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終の棲処〔美鳥〕〜かりやど番外編〜

 
 
 
最後まで聞いていたかった声
最後に呼びたかった名前
 
その魂がある場所
 
 
仮宿を捨てた
 
此処が私の
終の棲処
 
 
 

 朗(ろう)の手が顔に触れたのを感じ、薄っすらと目を開けた。
 
「おはよう、美鳥(みどり)」
 大好きな、低く甘い声。
「気分は?」
 いつもと変わらぬ笑顔、頬に触れ、髪をなでる大きな手。
「うん。今日はお風呂入りたい」
 今はもう、身体に負担がかかるからと、毎日は許してもらえなくなっていて、春(はる)さんが毎日綺麗に拭いてくれていた。
「大丈夫かい?」
 スープと朝の薬を飲ませてくれながら、朗が少し心配そうに眉根を寄せる。
「うん。大丈夫」
「わかった」
 うなずいて、抱き上げようとする朗を押し留めた。
「美鳥?」
 不思議そうな顔。
「春さんたち呼んで」
「……え?」
 朗のポカン度に拍車がかかり、思わず笑いを堪える。
「今日は春さんたちにお願いするから」
 そう言った時の朗を、どう表現すればいいのだろう。
 主人にかまってもらえると思ったところを素気なくされたような、雨の中ポツンとおいて行かれたような仔犬の目、とでも言えばいいのだろうか。
 寂しそうな、心細げな、何が起きたのかわからないというような顔。大きな身体に似合わない、何とも言えないくらい可愛らしくて愛おしい。
『いつもは──』
 心の中でそう言ってるのが丸わかり。
「……わかった。待ってて」
 でも、結局、言うことを聞いてくれる。
 
 部屋を出て行く朗の後ろ姿を見送り、枕に背を預けて窓の外に目を向けた。私が生まれた日が近づくにつれ、新緑の輝きが増して来ている。でも──。
 
 少し前から薄々感じてはいた。
 朝、目が覚めて、すぐにわかった。
 
 ついに、時が──その時が来たのだ、と。
 
 今日で、あと少しで、
 私の時間(とき)は終わる。
 
 朗に触れられるのは、触れてもらえるのは、今日で最後だ。

「美鳥さま。大丈夫でございますか?」
 看護師の立花(たちばな)さんと三木(みき)さんに支えられた私の身体を、春さんが優しく丁寧に洗い流してくれる。
「うん、気持ちいい」
 久しぶりの温かい湯船。気持ち良くて眠ってしまいそうになる。
「お嬢様。お加減が悪くなったら、すぐに仰ってくださいね」
「そうです。無理はダメですよ」
 すぐに寝ちゃう私の習性を知っている立花さんたちの言葉に、春さんがニコニコしながらうなずいた。
 
 お風呂から上がってタオルに包まれた私を、待っていた朗がベッドまで運んでくれる。その後の着替えやら髪の毛の手入れは、また春さんが丁寧にしてくれる。
 これも、今日で最後。だから、春さんには言っておかなきゃいけない。
「春さん」
「何でございますか?」
「ごめんね」
 春さんは、一瞬、髪を梳いている手を止めた。
「……美鳥さまに責任はないのですから、この場合、そのお言葉は相応しくないと思われませんか?」
 再び、手を動かし始めた春さんは、いつもと全く変わらない口調でそう言った。
「そっか……そうだね。……ありがとう、春さん」
 春さんを抱きしめる。私より小さな春さんの身体を。
「本当なら、それもわたくしの申し上げる台詞でございますけどね……」
 ひとり言のように、春さんはポツリとつぶやいた。
「……お願いね」
 春さんは答えなかった。でも、抱きしめ返してくれる手が、代わりに答えてくれてもいた。
『心得ております』と。
 十分過ぎるほどわかった。
 
