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声をきかせて〔第17話/本編最終話〕

 
 
 
 ━翌朝、土曜日の朝。

 休日ではあるけれど、今日は海外営業部向けの企画の決済日だ。

 ぼくは、いつもよりさらに1時間ほど早く出社した。前日、いくら今日の準備は出来ていたとは言え、皆との最終の打ち合わせもしないで一日が終わってしまったので、せめて確認だけでも、と思っていたからだ。

 昨日は件の騒ぎで一日中走り回っていたけれど、不思議と身体は軽い。

 企画室に入ると、驚くことに既に雪村さんが出社していた。机に山積みのファイルを、次から次へと確認して置き換えている。どうやら、もう半分くらいは終わっているようだ。

「おはよう。早いね」

「おはようございます、主任」

 ぼくに気づくと立ち上がり、いつもと変わらない挨拶。……なのだが。

 変わらないのは挨拶だけで、彼女は見るからにいつもと違う。

 初めて見る、髪の毛をアップにした彼女の姿。頬から首筋にかけて、白くて華奢な線がくっきりと、だが、やわらかそうな肌を浮かび上がらせている。しかも。しかも、だ。……あれでは襟があっても、うなじまでが……丸見えだ。

 それだけでも目が釘付けになってしまうと言うのに。

 スーツ姿の彼女。いや、スーツは説明会の時などは着ているので、別段、珍しいことではない。……が。

 髪型の次に目が吸い寄せられてしまったのは、彼女が立ち上がった時。その脚。

 これも初めて見るスカート姿。彼女が異動して来て数ヶ月。本当に初めて見た、と思う。いつもパンツで、スーツもパンツスーツだった。

 脚が長いことはわかっていたけれど。細い……けれど、真っ直ぐな膝下。これを脚線美と言わずして何と言う……のレベルだ。

 顔が緩みそうになる反面、何故だか、心の中にモヤモヤした何かが広がる。何だか面白くない。

 余程、ぼくが微妙な表情を浮かべていたのだろう。彼女は少し不安気に顔を曇らせる。

「主任?具合でもお悪いですか?」

「いや……そんなことないよ。大丈夫」

 だめだ。全然、大丈夫そうに言えてない。ますます不安気になる彼女の表情。なのに、自分でもこのモヤモヤを説明できなくて途方に暮れる。

「本当に大丈夫だから。……確認を済ませてしまおう」

「……はい」

 彼女は『腑に落ちない』感を丸出しにしながら、たぶんコーヒーを入れてくれるためだろう、給湯室の方へ歩いて行った。

 その後ろ姿を眺めながら、「やっぱり、うなじが丸見えだ」とか、「スカートだと脚も丸見えだ」などと、当たり前のことが頭の中をグルグルと巡る。ずっと見ていたいのに、何故だかモヤモヤするこの感情に振り回される。

 ……だめだ。まずは資料の確認。彼女が確認していないファイルを手に取る。しばらくして、彼女がぼくの前にコーヒーカップを置いてくれた。彼女も席に戻り、黙々とファイルを開いては確認しているが、ぼくの視線はつい、彼女の首元に吸い寄せられてしまう。集中しなければいけないのに。

 何とか野島くんたちが出社する前に確認を終わらせたい……と考えて、ふと、一見、何の関係もなさそうな自分のモヤモヤ感の正体に行き当たった。

 わかった瞬間、道が開けたと同時に迷ってしまったような気分に陥り、彼女の顔を見つめてしまう。

 あまりに見つめ過ぎたせいだろう。ぼくの視線に気づいた彼女が顔を上げた。

「主任?」

 不思議そうにしている。……が、ぼくもどう言っていいのかわからずに口ごもる。視線が上下するぼくを見て、

「あの……私の格好がおかしいですか?それとも場に合わないでしょうか……?」

 困ったような表情を浮かべる。確かに、万が一「合わない」と言われたって替えのスーツなどないだろう。

「いや、違うんだ。……とても……似合っているよ。ごめん。そう言うことじゃないんだ」

 そうは言っても、ぼくの顔に何かが表れているのだろう。彼女はじっとぼくを見つめて来る。……一体どう説明すればいいのか、と困って視線を泳がせていると、彼女は微妙な表情のまま意識をファイルに戻した。

 ほっとしたのも束の間、どうしてもぼくの方が意識せずにいられない。チラチラと視線を送ってしまう。これで気づかれない訳がないのだが、彼女は持ち前のポーカーフェイスと集中力をフルに発揮していた。

