見出し画像

かりやど〔九〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
救われなくていい
救われる必要はないから
 
救ってやって欲しい
救われるべきその魂を
 
 

 
 

 タクシーから降りた承子(しょうこ)は、隅田のマンションの前に佇んでいた。
 灯りの消えた窓を見上げては俯き、溜め息をついてはまた見上げる。それを繰り返しているのだ。
 隅田の部屋の鍵を持っていない訳ではない。入ろうと思えば、好きな時に好きなように出入り出来るのだが、承子は隅田の不在時にひとりで入ったことが未だになかった。隅田からは好きなように出入りしていい、と言われていても、おとなしい承子にはかなりの勇気を必要としたのだ。
 迷いながら立ち尽くしていると、近くに一台のタクシーが停まった。ライトの眩しさに目を細めると、料金を払った隅田が降りて歩いて来る。
「……承子?」
 驚いた隅田が呼び掛けると、途端に承子は下を向いた。
「どうしたんだ、こんな所で。用があるなら中で待ってればいいのに」
「……あ、あの……私も今、着いたところで……」
 下を向いたまま答える承子に、隅田が優しく笑いかける。
「……嘘つけ。どうせ入れないでウロウロしてたんだろう?」
 丸っきり見通されていた。
「……ごめんなさい……」
 声が小さくなって行く。
「謝ることない。だけど、夜、こんな所にひとりで立ってたら危ないじゃないか」
「……ごめんなさい……」
 隅田は「やれやれ」と言うように溜め息をついた。だが、承子を見る目は優しい。
「とにかく中に入ろう」
 そう言って促す隅田に、承子は俯いたまま従った。
 部屋に向かいながら、承子は「これは天罰だ」などと考えていた。自分が他の男と食事などして浮かれていたから、罰が当たってあんな場面に遭遇したのだ、と。
「今日はどうしたんだい?」
 承子の眉がピクリと反応する。が、到底、訊くことは出来ない。つい先ほど目撃したことの真相など。そんなことをしたら、自分が他の男と食事していたことも話さなければならなくなるから。
「……今日、習い事の後で買い物に行って……これを渡そうと思って……」
 自信なさげな承子の説明は、隅田にとっては別段珍しいことではなかった。
「……ぼくに?」
 承子が頷く。わざわざ今夜のうちに渡しに来たのは、女と一緒のところを目撃したせいである。それでも、隅田のために購入したことは嘘ではない。
 承子は決して、隅田のことを嫌いな訳ではなかった。父親が信頼していようと、乗り気であろうと、いくら何でも自分が嫌いな相手と交際したりはしない。まして婚約など。
 ただ、朗と連絡を取って以来、そちらに意識が傾いていたのは事実で、気持ちが揺れていたのも確かだった。だからこそ、『天罰』だなどと考えたのだ。
 承子のそんな心の内など知らない隅田は、嬉しそうに受け取った包みを開けた。中身はコーヒー豆のパッケージが数個。隅田が気に入っている店の、いつも飲んでいる銘柄だった。
「……この間の朝、もう残りが少なかったから……でも、もし、いなかったら今日じゃなくてもいいと思って……」
「ありがとう、助かったよ。明日の分がもうなかったんだ。今日は、ほら、副島先生のところの小半くんと一緒に、先生の後援に新しく入った人の歓迎を兼ねて食事に行ってて、買いに行く時間がなかったから」
(……副島先生の後援会……あの女の人が……?)
 隅田の言葉を信じたい、いや、むしろ信じなければ、と承子は思う。だが、『信じたい』と考えてる時点で信じ切れていない、とも思うのだ。
「……副島先生の……そうだったの。……どんな人?」
 お茶を用意しながら訊ねる自分に嫌気が差す。結局、自分は隅田を信じていない。信じ切れていないからこそ、探るような真似をしているのだ、と言う事実に。
「珍しく若い人だよ。しかも女性。……きみと同じくらいか……少し上くらいなのかな?」
(……女性……)
 躊躇いなく『若い女性』だと言い放つ隅田に、悪びれたり気まずそうな様子は全くない。
「だけど途中で小半が呼び出し食って……ぼくが送って帰って来たところだったんだ。それにしても、あれ以上遅くならなくて良かった。じゃなきゃ、きみがいつまで外でポツンと待ってたかわかったもんじゃない」
 そう言って笑う様子にも。
「……承子?どうかしたのか?今日は何か変だぞ?」
 下を向いたままの承子に、隅田が心配そうに訊ねた。心の中に罪悪感だけが募り、顔を上げることが出来ない。
 自分の行動と迷い、そして隅田の優しさ。隅田への気持ちと、小松崎朗に対する漠然とした気持ちの狭間で。
「……何かあったのか?」
 ……言えない。承子は俯いたまま首を振った。
 例え隅田の優しさが、父の威光によるものだとしても、それを責めることは出来ない。第一、承子にはその優しさが偽りとも思えない。
 その様子に何かを感じ取ったのか、隅田が承子を静かに抱き寄せた。
「……隅田さん……」
「……和宏……だろ?ぼくはいつまで『隅田さん』のままなんだい?」
 承子は泣きそうになった。この期に及んで迷っている自分に。背中に回した手で隅田のシャツを掴む。
「買って来てくれたコーヒー……明日の朝さっそく淹れてもらおうかな」
 隅田の言葉に、堪え切れずに涙がこぼれ落ちる。
「……和宏さん……」
 消え入りそうな声で呼んだ瞬間、承子は隅田の熱に飲み込まれた。
 

