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DOLL〜底辺2〜

 
 
 
私の罪は赦されない
赦されなくていい
 
私がされたことが罪ではなく
私がしたことが罪だと言うのなら
 
神にも誰にも
赦されなくて構わない
 
 
 

 
 

 幸せ、と言うものは、こんなにも儚く一瞬で消え去ってしまう。妹がいなくなり、母がいなくなり、父がいなくなり──。

 私は天涯孤独の身となり、ひとり彷徨って浮浪児になりかかっていた。そんな私を拾った金持ちの夫婦──養父母を殺め、彼らの財産を全て盗み、私は逃げた。 

 そうして各地を放浪し、辿り着いたこの場所とも、今、何よりも愛おしい存在となっていたレベッカとも、別れの時を迎えようとしていた──はずだった。

 

 嘘も駆け引きも何もない、涙に烟る青い瞳が私を見つめている。

「……おいで……」

 いつものようにそっと膝の上に抱き寄せると、いつもとは違って私の肩に顔を伏せた。

(……今なら、まだ間に合う……!)

 心の中で警鐘が鳴る。今、引き返せば、彼女だけは無傷で助けることが出来る、と。

 己の身などどうでもいい。既に罪に塗れ、禁も犯したこの身など、今さら惜しむものでもない。罪と禁がひとつやふたつ増えたところで何だと言うのか。けれど、そこに自分だけでなくレベッカをも連れて行くことは──例え、彼女自身が望んだとしても、許したとしても──私がこれから犯す禁を共に背負わせることは──。

 逡巡する私の腕の中で、レベッカはピクリともせずに身体を預けていた。羽根のように軽い、だが確かな存在の重みを意識した時、私の心は戻れない方へと傾いた。

「……レベッカ……」

 そっと小さな顎を掬い上げると、湿度を帯びたブルーの瞳に己の顔が映っている。

(……本当の禁忌は……私が全て背負う。……きみは知らなくていい……)

 二重の禁忌──それはレベッカは知らなくて良い。私が全て背負って行けば。

 

 私は、レベッカを連れて禁断の一線を踏み越えた。

 レベッカを胸に抱きながら、背中側の肩口に口づける。陶磁器のような彼女の肌の、そこには一ヶ所だけホクロがあった。大きさの違うふたつのホクロが並んでいる。

 眺めながら、養父母を殺める以前に犯した罪を思い起こしていた。過去を思い出すのもこれが最後になるだろう。もう、思い出す必要はなくなるのだから。

 

 家族と幸せだった日々……幸せ、だと信じていた日々。

 父は働き者で頼もしく、母は朗らかで優しかった。妹は可愛くて、母の中には直に産まれるはずの弟か妹もいた。

 ずっと、そのまま続いて行くのだと信じていた毎日は、ある日、この手から呆気なく溢れて行った。

 事の始まり、それは妹が行方知れずになったことだった。母が少し目を離した隙に姿が見えなくなり、そのまま見つからなかった。近くの沼の畔には妹の靴が転がっており、服の切れ端が枝に引っ掛かっていた。

 責任と嘆きに圧し潰された母は、床に伏すようになると日に日にやつれて行き、産まれるはずだった命と共に儚くなった。

 父は酒の量が増え、仕事にも支障を来たすようになった。それでも、何とか少しでも支えたいと、幼いながら懸命に手伝っていた私は、ある日、決して知りたくなかった事実を知ってしまった。

 母が亡くなって二年も過ぎた頃であろうか。父の酒の量は増え続けていて、その頃には既に酒浸りと言う表現がピッタリの状態になっていた。働き者で頼もしかった父の姿は影も形もなくなり、酒が切れると私に当たり散らす始末だった。それでも、まだ父を大切に思っていた。母を喪った父を哀れと思う気持ちも残っていたから。

 けれどその夜、いつにも増して飲んだくれた父は酔い潰れ、食堂のテーブルで眠りこけていた。夜中にふと目を覚ました私が父の肩に毛布をかけ、部屋に戻ろうとしたその時、寝ぼけていたのか父が何かを話し始めた。ほとんど回っていない呂律に、寝言だと思って扉を閉めようとした私は、父のひと言に凍りついた。

『……もうひとり娘が産まれてりゃ、また高く売れたのによぉ……』

 耳が自分の耳ではなくなったのかと思った。心臓も、手足も、身体の全てが遠ざかって行くような感覚に目眩を覚える。

(……今……何て……)

 脳が必死に否定しようとした。これは悪い夢だと。けれど──。

『……あいつに似れば、さぞかしいい女に育ったろうに……』

 もう、認めざるを得なかった。妹は行方知れずになったんじゃない。沼に沈んでしまったんでもない。父に……父が誰かに売ってしまったのだ、と。そして、そのせいで母も、産まれて来るはずだった弟妹も死んでしまったのだ、と。

 私は部屋に駆け戻ると、ベッドに身を投げ出した。呼吸が苦しくてどうにかなりそうだった。

 ほんの数分前に見聞きしたことを反芻すればするほど、今まで感じたことのない何かが、抱いたことのない何かが、胸の奥底から湧き上がって来るのがわかった。それは、子どもだった自分には抑えようもないほどに膨れ上がり、私の中の何かを粉々に打ち砕いてしまったのだ。

 やがて、さっきまでの動悸や耳鳴りが嘘のように治まった。代わりに、もしかしたら自分の身体機能は全てとまってしまったのではないか、と言うほどの静けさ。

 ゆっくりと立ち上がり、服を着替えた私は食堂に戻った。静かに扉を開けると、父は……ついさっきまで父だと信じていた男は、正体なく眠り込んでいた。

 傍らに立ち、その顔を見下ろすも、何の感情も湧かない。蔑み以外の。あれほどに頼もしく思い、尊敬していた父に……父だったはずの男に。

(……この薄汚ない男は誰だ……?)