 ……そして、ついに、ぼくは負けを認めるしかなくなる。野島くんたちが出社してくる前に何とかしなければ。訳のわからない強迫観念。

「……雪村さん。ちょっといいかな」

「はい」

 どう話を持って行けばいいか、実はまだ整理がついていないのだが。

「あの……今日の格好はすごく似合ってると思う。思うんだけど。スーツを今から替えに戻るのは無理だろうから仕方ないけど……その……髪の毛は……おろしていてもいいんじゃないかな」

 彼女が怪訝そうな顔をぼくに向ける。

「いや、あの……本当に似合わないとか、場に合わないとか、そう言うことではなくて……」

「邪魔にならないように……それと気持ちを引き締めるために纏めてみたんですけど……」

「うん……わかってる。わかってるんだけど……でも……」

 これじゃあ、説得力の欠片もなく、ますます不信感が募るだけに違いない。

 彼女の視線と自分の怪しげな言動の板挟みで苦しい。脳内は混沌の渦。

 彼女の不思議そうな視線に晒され、その緊張感に耐え切れなくなったぼくの本音が勢いよく飛び出す。

「ぼく以外の男に見せたくない。……見られたくないんだ」

 ……子どもみたいなことを言ってしまった。

 そうだ。これは『独占欲』だ。単に他の男に見せたくないだけの。

 自分は見ていたい。だけど他の男には見せたくない。

 言ってしまってから、自分の言葉のあまりの幼稚さに頭を抱える。

 彼女は一瞬目を見開いたかと思うと、呆れたのか、ひと言も発さずそのままファイルに視線を戻してしまった。

 ……と。

 ファイルに目を落としたまま、片手をすっと上げたかと思うと、髪の毛を留めていたピンを抜く。

 ふわりと髪の毛がこぼれ落ち、顔周りと首筋を覆う。いつも通りの髪型に。

 そのまま何事もなかったように確認を続ける。あまりに鮮やかなその動きに、ぼくの方が呆気に取られて固まっていた。

 彼女がファィルを置き換える音で我に返り、顔が緩みそうになるのを堪え、自分のファイルに目を戻す。

「主任。こちらの確認、全て終わりました」

 この集中力。ぼくより彼女の方が断然強いことを思い知らされる。

「ありがとう。こちらももう終わるよ。……これで最後かな」

「では箱に詰めます」

 そう言って、確認が済んだファィルから台車に乗せてある箱に入れ始めた。ぼくも一緒に詰め始める。その淀みない、手際の良さ、段取りの良さ。何より、全ての業務においての質の高さ。

「……頼りにしてる」

 思わず口から洩れる。

「……………………」

 こちらを見た彼女の怪訝そうな視線に、再び居た堪れなくなる。……が、彼女は何も言わない。それが却って怖い。

 沈黙の箱詰めが終わってひと段落した頃、野島くんが出社して来た。

「主任!雪村先輩!おはようございます!早いですね」

「おはよう。昨日、何も出来なかったからね。念のため確認しておこうと思って」

「あ、ありがとうございます」

 すると、他の三人も次々に出社して来る。

「おはようございます!……雪村先輩!昨日は大丈夫だったんですか?」

 その言葉に、雪村さんは「あっ」と言う表情を浮かべた。

「……ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」

「あ、いえ、そんな……。大丈夫だったんならいいんです」

 そう言って、四人は顔を見合わせて頷く。そこへ室長の声が響いた。

「皆、おはよう。全員、揃っているね」

「おはようございます、室長」

「雪村さん、具合は大丈夫なのかね?」

「はい。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

 昨日の件は、『通勤途中での体調不良』ということで処理済みにしたと専務から連絡が入っていた。仁志氏との間で、そうすることに話を決めたそうだ。気になっていた高田記者の件も訊いてみたが、現時点での明確な答えは返って来なかった。

 全員が揃ったところで、手早く今日の段取りを確認する。皆、雪村さんの無事な姿に気を取られ、彼女がスカートを穿いていることには気づいていないようだ。……重要なのはそこではないのだが。

