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魔都に烟る外伝/終宴の始まり~part8~

 
 
 
 執事が来訪者の名を告げた時、オーソンがそれを理解するまでには少しの時間を要した。

「……ゴドー伯爵……? ……本人が来たと言うのか?」

「左様でございます、旦那様」

「……ほう……」

 顎に指を当て、クライヴの顔を思い浮かべる。

(……あれを連れ戻しに来るとは……まさか、あのジェーンが奴を本気にさせたか? ……あの生意気そうな青二才を……。だとしたら、我が娘ながら大したものだが……)

 口元に楽しげな笑み。

「……大切な婿殿だ。丁重にな」

「畏まりました」

 執事に命じ、オーソンは服を整えると応接間へ向かった。大仰な態度で出迎える。

「これはこれは、伯爵御自ら……国王陛下に間に入って戴きながら、当方の事情で申し訳ないことを……。使いを出した時には、既に伯爵は退城されておりました故……」

「……なるほど……」

 嘘くさい笑顔でわざとらしい口上を述べるオーソンに対し、クライブの方は変わらぬ鉄面皮であった。仮にも舅であるオーソンとしては、そんな『婿』の態度は、内心、面白くはない。だが、公の立場上、クライブは伯爵であり、自分は格下の男爵なのだと言う、如何ともしがたい現実が横たわっていた。

「……こちらからご挨拶に伺わねば、と思うておりましたところで……ご容赦戴きたい」

 小さく頷く様子が如何にも高飛車に見え、内心、歯噛みしたい感は拭えない。

「それで、ご用の向きは……」

 だが、そこは堪えて白々しく訊ねるオーソンに、クライヴはやはり眉ひとつ動かさなかった。冷たい視線を向けて問う。

「……妻を迎えに……それ以外の用件が? ……むしろ男爵こそ、私にどのようなご用件だったのでしょうか? わざわざ国王陛下を介してまで?」

 オーソンの口元から、不意に笑みが消えた。それでも、そこで内心を顕にすることはなく、再び含みのある笑みを湛える。

「……私の用件も、その娘のことでございましてな……」

「……ほう……? 一体、どのような……?」

「……伯爵の子を授かったことは身に余る喜びなれど、如何せん悪阻が酷く、落ち着くまではこちらに戻りたい、と。……しかしながら、これもまた喜ばしいことに、過分な立場も賜わり、その上、伯爵のご寵愛も深く戻ること叶わず……と悩んでおりましたようで……」

 オーソンは、暗にクライヴの娘に対する愛情の深度を測ろうとしていた。加えて、含みを持たせた物言いで、クライヴのせいで戻れないのだ、と挑発していることも明らかである。その意図に気づいているのか、いないのか──クライヴはクライヴでじっと聞きながらも、ただ無表情を貫いている。

「……だからと言って、私に他の妻を娶れ、などと書き置き、勝手に戻った、とは如何に……?」

 一瞬、オーソンの顔付きが変わった。クライヴはそれを見、マーガレットの文が父の指示なく独断で残して行ったものであると確信した。

「……娘がそのようなことを……?」

「……ええ……」

 本来、そうするつもりであったとしても、それを公言してしまえばオーソンの方が不利になる。己が望みで、格上の伯爵家に無理やり出戻らせた娘を嫁がせ、しかも、伯爵家の世継ぎとなるかも知れない最初の子を身籠った状態で、離縁された訳でもなく自ら出奔となれば言い訳の余地はなかった。よしんば、国王を懐柔出来たとして、ゴドー家当主が機嫌を損ねた場合にどのような事態になるか、オーソンには十分にわかっているだけに焦りは抑えられない。

(……ジェーンの奴、余計なことをしおって……)

 どれほど己の力に自信があろうとも、ゴドー家当主の力には到底及ばないことを、オーソン自身が一番良くわかっていた。だからこそ、その血を引く子どもが欲しかったのだから。

(……真っ向からぶつかっては不味い……今は、まだ……)

 己でも白々しいとは思うものの、さすがのオーソンも免罪符的な言葉を使う以外に策は浮かばない。

「……いくら体調が優れないからと、そこまでナーバスになっておりましたとは……これは、大変失礼なことを……」

 脳内で膨大な判例を紐解いて策を巡らせるオーソンに、クライヴは頷くように目を伏せ、そして開いた。

「……それよりも、マーガレット本人と話したいのですが……」

 温度の低い声に、オーソンは焦りを噛み殺しながら笑みを浮かべる。

「おお、これは失礼致しました。今も気分が優れぬと休んでおりますが……すぐに呼んで参ります」

 メイドに手で指示しようとするオーソンを、クライヴが静かに制した。

「……私が行きます。マーガレットのところに案内してください」

 オーソンがクライヴを凝視し、戸惑ったメイドも主の顔を窺う。

「……それはそれは……娘は果報者でございます」

 遠回しに『二人だけで話す』と言われていることに、もちろんオーソンは気づいてはいた。ここで拒否することは出来ないし、拒否する理由もない。オーソンには、娘が自分の意のままである自信があった。

