かりやど〔四拾八〕
『 も う も ど れ な い 』
*
忘れない
あの日のこと
どんなに時が過ぎても
記憶がはじまった
あの日のことは
*
何の迷いもない満面の笑顔
いつもぼくを目がけて
真っ直ぐに駆け寄って来た
真っ直ぐにぼくを見上げる目が
ぼくにしがみつく小さな手が
抱きしめるとやわらかい身体と匂いが……
お前のことが
お前の全てが可愛くて堪らなかった
お前のためなら何でもしてやる
本当に本気でそう思っていたんだ
*
「……始めから、私の事を良く思っていないのはわかってた。……生まれて初めて“悪意の塊”をぶつけられたんだから……私は……あんたに……。でも、その理由はずっとわからなかった。そして、父様がどことなくあんたを避けていた理由も。だって、父様には笑いかけるのに、母様と私には笑顔どころか目を合わせもしない……挨拶すら……」
そう言った美鳥の背中が、朗には少しだけ悲し気に見えた。
(……気のせいだろうか……)
昇吾の顔を見下ろす。穏やかな顔。満足気に見えるのは、美鳥を救えたからだろうか、などと思う。
(……勝手だな……こんな風に死んで、満足な訳がない。……昇吾にとっては、美鳥を救えた事だけが、せめてもの救い、ではあるかも知れないけれど……美鳥にとっては……。……そして、昇吾を止めずにここまで連れて来てしまった、ぼくの罪は拭えない……美鳥から昇吾を永久に奪ってしまった罪は……)
朗は項垂れた。その耳に、再び美鳥の声が響く。
「……いつからなのかは知らない……でも、あんたは、父様を手に入れたいと思うようになっていた。……実の兄妹であるにも関わらず、その垣根を越えて、ひとりの女として、ひとりの男としての父様を。……それこそが、松宮の滅びの予兆だ……当主の娘が……ただでさえ広がりにくい家系の直系が……」
「……そんな事、当たり前だわ」
自分以外は全て見くだす目付で、曄子が口を開いた。
「お兄様より優れた男なんて、この世のどこにもいない。お兄様は最高の男性よ。他のクズみたいな男となんて比べ物にならないわ。そんな最高の人を、手に入れたいと思って何が悪いの?手に入れたいと思わない女なんていない……手に入れたいと思わないなんて、女じゃないわ!」
断定的に言い放つと、腰に手を当て、まるでモデルのように一歩前に出る。
「……だから……その父様と結婚した母様が憎かった……そして、その母様が産んだ私が忌々しかった」
「……そうよ。……そもそも、お兄様につり合う女なんてどこにもいないのに……よりにもよって、お前の母親のような、どこの馬の骨とも知れない女なんかと……その女が産んだお前なんて、いくらお兄様の血を引いていたって、わたくしの姪だなどと思える訳がないわ」
あまりに酷い侮蔑の言葉。
(……何て事を……!)
朗の方が頭に血が上りそうになる。脳裏に甦るのは、朗らかで優しかった美鳥の母・美紗の姿。昇吾の事も、朗の事も、息子のように分け隔てなく接してくれていたその様は、正しく陽一郎に相応しい──少なくとも朗はそう考えていた。
だが、美鳥自身は特に激昂した様子もなく、むしろ不気味なほど静かに見える。朗が息を潜めて見守る中、美鳥は微かに口角を上げた。
「……そっかぁ……あんたは知らなかったんだね……母様の事……」
馬鹿にしたように聞こえたのか、曄子の顔が変わった。
「あの女の事など知る価値もないわ!……あんな下賤な血を持つ……」
ヒステリックに叫ぶ姿に、美鳥はただ笑う。
「……血……ね……。偉そうに言うよね。……まあ、母様の事はいいや。……でもさ……じゃあ訊くけど自分はどうなの?自分の事は。血筋だ何だ、って、そんな他人をどうこう言えるような血筋なの?松宮って……」
自分の家の事など、心底、どうでもいい、と言う言い方。
「何を言うの!」
「だって、そうじゃん!」
気圧された曄子が、それでも睨みつけて来るのを鼻で笑い、さらに美鳥は続けた。
「……所詮、ちょっと昔に、たまたま人より発想力があった平民の男が、運良く立ち上げちゃっただけの家じゃん、松宮家なんて。……元を辿れば貴族でも何でもない……せいぜい下級武士くらいで武家と言うほどでもない。家柄も何もあったもんじゃない……あんたの言う『下賤』そのものなんじゃないの?」
「お前、松宮家の事を馬鹿にするの!?」
「ならば何故、そんなに大切な松宮家を潰そうとした!……数少ない一族を皆殺しにしてまで!」
さすがに曄子が黙りこくる。
「……たかだか、たったひとりの男を手に入れるために、さ……」