 
 翠から遅れることしばし。
 朗が帰宅すると、翠は既に寛いだ格好になっていた。
「おかえり」
「……着替えて来ます」
 答えようもなく、それだけ言うと避けるようにバスルームへ向かった。シャワーを浴びながら、自分の存在も流れてしまえばいいのに、とさえ思う。
 重い気持ちを流すことは出来ないまま、リビングに戻ると翠が待ちかねていた。
「……そのまま帰しちゃったの?」
「……当たり前です」
 ふふん、と笑った翠が急に真顔になる。
「……作戦変更」
「……え……?」
 読んでいた報告書をテーブルに投げ出し、翠がソファに寝そべった。宙の一点を見つめる。
「……翠……?」
 少しの間の後、翠は意外なことを言い出した。
「隅田をオトすのはやめる」
「……何故、急に……」
 もしかしたら、承子たちから手を引いてくれるのではないか、などと期待しそうになる。
「……って言うか、あの男、オチない」
「どう言うことです?」
「……堀内承子に惚れてるから……それも、かなり本気で」
 朗の脳裏に、承子の自信なさげな様子が浮かんだ。おとなしくて控えめな承子だが、朗の予想通り、そこに惹かれる男がいたとしても不思議ではない。だが、翠はそれをどこで見極めたと言うのか。あの短時間で。
「……だとして、この後はどうするんですか?堀内承子の方は……」
「まずはそっちを隅田に流す」
「……それは、どう言う……」
「だから、堀内承子の浮気疑惑を隅田に投げる」
 事も無げに言い放つ。
「腕の見せ所だよ、朗」
「………………!」
 息を飲むことしか出来ない朗に、硝子玉のような目で笑いかける。
「……無理です……!ぼくには出来ない……!」
「何でそんな難しく考えるかなぁ?たかだか、ちょっと甘い言葉のひとつも吐いて押せば、後はお定まりなのに。一回、モノにしちゃえばどうにでも出来るよ」
「……出来ません!」
 大きく息を吐くと同時に叫んだ朗の顔を、翠は感情のこもらない目で見つめた。朗も見つめ返す。意思をこめた目で。
「……出来ないなら出来ないで別にいいけど」
 視線を手元に戻しながら、翠がまるでひとり言のように言う。その言い方が朗の不安を煽った。
「翠!手を下すのは堀内本人だけにしてください!」
 翠の目が明らかに吊り上がる。だが、朗も怯まず、ふたりが睨み合う。
「……この件は朗抜きでやるからいいよ。もう堀内承子に関わらなくて。……ところで小半のことは何かわかった?」
 あっさりと引いた翠に、朗は一抹の恐れを感じた。何かはわからない不安。それを胸の奥に押し込める。
「……かなり調べさせましたが、特にこれと言ったことは出ません。一応、まだ継続させてはいますが……」
 翠に小半の調査報告を渡した。
「……小半優一(ゆういち)……31歳。父とは産まれる前に死別、母と子ひとりの家庭で兄弟はなし。幼少期より学術は優秀、奨学金で大学進学。大学在学中、講演で訪れた副島大造と知り合い、その能力を高く評価される。卒業後はその能力を買われ、副島の引き立てで秘書となる……か……。絵に描いたようだね」
 本心なのか皮肉なのか、翠が評した。
「大きな問題も起こしていませんし、努力で運を切り開いた見本のようではありますね」
 朗が素直な感想を洩らすも、翠は小半のことが気になるのか、報告書に目を落としながらじっと考え込んでいる。
「……何か気になることでも?」
「気になって仕方ない。……小半の調査はずっと続けるように言って。どんなことでもいいから」
「わかりました」
 これ以上、堀内承子に関わらなくていい、と言われ、朗は内心ホッとしていた。だが、それと同時にどうにもならないくらいの不安が胸を過る。
 それは、翠が何かを企んでいる予感。
 何を企んでいるのかわからない不安。
 だからと言って、自分に何が出来るのか……あまりに無力な自分。
 