「伯爵をご案内申し上げろ」

「……か、畏まりました」

 メイドに指示を出し、応接室を出て行くクライヴを見送りながら、背後で一人含み笑う。

(鉄面皮で可愛気のない若造と思っていたが、なかなかどうしてご執心ではないか。いや、だからこそ、ジェーンのように頼りなげな女が良いと言うことなのか……?)

 親であるオーソンから見ても、マーガレットの容姿はそれなりに美しい要素を兼ね備えてはいた。如何せん内向的過ぎ、社交界で幅広く広めるには至らず、アシュリー子爵エドワード・ライナス以外の男とはまともに話すことも出来ないだろう、と踏んでいた娘である。クライヴがマーガレットに対して愛情を抱いているのだとすれば、これはオーソンにとって嬉しい誤算と言えた。こみ上げる笑いを抑え切れなくなる。

(さてさて……これは予想外に事がうまく運ぶやも知れぬ)

 一人、悦に入り、今後の展開に思いを巡らせた。

「お嬢様。ご主人様がお見えでございます」

 部屋に閉じ籠もり、人形のようにぼんやりとしていたマーガレットは、メイドの声に頭を持ち上げた。『ご主人様が』と言う微妙な言い回しに、父親が来たのだと勘違いし、震えながら返事をする。

「……どうぞ……」

 だが、メイドが開けた扉から入って来た相手を見たマーガレットは、驚きのあまり声が出なくなった。

「…………!」

 ここにいるはずのない、来るはずのない夫の姿に息を詰める。クライヴはマーガレットに手を差し出し、言った。

「迎えに来ました。マーガレット、一緒に帰りましょう」

 何の前置きもなく、突然、手紙だけを残して一方的に出て来たことを問い詰める言葉もない。しかも、夫は『帰りましょう』と言った。『一緒に帰りましょう』と。『ここは貴女の家ではない。貴女の帰るべき場所はゴドー家の屋敷なのだ』と。

「……カーマイン様……」

 マーガレットは震えながら頭(かぶり)を振った。このまま愛想を尽かされれば良い、何なら怒りに任せてオーソン家ごと潰されても、むしろその方が良い──自分のためにも、そして父を無理やり止めるためにも、などと考えていた。

 しかし、心のどこかでクライヴが来てくれることを願ってもいた。『そんなことがあるはずがない』と思いながら、どこかで夫が自分を救ってくれるのではないか、と。『約束する』と言ってくれた言葉に、無意識の救いを求めて。ただ、それを認める訳にはいかなかった。

「……わたくしの気持ちはお伝えした通りです……わたくしにはやはり無理です……! ……どうか……どうか、このままお捨て置きくださいませ……!」

 懇願するマーガレットに、やはりクライブは変わらぬ声音で答えた。

「貴女はここにいるべきではない。……いや、いてはいけない。私と共に帰りましょう。フレイザーもヒューズも心配しています。後のことは、全て私に任せなさい。決して、悪いようにはしません」

 その言葉は、マーガレットにとって信用に足るものではあった。真っ直ぐに射貫く夫の眼差しを見つめ返すマーガレットの目には、差し出された手を取ろうか迷う気持ち、素直に取りたいと言う気持ちが見え隠れする。差し出そうとして躊躇い、引っ込めては迷う手の動きを、心の葛藤を、クライブは見逃さなかった。

「来なさい、マーガレット」

 手を差し伸べたまま、辛抱強く呼び掛ける。

「…………っ…………」

 おかしな話ではあるが、クライブがここまで迎えに来てくれたことで、マーガレットは心のどこかで満足してしまってもいた。

『もう、それだけで十分だ』と。

 だが、他の部分では、ライナスと娘、クライブ、そして父、の三つ巴を、己で崩すことも出来なかった。それが、決定打となってしまうなどと気づきもせずに。

「……どうかお帰りください、カーマイン様……」

 夫を真っ直ぐに見つめ、マーガレットは震える唇でハッキリと告げた。クライヴも手を差し出したまま見つめ返す。

「……来てくださったこと、何よりも嬉しゅうございます。……このような状況の中で、それでもわたくしの大切な者を尊重してくださる貴方様を、誰よりも信じております。……けれど……」