「お兄様を馬鹿にするんじゃないわ!……たかだか、だなどと……よくも……自分の父親を……」
美鳥の目から、再び感情の灯が消えた。
「……あんたには、父様の一部しか見えてなかったんだよ……見ようとしてなかったのか知らないけど……美化し過ぎ。……父様だってひとりの人間だったのに……強さもあれば弱さもあった……あんたには見せなかったか、あんたが見てなかっただけだ」
「偉そうな事を!お前になどお兄様の素晴らしさはわからないわ!お兄様に弱さなど……欠点などある訳がない!」
どこまでも陽一郎を信奉している曄子に、朗は恐ろしいものを感じた。
(……これを、妄信、と言うのか……?……何がこの人をこんな風にしたんだ……自分の息子でさえ、目に入らなくなるほどに……)
固唾を飲んで見守るも、美鳥の背中からは動揺すら感じられない。
(……美鳥はどうするつもりなんだ……?……この人を相手に……)
すると、美鳥の肩が小さく溜め息をつく。
「……完璧な人間なんていない…… 父様の最大の弱さ、それは、松宮の当主の立場としては“弱さ”だったけれど、ひとりの人間としては誰しも持っていて不思議じゃないもの……それは、ある部分では非情な決断を出来なかった事……あんたの内面も、そして犯した罪も、全てを知っていて尚、どうする事も出来なかったように……」
目を見開いた曄子が硬直し、自分を射る美鳥の目を凝視した。
「……わたくしの……罪……ですって……」
感情のない美鳥の目に、僅かばかりの色が灯る。怒りでも憎しみでもなく、強いて言うなら、憐憫の色。
「……父様の事……何だと思ってたの?神でも仏でもない、普通の人間で、普通の男だよ、父様は。怒りもするし悲しみもする、悩む事だって……その最たるものがあんたじゃん?身内であるが故に遣る瀬なく、それなのに切り捨てる事が出来なかった……それが当主としての弱さであり、人間としての父様だったのに……」
「お兄様がわたくしを切り捨てるなんてありえないわ!わたくしは誰よりもお兄様を大切に思っているし、何事もお兄様のためを思って……」
「……だからこそ、父様はあんたを避けていた。……切り捨てる事は出来なくても、関わりたくはなかった。……そう言う事だよ?気づかなかったの?」
「そんな事ある訳ないわ!」
何をどう言っても、曄子の『陽一郎信奉』が覆る事はなさそうであった。朗は恐ろしさと同時に湧き上がる疑問を拭い切れない。何がそこまで、と。
「……あんたをそこまで狂わせたのは……ある意味、血、と言えるのかもね。お祖父様のお家大事の盲信のように……」
その言葉に、曄子が床を踏み鳴らした。
「よくも……お父様まで侮辱して……!お前など、お兄様の娘であるものですか!あの女が他の男と通じて出来た子どもに決まってる!お兄様はあの女に騙されていたんだわ!お前など!松宮の血を引いている訳がない!お兄様は、お前の母親の事もお前の事も本当に大切に思っていた訳じゃない!」
目を血走らせて喚く曄子に、美鳥は今度こそはっきりと、その目に憐れみの色を浮かべた。
「……だったら、あんたは父様にその気持ちを受け入れてもらったの?父様はあんたを受け入れたの?」
曄子が怯む。
「……一度も受け入れられた事はないでしょ?……じゃあ、それは何でなの?」
「……お兄様はわたくしの立場を大切に思ってくださっていたのよ……!」
「……立場?何を?何のために?互いに結婚してるから?……バカバカしい……!……父様にとってあんたは、妹でしかなかった。妹以外の何者でもなく、そうであるが故に悩みの種だった……言われたんじゃないの?父様に……」
「お黙りなさい!……お前などにお兄様とわたくしの絆がわかってたまるもの……」
「そんな自分勝手な妄執のために!」
美鳥の声に飲まれ、曄子の言葉が止まった。
「……大体さ……私が松宮の……父様の血を引いてない……?……面白い事を言う。……あんたが一番良く知ってるはずじゃん……私が産まれた時の事を……私が初めて目を開いた時の事を。……今は変わってしまっていても、あんたも見たはずだ……私の目の色を……松宮の直系にしか出ないはずの色を」
唇を噛み、曄子は美鳥を睨みつけた。
「……だから尚更忌々しかったんでしょ?だから、望みをかけていた昇吾が……」
美鳥が言いかけた言葉に、朗は何か嫌なものを感じた。それは、曄子がその言葉に反応したせいもある。
「……父様の遺伝子のひとつが盗まれた事件……二回目の噂が流れた時の犯人は……あんただ……」
坦々と言い放つ美鳥。だが、曄子は何も答えなかった。
(……何だって!?)
