する。
「ご用意が出来ましたら、お父上と共にお近くまで車で移動してください。ドレスが汚れますし、何より暑い時期なので、歩き回るのは最小限に。途中から歩きやすいように舗装しておきますので、そこからはお父上と徒歩で……」
「………………」
 夏川の事を『お父上』と、殊更に強調する様が笑いを誘う。微妙な目付きの夏川を尻目に、佐久田の説明は続いた。
「私が神父の代わりをさせて戴きます」
 全員が凍り付く。だが、何も言わない。言えない。黙り込んだ美鳥たちに、更にいくつかの用件を伝え、佐久田は帰って行った。
 
 その数ヶ月の間に起きた事、と言えば、副島が引退を表明したくらいである。
 黒沼の件についても何も語らず、後任を受ける事もなく、ただ静かに身を引いた。
 慌てた周囲は、小半に副島の後を継がせたかったようだが、はっきりとした事は発表されていない。ただ、小半と大企業の令嬢との婚約が整った、と言う話も流れて来てはおり、大々的に進出する可能性は大きかった。
 心の中はいざ知らず、表面上、美鳥は何の反応も示さなかった。故に、朗も一切その件に触れる事はなく──。
 
 もう関係のない事として、関わらずに過ごす道を良しとした。


 
 結婚式当日──つまり、昇吾の誕生日の朝。
 朗は美鳥を連れて婚姻届を提出しに行くと、すぐに戻って準備を始めた。
 先に着替えを終えた朗は、指示通りに昇吾の元へと向かう。着物姿は事前に撮影しており、佐久田が言うところの『墓前式』では正装、食事会ではお色直しするよう言われていた。
 
 昇吾が眠るのは、緩やかに登った見晴らしの良い場所。登り始めから墓に向かって舗装され、見ようによってはヴァージンロードに見えなくもない。
 朗がゆっくりと上がって行くと、待ちかねている人数が想定していたよりも多いことに気づいた。
「………………!」
 足が止まる。そして瞬きも。
 少し離れて立っていたのは、両親と兄弟、そして叔父。
 見守る彼らに会釈をし、朗は佐久田の前に立った。
(……夏川先生と佐久田さんの采配だな)
 佐久田の様子に確信する。朗にとっては嬉しくないはずがない。だが、美鳥の事が頭を過る。
 

 
 その頃、美鳥は養父である夏川と向かい合っていた。
 
「おめでとうございます、美鳥さま」
 夏川が祝いを述べると、美鳥が悪戯っぽく見上げた。
「……美鳥……さま?」
 尻上がりの疑問形に、言わんとしている事を理解した夏川が苦笑する。
「おめでとう、美鳥……綺麗だよ」
「ありがとう、お父さん」
 レース仕立ての美しいドレスとベールを纏い、手には看護師たちから贈られたブーケ。夏川が美鳥を眩しそうに見つめた。
「……ついこの間、お生まれになったと思っておりましたのに……私が歳を取るはずです。陽一郎さまと美紗さまにも……」
 感無量の体で飲み込む。
「……以前、お話しした件ですが……」
 美鳥は何の話であるかすぐに理解した。
「……朗さまには……」
 美鳥は静かに首を左右に振った。
「……先生……前にも言ったけど、本当に必要なものなら、たぶん絶対になくならない……何もしなくても、なくならないんだよ」
 確かにそんな話をした記憶はあった。だが、言い回しが違ったようにも思う。それでも静かな中に、追求する事を許さない何かがある。
 その時、ノックの音と共に扉が開いた。
「そろそろお時間ですが……」
 待機していた運転手が、遠慮しながら顔を覗かせる。
「行こ!お父さん」
 明るく促され、諦めた夏川が腕を差し出すと腕を絡めて来た。
 