 マーガレットの瞳からひと筋の涙が溢れ落ちる。

「……わたくしはそれでも……父を見捨てることは出来ません……例え、父が……」

 それ以上は言葉にならず、両の手で顔を覆った。そして、クライヴはその時あることに気づいた。

「…………?」

 マーガレットを見つめる。ある一点を。

(……何だ……? あれは……)

 しばらく凝視し、クライヴの目の色が変わった。

「…………!」

 この時、マーガレットが顔を伏せていたのは幸いだったと言える。それほどに壮絶な形相であった。

(……オーソン……! ……あの外道が……!)

 心の中を燃え上がらせながら、それでもいつもと変わらぬ声音でマーガレットに語りかける。

「……マーガレット。私は必ず、貴女を迎えに来ます。貴女がどんなに拒もうと、必ずここから連れ出し、救ってみせます」

 マーガレットの意思など関係なく連れて帰るなど、クライヴには容易いことであった。むしろ、無理やり連れ戻すために来たのだから。

 例え、オーソンをそのまま残したとしても、マーガレットを連れ帰るなど、クライヴの力を以ってすれば造作もない。だが、ただひとつ、クライヴの『持たない力』を必要とする『事態』に気づいてしまった。その『力』を『持つ者』がいなければ、本当の意味では解決出来ないことに。そして、その人物を探し出す前に、無理にマーガレットを連れ帰ることのリスクの方が高かった。あまりにも弱いこの花は、救う前に散ってしまう、と。

 クライヴは今にも崩れそうなマーガレットを抱きしめた。そして耳元で告げる。

「約束は必ず守ります。貴女も、貴女の大切な者のために、必ずその子と共に生きていてください」

 親指でマーガレットの涙を拭って額に口づけ、クライヴは静かに部屋を後にした。廊下から部屋の扉を見つめ、その形相は再び険しさを増す。踵を返すと、まるで怒りを地面にぶつけるように急ぎ足となっていた。

「……話は終わられましたかな?」

 応接間に戻ったクライヴに、さっそくオーソンが余裕の体で声をかける。だが、様子を窺うように婿の顔を見た瞬間、オーソンの全身が総毛立った。

「…………っ!」

 明らかに怒りを湛えたその形相に、さすがのオーソンも背中に冷たい汗を感じる。

(……何だ? ジェーンの奴、何か機嫌を損ねるようなことでも言いおったか? それとも、迎えに来たのに戻らないことに腹を立てているのか?)

 もし、クライヴが本気で腹を立てているのなら、塵も残さず消されても不思議ではない。オーソンは恐れと焦りを何とか押し隠そうとした。

「……何をした……?」

 だが、鋭い視線を投げ、低く放たれた言葉に思考が停止する。

「何のことですかな?」

 この時、クライヴの問う意味をオーソンは本当にわかってはいなかった。

「……貴様……とぼけるな……」

 いくら格上とは言え、娘婿の若造に『貴様』呼ばわりされ、さすがに腹に据えかねたオーソンが不快の色を顕にする。

「……貴様、とは、いくら伯爵と言えど無礼ではござらぬか? 仮にも私は、貴方様にとって舅なのでございますよ……?」

 負けじと睨み返すオーソンに、クライヴはさらに燃えるような、また凍り付きそうにもなる視線を向けた。

「……よくも、ぬけぬけと……この外道が……!」

「……ですから、何のことか、と申し上げている。私が娘を操り、帰らない、と言わせているとでもお思いか?」

「……マーガレットではない……!」

 クライヴの抑えた怒声に、場の空気が一気に凍りついた。クライヴがオーソンに一歩詰め寄る。

「……貴様……マーガレットの腹の子に何をした……?」

 クライヴの問いにオーソンはギョッとした。今度こそ間違いなく、背中を冷たい汗が流れて行く。

「……い、一体、何の話……」

「とぼけるな!」

 オーソンの言葉は、クライヴの本気の怒声に掻き消された。怒りの表情を向けるクライヴに、オーソンは蛇に睨まれた蛙のように逃げ腰になるも、そこは年の功、反撃の在り処を探る。