一方、朗は凍りついた。単に嫌な予感、どころではない、最悪の的中。
「……自分の気持ちを受け入れてくれない父様に、あんたは強行手段に出た……」
美鳥がそっと、昇吾を振り返った。
「……昇吾を父様と自分の息子だと信じ、あれほど溺愛して……だけど、成長するにつれ、緒方の血を色濃く表して来た昇吾に……手の平を返したように関心を示さなくなった……」
義叔母の昇吾への態度が、あれほどに変わった理由を知り、朗は言葉を失う。
(……昇吾……!)
母親である曄子が、何ら責任のない昇吾にあれほどの思いをさせていたのだと、胸が締め付けられた。
だが朗には、ただひたすらに昇吾を抱きしめるしか術はなかった。
*
気がついたら私はいつも、あたたかい場所にいた。やわらかいものに包まれて、やさしいものに包まれて。
聞こえるのは気持ちいい声。
『ミドリ』『ミドリサマ』って言ってる。
いつの頃からか、それは私に向かって言っているのだとわかった。
たまに目を開けると、ぼんやりとしたものが、やさしい、あたたかい色に光っているのが見える。そのぼんやりしたものは、それぞれ違う色をしていたけど、皆やさしく私を持ち上げてくれた。
そしてあの日も、私はあたたかいところにいた。
なのに──。
突然、私は今まで感じことのない『何か』を感じた。重くて、良くわからないけどドロドロした何か。
その何かが私にのしかかり、苦しくて、恐くて、驚いて声も出なくて。
いつも私を持ち上げてくれる、一番やわらかい橙色の人に助けてもらいたくて目を開けた時──。
私の目に飛び込んで来たのは、はっきりとした、でも眩しいもの。それを見た瞬間、ドロドロは私の上から跡形もなく消えた。
私の目に映ったそれは、やさしい茶色の球。それが私の方を向いている。全部の輪郭を縁取るのは明るい黄色。
驚いたけど、ずっとそれを見ていたくて、じっと眺めていたら、その茶色の光──目が真ん丸になった。やがて、その周囲がクシャクシャになってみるみる水が溢れ出し、私の視界から消えたかと思うと──。
「ミサオバチャ~ン!ミドリチャンノオメメガオビョウキナノ~!」
──そう言っている。
『ミドリチャン』って私の事?
『オメメ』って、『オビョウキ』って何だろう?
知りたくて、そして、もう一度あの茶色を見たくて、必死に手足を動かしたけど動けなくて。仕方ないから、一生懸命、声を出した。
そうしたら、橙色の人が近づいて来て、初めてはっきり見えた。そして、その人に抱かれた茶色と黄色の光が、クシャクシャのまま、また私の目の前に現れた。
私は『それ』に向かって、必死で手を伸ばした。そして呼びかけた。
そしたら橙色の人がやさしく言う。
「ショウゴクン。ミドリノメハネ……ハジメカラ、コウイウイロナノ。ビョウキジャナイノヨ。ダカラ、シンパイシナクテ、ダイジョウブ。アリガトウネ。……ホラ、ショウゴクンノコト、スキミタイ」
「……ホント?」
そしたら、クシャクシャじゃなくなった『ショウゴクン』が、私の方に手を伸ばして来てくれた。近くまで。私の顔にやさしく触れると、伸ばしていた手を強く握ってくれた。
その手は、今まで触れた何よりもあったかくて。
嬉しくなって、私は笑った。そしたら、『ショウゴクン』がまたクシャクシャになった。でも、さっきのクシャクシャとは違う、キラキラのクシャクシャ。
「ミドリチャン、ワラッタ!カワイイネ、ミドリチャン!」
そう言って、それからもずっと──その手が強く大きくなってもずっと、私の手を握ってくれた。
いつも引いてくれていたんだ。
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