 打ち合わせと報告を終え、朗は部屋に引き上げた。疲れているのに、ベッドに横になってもなかなか寝付けない。天井を眺めていると、この数年のことが次から次へと、脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かび、頭が休まらないのだ。
「……二年前、翠が言うように、ぼくが彼女に引導渡すべきだったのか……?……そして今回も……?……いや、今回の件は話が違う。堀内承子を巻き込まなくても進められるはずだ……」
 朗には答えを出すことは出来なかった。どんなに翠の遣り方に反対しようと、どんなに苦しかろうと、彼女の傍を離れる訳には行かない。自分だけ逃れる訳には行かないのだ。
 ──と、気配を感じて扉の方に目を向けると、翠がフラつくように入って来た。声をかけるまでもなく、ベッドに潜り込むと猫のように身体をすり寄せて来る。そのまま朗がじっとしていると、すぐに寝息が聞こえて来た。
 これも頻繁にあることで、朗は特に驚きもしなかった。
 朗の方からは、翠のベッドはおろか、部屋に入ることもほとんどない。翠に呼ばれでもしない限りは。だが、翠は週の半分以上はふらりと潜り込んで来る。いつも何の前触れもなく、いきなり朗の腕と身体の間に、本当に猫のように自分の身体を滑り込ませるのだ。
 その身体を抱え、意外なほど子どもっぽい寝顔を見つめていると、彼女が人を手に掛けた、などとはとても信じられなかった。
(……これまでに何人の命を奪ったのだろう……このしなやかな身体と手で。……そして、あと何人の命を奪えば終わるのだろう……)
 朗は目を瞑り、心の中で祈る。
「……救ってやってくれ……」
 呟いた朗は、やがて短い眠りへと誘(いざな)われた。
 

 
 数日後、翠は意外な話を耳にした。
 
 小半、隅田とは、一度食事をして以来、頻繁とは言わないまでも、連絡を取り合うようにはなっていた。そんな折に、隅田と堀内承子が婚約を破棄するのしないの、と言う噂が飛び込んで来たのだ。
 原因は、堀内と隅田宛に匿名で送られて来た写真だと言う。察するに、朗と食事をした時の写真を何者かが隠し撮りしたものであろう。男の方の顔には、わからないように細工が施されていたと言うから、狙いは堀内に対する脅迫、もしくは嫌がらせと思われた。
 
 その写真を見た途端、堀内は激怒し、隅田は呆然とした顔で黙り込んだ。堀内にしてみれば、自分への挑戦状とも言える写真であり、腹を立てるのも当然であるが、それ以上に承子の迂闊さに立腹していた。
「隅田ならともかく、女の承子がこんな現場を……!」
 甚だ時代錯誤な男尊女卑ではあるが、企業のイメージとして良くないのも事実であった。
 堀内がすごい剣幕で問い詰めると、承子は青ざめて震えながら、だが浮気の事実は否定した。しかし堀内のあまりの怒り具合に、承子は恐ろしさでそれ以上の言葉を出せず、そこを隅田が穏やかに訊ねたことで、やっと詳細を話せるまでになったと言う。
 写真の男がかつてのバイト仲間であったこと、黒川玲子の件で連絡を取ったこと、偶然会って食事をしたこと……その事実のみであると必死で訴えた。
 隅田は承子の言葉を信じ、この話は終わらせる方向で望んでいたが、未だ興奮の収まらない堀内を説得するのに難航していた。
 
 その話を聞いた時、当然、朗は翠の仕業と思い、彼女の顔を凝視した。ところが、何故か翠までもが驚いた顔をしている。
「……翠が手を回したのではないんですか?」
「私だったら朗の顔を隠したりしないよ。その必要ないし……第一、私は写真じゃなくて、本人に現場を目撃させるつもりだったもの」
 さらりと言う翠の言葉に、嘘はないように思えた。そもそも翠がやったのなら、確かに朗に隠す理由がない。
「……手間は省けたけど……手放しで喜んではいられないなぁ」
 
 自分にとって敵なのか、味方なのか。
 その判断がつかない謎の存在の出現に、翠は面白くなさそうに空(くう)を睨んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?