「今日は何とか決めたい勝負所だ。皆、頼んだよ」

 室長の言葉を締めに、野島くんたちが動き出す。

「配布する資料、運んじゃっていいですよね?」

「うん、もう箱詰めしてあるから……頼むよ」

 武藤くんたちが台車を押して行く。雪村さんとぼくは手持ちのファイルやその他のものを揃えて確認した。

 椅子から立ち上がろうとした、その時。

「……私も……」

 唐突に雪村さんが呟くような小さな声を発した。思わず手を止めて彼女の顔に目を向ける。

「……頼りにしています」

 ……耳を疑う。それと同時に固まっている自分に気づく。

 彼女はぼくの方は全く見ずに、静かに立ち上がってファイルを抱えた。ぼくも慌てて立ち上がる。……と、彼女は。

「……ですから……」

 ゆっくりと歩き出す方向に身体を向けた後、顔だけ少し振り返り、

「……頼りにしてください」

 力を湛えた瞳でそう言い放ち、驚いて声も出ないぼくを置いてさっさと歩き出した。

 はっと我に返り、急いで追いつく。

 並んで歩く彼女の横顔を見下ろすと、相変わらずのポーカーフェイスぶりだった。だが、ほんの一瞬。彼女の唇の端が、自信ありげに持ち上がったのをぼくは見逃さなかった。目を見張ったその直後。

 今まで一度も見たことがないくらい、本当に百花の王が如く艶やかな笑みを浮かべ、ぼくの方をチラリと見る。……すぐに元のポーカーフェイスに戻ってしまったけれど。今日は初めて見る姿の大放出に、驚きの『萌え』で顔が緩みっぱなしだ。

 今日の決済は荒れるだろう。だけど彼女の様子を見ていると、根拠なく負ける気がしない。おかしくなるくらいに。今日で決める。

 
 
 ━決戦の日は、今日。
 
 
 


 
 

 
~エピローグ~


 
 
 
 扉を開けると、木の扉独特の軋んだ音がする。

「いらっしゃいませ」

 ほっとするようなやわらかい声に迎えられ、思わず笑顔になる。

「いつぞやはお世話をかけて申し訳ありませんでした、浜崎さん」

「これは藤堂さん」

 嬉しそうに微笑んだ浜崎さんに促され、カウンター席に落ち着く。

「珍しいですね。おひとりとは……」

「あ、いえ。片桐も後から……」

「そうですか。……何になさいます?」

「お勧めはありますか?」

「今日もいいスコッチが入っていますよ」

「じゃあ、ロックでお願いします」

「畏まりました」

 静かな店内に響く氷の音に耳を傾けていると、浜崎さんが遠慮がちに話しかけて来た。

「……問題は解決されたんですか?」

 その言葉に心配してくれていたことを感じ、訪店が遅くなったことを申し訳なく思う。

「はい、一応。あの時は本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、とんでもない。片桐さんたちも心配していらっしゃったので……解決したのであれば良かったです」

 浜崎さんは優しい笑顔を浮かべた。

 ……と、扉が開く音。浜崎さんの「いらっしゃいませ」の声と重なって女性のヒールの足音が響いたので、片桐課長ではないな、とスコッチを口に含む。

 すると、ふと、隣に人の気配を感じた瞬間。

「ここ、よろしいかしら」

 ━この声。

 思考が空回ったような気がし、声の聴こえた方へ目を向ける。

「瑠……」

 目を見開くぼくに向かって、変わらない艶やかな笑みを浮かべ、瑠衣が優雅な動きで座った。

 言葉も出ないぼくに全く構わず、瑠衣は浜崎さんに声をかける。

「あまり時間がないので一杯だけ戴きたいの。お勧めのカクテルあります?」

「お好みはございますか?」

「明日、朝早いので。あまり強くなくて……ロマンチックな気分になれそうなものを」

「畏まりました」

 瑠衣の抽象的なオーダーにも動じることなく、浜崎さんはカクテルを作り出した。

「瑠……坂巻さん、どうしてここが……」

「ん?今日はちゃんと仕事で。ヴェトナムから日本入りして社に寄ってたのよ。企画の件で報告を兼ねてね。明日の朝の便で戻らなくちゃいけないから、これから羽田の方まで行って泊まりよ」