「朗さまをお呼びして参りますね」
 身支度をすっかり整えてくれると、春さんはいつものように去った。入れ代わるように朗が入って来る。
「具合は悪くない?」
 うなずき、近づいて来る朗に向かって両手を伸ばした。
「ん?」
 意図に気づいた朗が穏やかな笑みを浮かべ、その腕が私を包み込む。
「最近、ぼくが近寄ると、ちょっと逃げ腰になる時があるのに……」
「だって、今日は、綺麗に洗ってもらったから……」
「毎日、春さんが綺麗にしてくれてるじゃないか」
 そう言いながら、私の身体が出来るだけ横になるよう、朗は身体を下側にもぐり込ませた。自分の身体に重なるように私を抱える。
「そーゆうことじゃないの」
 不満を洩らすと目を細め、あたたかい大きな手で背中を包んでくれた。
 シャツを通して、ぬくもりと鼓動を感じる、どこよりも好きだった朗の腕の中。このまま溶け込んで、ひとつになってしまえれば良かったのに。
 
「朗……」
「うん?」
「信じてね」
 一瞬の間。
「……何を、だい?」
「私の言ったこと全部、疑わないでね」
 瞬間、背中に回されていた朗の腕に力がこもった。
「……美鳥……!」
 絞り出したような声。私は自分のシャツのボタンを外し、朗のシャツのボタンも外した。最後にもう一度、直に触れたい。直に触れて欲しかった。
「……美鳥……!」
「なぁに?」
 朗の声が震えている。鼓動が一度大きく跳ね上がり、そして、次第に早鐘のようになって行くのがわかった。
 なのに、もう何も言えない。私に出来ることは、もう、何もない。直に重なる胸のぬくもりを感じることしか、もう出来ない。
 何より、自分の意識がゆっくりと沈もうとしていることしか感じられなかった。
 
「朗…………ろ、う…………」
 
 身体は宙を浮いているようだった。まるで、羽にでもなったように。
 ただ、意識だけが、自分の意思とは関係なく沈んで行くようだった。甘い蜜が絡みついて自由が効かないみたいな、抗えないほどに、それは例えようもなく甘美な感覚だった。
 
 もう、言うべきことは全て伝えてあった。
 とっくに覚悟も出来ていた。
 心残りがない、と言えば嘘になる。
 それでも、出来ること、やるべきことは終えていたし、私がして来たことを考えれば、そんな望みは虫のいい話でしかない。
 
 だから、私は悔いたりはしない。
 
 ──なのに、最後まで聞いていたかった声が私を呼んだ。
 
「美鳥!」
 
 つなぎとめようとするみたいに、身体全部で私は抱きしめられた。
 
「美鳥! 美鳥! 美鳥!」
 
 ひたすらに私を呼ぶ朗の声。
 
 まるで私を包み込むように遠くから聞こえて来る声に乗って、それでも羽のように浮遊していたその時──。
 
「つれて行け!」
 
 その声だけが、突然、落雷のように耳の傍で響いた。
 
「いくのなら……どうしても、いくと言うなら、つれて行け……! ぼくを……ぼくの心を……!」
 
 こんな声、昇吾(しょうご)が死んじゃった時でさえ聞いたことがなかった。
 
「美鳥……! ぼくをつれて行け……!」
 
 ああ、朗。
 そんな風に言ってくれるの。身勝手な私に。ついて来ることを許さない私に。逆の立場なら勝手について行ってしまう私に。
 
 私はあなたに許さないことを、自分では平気でしてしまうのに。
 
 ああ、もう、十分だ。
 私は、『つれて行け』と言ってくれたあなたの心だけをつれて行く。他の心は、いつかあなたが持って逢いに来て。
 
 もし、そのいつかの時。
 あなたが私に逢うに及ばないと思うなら、そのままあなたが持っていて。
 
 望んだ運命ではなかったけれど、あなたに呼ばれながら、あなたの声を聞きながら、あなたのぬくもりを感じながら、あなたの腕に抱かれながら、あなたの魂の在るところで眠りにつける。
 
 それだけで、今、あなたを哀しませているこの時でさえ、私には幸せしか感じられない。
 
 朗。
 愛してる。
 
 この気持ちがあるこの場所が、私の、私の魂の終の棲処。
 
 
 
 
 
 
 
 

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