「……何故(なにゆえ)、私が大切な孫に何かしたと思うのです……?」

 その根拠を探ろうと試みるも、クライヴは静かに目を伏せた。

「……思う、のではない……」

 ゆっくりと瞑目を解き、オーソンを見据える。

「……見えるのだ。私には全て」

 オーソンが息を飲んだ。目に映るクライヴの顔──その、ある部分に対する畏怖の念が足をすくませる。

「……そ、その目は……!?」

 月よりも鮮やかな金色に輝く、その左目が。

「……オーソン家の者なら聞いたことくらいあろう……」

 冷たい声音に、オーソンの顔色が変わった。

「……まさか……それが、ゴドー家の左眼(さがん)……」

 恐怖に慄くオーソンのつぶやきに、クライヴは口元に冷たい笑みを浮かべる。

「……全て見える……そして、貴様の全てなど簡単に消し去れる……だが……!」

 『消し去れる』の言葉にオーソンが身構えた時、クライヴは金色に輝く冷たい目で見下ろした。オーソンの身体が、緊張で小刻みに震える。

「……今は貴様を殺さん。……だが、待っていろ……貴様には、一番、屈辱的な終焉をくれてやる……!」

 言い放ち、そのまま踵を返した。

 クライヴの残した熱が、次第に冷めて行く室内には、怒りと屈辱、そして恐怖に震えるオーソンだけが残された。

「……フレイザー、ヒューズ……! 旅支度を……急いでくれ……! 用意出来しだい発つ……!」

 屋敷に戻るなり、クライヴは二人に命じた。帰りを待ってそわそわしていた二人が、何を言われたのか理解するまでに数秒を要する。

「カーマイン様……!?」

 やがて、前置きも顛末の説明もない命令に仰天し、同時に叫んだ。

「何かあったのでございますか……!?」

 間髪入れずにフレイザーが訊ねる。今までの経緯を鑑みれば、オーソンとの事が拗れ、ほとぼりを冷ますつもりなのでは、と考えたとしても不思議ではなかった。

「……ど、どうなさったのです……!? それより、マーガレット様……奥様は……!?」

 続けてヒューズが問うと、一瞬、クライヴの表情が硬くなり、だが、すぐに不敵を湛えた目線に戻る。

「……そのマーガレットを完全に連れ戻すためだ。心も身体も、そして子も無事なままオーソンから引き剥がし、必ずライナスと娘の元に返す……そのために……!」

 上衣を脱ぎ捨てながら、書斎の机でペンを取った。何かを書き記すことに集中するクライヴの様子に、フレイザーとヒューズは顔を見合わせ頷き合う。

「……ヒューズ……お召し物を頼む。私は旅券の手配を飛ばす」

「はいっ!」

 二人がテキパキと動き始めた。

 やがて、トランクに荷物が次々と詰め込まれ、戻って来たフレイザーも荷造りの方に加わる。

「フレイザー……ヒューズを借りて行くぞ」

 ペンを置いたクライヴの言葉に、ヒューズが「えっ!?」と言う顔でフレイザーを見た。フレイザーも驚いた顔で主を凝視する。

「……そなたを連れて行きたいのは山々だが……私にとって、全てを心得てくれているのはそなただからな。……だが、この状況で、私がここを離れるに際して、そなたには屋敷を管理し、守ってもらわねばならぬ。……これは、そなたにしか出来ぬ……そうであろう?」

 そう言ってフレイザーを見つめた。それは、確かに理に適っており、且つ反論の余地はない。

「……そなたには及ばずと言えど、ヒューズはそなた手ずから教育したのだ。……それとも、何か? そなたは、そなた自身の教育に……そなたが手塩にかけて育てた者を信用出来ぬか?」

 試すように問うクライヴに、ヒューズはオロオロと二人を見つめ、フレイザーは睫毛を伏せた。

「……であろう?」

「……御意……」

 静かに答え、敬礼した。そしてヒューズに向き直ると、一瞬、怯んだ彼の肩に手を置く。

「私は、私が教えられる全てをそなたに伝えたつもりだ。後は、経験から、そなた自身が身に付けるしかない……しっかりとお勤めしろ。……カーマイン様を頼んだぞ」

 真っ直ぐなフレイザーの視線を受け、息を飲んだヒューズが覚悟を決めて頷いた。

「……はい……!」

 その返事にフレイザーも頷き、二人が主の方を向く。

「……それと、フレイザー……これをライナスに……アシュリー子爵に届け、言伝を頼む」

「……Your pleasure……」

 その他いくつかの注意や命令をフレイザーに伝え、クライヴとヒューズは夜明けを待たずに屋敷を発った。

 それは永らく続く踏襲を捨て去り、古き血の縛りを解放する力を求めるための夜明けであった。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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