「……先生は、お祖父様とお祖母様の秘密を知ってるでしょ?」
 舗装された道を歩きながら小さな声。夏川の思考が一瞬止まる。
「……一応、聞いてはおります」
「面白いでしょ。松宮の本当の直系は、お祖父様じゃなくてお祖母様なのに……直系は松宮の存続なんて大して気にもしないのに、それを課された方が躍起になる」
 並んで歩く美鳥の横顔を見下ろした。
「プレッシャーだけでなく、半分はお祖母様に負い目を持たせたくなかったんだろうけど、本人は気にしてないって言うね」
 そう言って笑い、昇吾の墓の方を見た美鳥は思いもよらない人物を認め、足が止まりそうになる。
「………………!」
 昇吾の父・緒方信吾の姿。そして、義叔父と一緒にいると言う事は、他の四人は必然的に理解出来た。
「美鳥さま」
 表情は見えなくとも想像はつく。半ば引かれるように足を運び、今にも怖気づきそうな気配。
 向き合い、手を差し出した朗へと夏川が引き継いだ。互いに目礼し、朗が美鳥を隣へと導く。
「私は神よりも仏よりも、数字を信じる人間ですので、長い前置きは省かせて戴きます」
 佐久田らしい頭語。
「おふたりとも、共に在る事を誓われますか?……魂の在らん限り……」
 前置きは省く、の言葉通り、いきなり主題に突入。
「誓います」
 だが、驚きもせず、逡巡する間も躊躇いもなく、朗が答えた。
(……魂の在らん限り……)
 心の中で復唱した美鳥は、その言葉を噛み締めるように目を瞑り、そして瞑目を解く。
「……誓います……」
「では、指輪の交換と誓いの口づけを」
 朗は美鳥の指に、結婚指輪と婚約指輪を通した。そして美鳥も。
 朗がヴェールを持ち上げた。隠れていた顔が間近に現れる。
「……綺麗だ……」
 朗の口から思わず洩れる。眩しそうに眺め、それ以外の言葉は出なかった。いや、出せなかった、と言う方が正確だった。
 恥ずかしそうに下を向いた美鳥の頬に触れる。そのまま指で顎を掬い上げ、顔を近づけた。やわらかい感触。
「昇吾さまの名に於いて、おふたりを夫婦と認めます。祝福を」
 全員が拍手で祝福し、昇吾の誕生日を祝った。
「私は先に戻り、ささやかながらお食事の席を用意させて戴きます」
 春さんと他の数名が、先に施設へと戻って行った。必然的、と言おうか、後に残されたのは美鳥と朗、小松崎家と昇吾の父・緒方信吾の七人のみ。
 