 私は父の周りにランプ皿を置いた。暖炉にも薪を足し、そのうちのひとつを皿に焚べる。火が油に回り始めたのを確認し、静かに部屋の扉を閉めた。

 なけなしの金と着替えを持ち、そのまま生まれ育った家を飛び出す。背後で燃え上がる炎の気配を感じながらも、一度も振り返ることはなく。

 それきり戻ることもなかった。

 

 そして、一人きりになった13歳の私を拾ったのが、身分は低いが金だけは持っている夫婦。

 親切そうなフリをして、ふたりの裏の顔は吐き気がするような獣(けだもの)だった──夫婦揃って、私の顔が綺麗だから拾ったのだ、と言い放つ程度には。要は見栄えのいい、生きた玩具が欲しかっただけ。

 毎日毎夜、夫妻の相手をさせられる屈辱的な日々。それでも、子どもがひとりで生きて行くなど容易でなく、屋敷を出れば野垂れ死にするだけとわかっていた。だから耐えた。ただ、食べ物のために。ただ、生きるために耐えた。報復はいつかすればいい、生き延びてこそチャンスも訪れる、と自分に言い聞かせながら。

 18歳になった頃、年齢的にも肉体的にもひとりで生きて行けると確信し、予てより立てていた計画を実行した。

 乱痴気騒ぎで満足した養父母が、酔い潰れて寝静まった夜更け。私はふたりを手にかけ、その上で屋敷に火を放った。父の時と同じように。そして金目のものを全て掻き集め、燃え盛る屋敷から逃げた。遠くへ、遠くへ。

 罪を犯し、禁も犯し、そして、今また新たな罪と禁を重ね、さらに上塗りしようとしている。なのに、今この手の中にある存在が迷わせる。もう、引き返すことは叶わないとわかっていて。

 私はいつものように、レベッカの身支度を整えた。ドレスを着せ、化粧を施し、髪の毛を梳く。自分もいつもの装いに身を包み、仮面だけは着けずにサイドテーブルに捨て置いた。レベッカの前で、隠すものなどないのだから。

 ベッドの上で、レベッカを膝に乗せて向かい合う。見つめると、真っ直ぐに見つめ返して来るブルーの瞳。その中には、恐れも、哀しみも、躊躇いも、何もない。

 そっと頬に触れ、そのまま数秒──。

 私は取り出した小さな瓶の中身を呷った。そのままレベッカに口づける。

 深く口づけると、レベッカの白く細い喉が微かに動いた。そのまま全てを流し込むと、レベッカが私を見上げる。微笑みかけ、私はもう一本の瓶の中身を自分で飲み干した。

 ──その時はすぐにやって来た。

 レベッカの細い指が、自分の喉元と私の胸元を握り締める。喘ぐように唇が動き、苦しげに、助けを求めるように私を見上げた。だが、レベッカを抱きしめた私の胸も、すぐに焼けつくように熱くなった。息を吸っても吸っても、一向に肺に空気が入って来ない苦しさ。焼け爛れるような痛み。ただ耐えるしかない苦痛に、レベッカをこの苦しみの道連れにしてしまった痛烈な後悔の念が駆け抜ける。それでも、抱きしめてやることしか出来ない。

 強く抱き合ったまま、私に顔を寄せたレベッカの唇が微かに動いた。

「……」

 私は自分の耳を疑った。

「………………」

 レベッカの顔を見つめる。苦しさも痛みも、全て置き去りにするほどの驚きに。

 やがてレベッカのブルーの瞳が少しずつ閉じて行く。花びらのような唇が、微かな笑みを湛えながら。その様に我に返った私の胸にも、再び焼け付くような熱さが戻った。だが、レベッカが耐えた苦しみならば、私も耐えなければならない。耐えられないはずがない。

 奪われて行く呼吸、微かな意識の中で、レベッカの最期の声が走馬燈のようにこだまする。

『……おにいさま……』

 レベッカ……知っていた……。

『……ありがとう……おにいさま……』

 肺の中からこみ上げて来る、生暖かい何かを懸命に堪える。レベッカを私の穢れた血などで汚したくはなかった。

「……シェリル……」

 一体、いつから気づいていたのか──。

 15年ぶりに口にした妹の本当の名前は、お菓子のように甘く口の中に溶けて行く。私の意識と共に。腕の中のぬくもりと共に。

 

 それが最後の記憶だった。
 
 
 
 
 
〜終〜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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