 訊いているのはそんなことじゃないのだが。きっと、社からぼくをつけて来たに違いない。

「お待たせ致しました。定番ですが……アルコール軽めの“シャンパン・カクテル”です」

「ありがとうございます」

 瑠衣は嬉しそうにグラスに口をつけた。

「美味しい。これ、確か映画の……」

「おや。ご存知ですか。古い映画を……ハンフリー・ボガート出演の“カサブランカ”に出て来ます」

 瑠衣は頷いて「確かにロマンチックな気分になれそう」と呟いた。

「きみの瞳に乾杯……ですからね」

 浜崎さんが相槌を打つ。

 瑠衣はグラスを手に持ち、どこを見ているのかわからないような潤んだ瞳を宙に向け、独り言のように囁いた。

「……あの時のこと……怒ってる?」

 突然の問いに、一瞬、戸惑う。

「……いや。ぼくの責任だ」

「うそ。もう、今さらなんだから本当のこと言ってよ。あきれてる、でも、怒ってる、でも……」

「本当に怒ってなんかいないよ。むしろ申し訳なかったと思ってるくらいだ」

「……相変わらず優等生なセリフね、颯……」

 瑠衣は苦笑いのような笑みを浮かべた。

「あなたと離れて……初めてわかったことがたくさんあったわ」

「そう?」

「ええ。自分でも知らなかった自分……にまで気づいた。里伽子の言ってた通り」

 今井さんの言うことじゃあ、さぞかし核心を貫いているに違いない、とぼくも苦笑いする。

「……結局、違った、のね……。あなたには私じゃなかった……私にはあなたじゃなかった」

 瑠衣はそう言って視線を下げ、頬杖をついた。懐かしむような表情。

「……でも……でもね……」

「うん?」

 瑠衣は少し考えるような仕草で、夢見るような遠い目をする。

「……あなたが全てだった。誰よりも、何よりも、優先順位が上だったわ。……このままずっと続いて行くんだ、って疑いもしなかった……あの頃は……」

「……ぼくもだ」

 ぼくのその言葉に、瑠衣は潤いを帯びた視線を向けた。

「……ありがとう。充分よ」

 そう言って睫毛を少し伏せる。

「ひとつ大切なものを手放すと、別の大切なものが現れる」

 呟きながら立ち上がり、グラスをすいっと浜崎さんの方に押す。

「颯。ごちそうしてくれるわよね?」

 昔のままの口調で言う。ほとんど半強制的じゃないか、と思いながらも、瑠衣らしくて笑いがこみ上げる。

「もちろん、いいよ」

 瑠衣は嬉しそうに、でもイタズラっぽい笑みを浮かべ、浜崎さんに言う。

「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

「こちらこそ、ありがとうございました。道中、お気をつけて」

「はい。ありがとうございます」

 瑠衣はまた艶やかに笑った。

 車を拾うのだろうと、外まで見送るために立ち上がろうとするぼくを「もう車を呼んであるから」と制止し、ひとりで行くと言う。

 直前、「……よろしくね」と言う言葉を残して出て行った。

 『誰に』と言う主語を言わない辺りが、如何にも勝ち気な瑠衣らしい。やはり、瑠衣は最後まで瑠衣なのだ、と、ひとり納得する。

「お綺麗な……“いい女”と言う感じの女性ですね」

「……はい」

 浜崎さんの言葉に同意しない訳には行かない。彼女は確かにいい女だと思うから。

 すると、再び、扉が開く。

「いらっしゃいませ。藤堂さんがお待ちですよ、片桐さん」

「おう。待たせたな」

「課長、お疲れさまです」

「あの企画がゴーになってからすごいことになってる。忙しくて叶わん」

 「叶わん」と言いながらも嬉しそうな課長を見るのは、ぼくたち企画室としても嬉しいものだ。

「評判の方は上々、と受け取っていいのでしょうか」

 ぼくの質問に不敵な笑顔で頷きながら、課長はさっきまで瑠衣が座っていた席に座った。

「藤堂、何を飲んでる?」

「浜崎さんお勧めのスコッチです」

「じゃあ、おれも同じものをお願いします」

「畏まりました」

 スコッチを待つ間。

「もしかしたら、さっきまでここに坂巻さんがいたか?」

「……はい。一杯だけ飲んで羽田に向かいました」

「……そうか」

 課長は静かに笑った。大体、話の内容が予想できてしまったのだろう。……と、浜崎さんからグラスを受け取った課長が突然。

「……坂巻さんのことは置いといて。ところで……その後、どうなんだ。少しは進展しているのか」

「ぐっ……」

 むせたぼくをニヤニヤしながら横目で見ている。この質問、絶対に来るとは思っていたけれど……今井さんにも説明義務が生じているから、二人にはまとめて説明したいと思っていたところなのだ。