 朗の陰に半分隠れた状態で、美鳥は下を向いて身を硬くしていた。その肩に優しく触れ、朗が自分の前に促す。
「……紹介が遅くなりましたが……美鳥です」
 朗の紹介に、
「……美鳥です……」
 俯いたまま呟くように小さな声。硬直した肩の感触が朗の手に伝わる。
「久しぶりだね、美鳥ちゃん」
 その重苦しい空気を、最初に破ったのは信吾であった。
「……綺麗になって……しかも今日は特別に綺麗だ。……おめでとう……きっと昇吾も喜んでいる」
 記憶の中の義叔父と、寸分変わらぬ優しい声。ドレスを握り締めた手が震える。
「……ごめんなさい……義叔父様……ごめんなさい……」
「何を謝る事がある?」
「……ごめんなさい……私のせいで……私のせいで昇吾が……ごめんなさい……」
 ポロポロと涙を零す美鳥を、信吾が優しく抱きしめた。
「……美鳥ちゃん、きみには何の責任もない。むしろ私の責任だ……曄子(はなこ)との結婚を無理に望んだ私の……最初から彼女の心が私にない事はわかっていたのに、いつかはわかり合えるだろうなどと、タカを括っていたばかりに……。諦めてさえいれば、せめてもっと早く踏ん切りをつけてさえいれば、こんな事には……辛い目に遭わせて本当にすまない……」
 信吾の服を掴む、美鳥の指に力がこもる。
「……それでも昇吾は、昇吾として生まれる事を選んだと思う。……でなければ、朗にも、きみにも逢えなかったはずだから」
 信吾の腕の中で瞬きが止まり──。
「……それほどに、昇吾がきみを大切に思っていた事を私は知っている。だから、せめてきみだけは疑わないで欲しい……昇吾が幸せだったと言う事を。……昇吾の幸せはきみだったんだ……」
 美鳥は強く目を瞑った。
「……昇吾の分も、幸せになる事を諦めちゃいけないよ。……いいね?」
「……はい……」
 取り出したハンカチで、信吾が美鳥の涙を拭う。
「……花嫁がそんな顔をしちゃいけない……台無しだ」
 今度は朗に目を移した。
「朗、おめでとう」
「ありがとうございます」
「美鳥ちゃんを頼んだよ」
「……はい……!」
 短くも、通じ合っている事がわかる言葉。──と、そこへ、
「……あなたが……美鳥さん……」
 朗の母・斗希子の突然の声に、美鳥がビクッと反応し、再び身を硬くした。
「……美鳥です……はじめまして……あの……おばさま……」
 下を向き、消え入りそうな声。本来は人見知りではなく、恐いもの知らずの美鳥だが、今回ばかりは話が違う。昇吾の事に対する負い目は拭い難く、まして朗との事は挨拶すらしていない。
 美鳥が目を合わせようとしないせいか、斗希子が不機嫌そうな表情を浮かべた。
「……私は仮にも朗の母親だよ……?」
 その言葉に、さらに下を向いてドレスを握り締める。
「……って事は、今日からはあんたにとって?」
 一瞬、何を言われたのかわからず、ゆっくりと顔を上げれば、そこには思いがけず優しい目。
「……ん?」
 問いかける斗希子に、堪える美鳥の唇が震える。
「……はじめまして、美鳥です……お義母様……」
 斗希子の顔が、はっきりとした笑顔を湛えた。
「……普段、むさ苦しい男にしか“母さん”って呼ばれてない身としては、女の子に可愛い声で呼ばれるのは何ともいいモンだね」
 朗たちの顔に苦笑いが浮かんだ。──と。
「……同じく、むさ苦しい男共にしか呼ばれてない身としては、可愛い女の子に呼ばれてみたいものだが」
 父親である小松崎氏が、ひとり言のように洩らした。吹き出した斗希子が、文字通り美鳥の背を押す。
「……はじめまして……美鳥です……お義父様……」
 斗希子の後押しで、背の高いその顔を見上げると、満面の笑みで美鳥の額に口づけた。
「……確かにいいモンだ。いいなぁ……ついに可愛い娘が出来た」
 嬉しそうな小松崎氏。
「……悪かったですねぇ……むさ苦しくて」
 陸が苦笑しながら呟くと、小松崎氏はニヤリと笑った。
「悔しかったら、お前たちも頑張る事だ」
「うわっ、藪蛇だ」
 列のボヤキに陸が吹き出す。
「それにしても、昇吾が写真を見せてくれなかったはずだな……こりゃあ、ひとり占めしたくもなるだろう」
「ホントだよ。昇吾兄さん、いくら頼んでも絶対見せてくれなかった。しかも、ムッツリだと思ってた朗兄さんがちゃっかり手に入れてるし……」
「……ムッツリって……」
 納得が行かない、と言う顔の朗に、小松崎夫妻が吹き出した。
「……何か引っ掛かるけど……まあ、いい。春さんたちを待たせちゃ悪い。そろそろ戻ろう」
 その言葉に足を動かし始めた時──。
「美鳥」
 唐突に呼ばれ、足を止めて振り返る。呼んだのは斗希子であった。
「もう、呼び捨てでいいね?」
「はい」
 自然に頷く。
「人の運命なんて、誰しもわからない」
「……はい……?」
 意味を読み取れず、首を傾げた。
「元気な人間であっても、一秒先の事なんてわからない……美鳥……あんたは良くわかってるだろう?」
 美鳥の脳裏に、昇吾の顔が浮かぶ。確かに、健康だから長生きする訳でもなく、身体が弱いから早く死ぬとも限らない。
「……はい……」
「だからこそ、時間は有限である事を忘れてはいけないのに、人は元気だと忘れがちになる。でも、何か、があれば、時間を無駄にしないで過ごせるだろう?」
 そう言った斗希子の隣で、小松崎氏が地面を見ながら穏やかに口元を緩めた。それを見た美鳥は直感で知った。
 ふたりは、自分の身体の限界を知っているのだ、と。知ってなお、自分の存在を受け入れてくれたのだ、と。
 立ち尽くす美鳥を、斗希子がふわりと抱きしめた。
 久しぶりに感じる、母なる人の匂いとぬくもり。とうに失ってしまった、もう触れる事はないと思っていたもの。
 再び涙が溢れ出す。
「諦めないと約束しておくれ。誰の運命もわからないんだから……昇吾だけじゃないんだよ」
「………………!」
「朗にとっても、あんたが幸せなんだ。あの子を幸せにする義務が、もうあんたにもあるんだからね……命ある限り……」
 無意識の内に、美鳥は斗希子にしがみついた。
「いいね?」
「……はい……」
 美鳥は、自分が直接感じていた昇吾の愛情の他に、間接的に受ける愛情の存在を初めて知った。自分がいない場所でも、昇吾は自分への愛情を発してくれていたのだ、と。
 
 『小松崎美鳥』となった日、美鳥は久しぶりに母のぬくもりに包まれた。
 昇吾と、墓前に備えられた美鳥からのプレゼントが見守る前で。
 
 
 
 
 
 
 
 

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