「……課長こそ……」

 とりあえず反撃してみる。

「おれ?おれは今、別に進展するような案件はないぞ」

 ……しらばっくれる気だ。

「そんなことより、決済前日の騒ぎも耳に入ってるぞ。……どうなんだ」

 もう、笑いが止まらない、と言う様子で訊いて来る。あまりにも分が悪すぎだ。

 すると、浜崎さんがドライフルーツとナッツの盛り合わせを出してくれ、思わずそちらに意識が向く。

「これ……先日のものと違う気が……」

 課長の追及から逃げられた安堵感より、その疑問の方が先に立ったぼくの言葉に、浜崎さんは嬉しそうに笑顔を浮かべて頷いた。

「よくお気づきで。とても気に入って、最近、仕入れるようにしたものです」

「これ、美味しいですね。……進みそうで怖いくらいです」

「ん……本当だ。うまいな」

 浜崎さんは、穏やかな笑顔のままでさりげなく。

「実は先日……藤堂さんの件から数日後、でしたか。片桐さんがお約束通り美女をお連れくださいまして」

「ぐふっ!」

 課長が派手にむせた。ほくそ笑むよりも驚きの方が先に立ち、ぼくは目を見開いて課長を見つめる。そう言えば、あの時も今井さんと一緒だったっけ。しかも、ここに来る途中でぼくと遭遇したと……。

「その方が私に、心遣いでくださったものが大変美味しくて、すっかり気に入ってしまいました。それから当店でも、同じものを仕入れてさせて戴くようにしたんです」

 浜崎さんがチラチラと課長に視線を送りながら、相変わらず見事な営業スマイルで教えてくれた。課長はそっぽを向いたまま、面白くなさそうにしている。

「……課長……」

 ぼくは必死で笑いを堪える。すると。

「……ああ。あの件のことか。それならとっくのとうだ。おれは進める、と決めた案件については、きみのように躊躇ったりモタモタしたりはしない主義なんでな」

 ……しれっと言う。そっぽを向いたまま。やはりまだ口では課長には勝てない。いや、課長を手玉に取れるのは今井さんくらいかも知れない。必死で反撃の余地を探していると。

「ところで、藤堂。来週末、予定入ってるか?」

「え、いえ……」

 急に課長に話をふられる。実は雪村さんを食事に誘おうとしたら、何だか不思議な表情を浮かべて「予定が入っている」と言われたのだ。

「じゃあ、そのまま空けとけよ。四人でオヤジさんとこで食事するつもりだから。二次会は当然、ここで」

「え……」

 四人?四人って?訳がわからないぼくに、課長は知らん顔して続ける。

「今井さんと、きみと、おれと、雪村さん、の四人、だ」

「!!!!!!!!!!!!!」

 ぼくの驚愕の表情を、課長はいつものヤンチャ坊主のような顔で満足気に眺めている。

「いや、でも、彼女は予定があると……」

 動揺を何とか抑えながら反論すると、さらに課長は勝ち誇ったような表情を浮かべた。

「そりゃあ、そうだろうな。今井さんから空けとくように連絡が行ってるだろうから」

「!!!!!!!!!!!!!」

 ……雪村さんのあの微妙な反応はそのせいだったのか、と今さら思い当たる。

「もう、オヤジさんにも席を押さえておいてもらってるからな。当然、ここも」

 課長の言葉に浜崎さんが、

「父も、片桐さんと藤堂さんがそれぞれに美女をお連れくださる予定、と聞いて、貸し切りが入っていてもキャンセルする、と喜んでおります。もちろん私も、ですが」

 満面の笑みで追い打ちをかけてくる。

「浜崎さん。絶世の美女をご紹介しますよ」

 課長の言葉に、

「楽しみです。先日の方も、気配りも素晴らしい大変お美しい女性でしたから」

 ……何と、浜崎さんまでノリノリだ。

 やっぱりまだまだ叶わない、と頭を抱えるぼくを見て、課長はククッと楽しそうに笑った。

「藤堂。根回し、ってのはな……こうやるんだ。まだまだツメが甘いな」

 グラスに口を付けながらさらりと言う課長に、返す言葉が見つからない。あまりの鮮やかさが如何にも課長で。思わず笑えてさえ来る。

 そうして、また男三人で爆笑の一夜となった。 

 
 
 この後、任期を終えた坂巻瑠衣が、周りがびっくりするような話を引っ提げて帰国するのは、もうしばらく後のことになる。
 
 
 
 
 
『声をきかせて』本編 ~完~
 
 
 
 
 
 
 

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