見出し画像

かりやど外伝〜松の宮 護る刀自〔伍〕

 
 
 
 陽一郎(よういちろう)に連れられた美紗(みさ)が、松宮家を訪れたのはその週末、昼の事であった。
 
「はじめまして。高村美紗と申します。本日はお招き戴き、ありがとうございます」
 昇蔵(しょうぞう)の美紗に対する第一印象自体は、決して悪いものではなかった。その証拠に、眉間の力がやや抜けた事に冴子は気づく。
「……よく来られた。陽一郎の父です。そして家内」
 名のある当主として、一応の挨拶は外さない。昇蔵に紹介された冴子(さえこ)は、何事もなかったように美紗と会釈を交した。
 しかし、陽一郎の顔だけは、ひどく緊張している。
「さっそく本題に入らせて戴きますが……陽一郎は、あなたが大学を卒業したら結婚したい、と言っております。あなたの方も同じ気持ちである、と認識して宜しいか?」
「はい」
 即答する美紗に、昇蔵が頷いた。
「私がどんな条件を出しても?」
 反応した陽一郎を、美紗が手で留める。
「……どのような条件でしょうか?」
 昇蔵の目を真っ直ぐに見つめたまま、美紗は落ち着いた声で訊ねた。
「松宮家が子どもを授かりにくい家系である事はご存知か?」
「……聞いております」
 話が早い、と言うように頷いた昇蔵が、問題のひと言を切り出す。
「万が一のため、あなたと陽一郎の遺伝子を保存しておく事、それが私からの唯一の条件です」
「お父さん!」
 父の言葉が終わるか終わらないか、ほどの瞬間、激昂した陽一郎が立ち上がった。再び美紗はそれを手で制し、昇蔵に目線を戻す。
「……それだけで宜しいのですか?」
「……何?」
 驚いたのは陽一郎だけではなかった。昇蔵の目も見開かれ、呆気にとられた男二人が美紗を見つめる。
「……それだけの事で、本当に陽一郎さんとの事を認めてくださるなら、私は一向に構いません」
「美紗!」
 信じられない、と言うように、陽一郎は美紗を見下ろした。反して、その陽一郎を見上げる美紗の目は冷静で、普段と全く変わらない状態であった。
「陽一郎さん……ここしばらく、あなたが何かを言いたそうにしていたのには気づいていました。でも結局、何も言わなかった。それは、この事だったんですね?」
 責めるでなく、美紗の口調はただの事実確認、としての意味以外は含んでいなかった。だが、俯いた陽一郎は拳を握りしめて唇を噛む。
「……お前の答えはどうなんだ、陽一郎。美紗さんがこう言っていても、まだ拒否するのか」
 昇蔵の声が詰め寄った。
「……当たり前です!……ぼくは……!」
 陽一郎が反論しようとした時、
「……陽一郎……」
 それを制する冴子の声に、一堂が水を打ったように静まる。
「……あなたには、覚悟がありますか?」
「……えっ……?」
「……美紗さんは、あなたとの未来のために、全てを受け入れると言いました。あなたのために全てを受け止める覚悟があると。あなたは美紗さんとの未来のために、全てを捨てると言いましたが、あなたは捨てさえすれば放棄出来ても、美紗さんはそれも背負って行かなければならない……あなたに捨てさせた事を。……もちろん受け止める事も捨てる事も、どちらも簡単な事ではありません。でも、ならば、あなたには美紗さんのために、彼女が受け入れようとしているものを全て、背負う覚悟はあるのですか?美紗さんのように……」
「……それは、もちろん……」
 答えながらも、凪のように問う母の質問は、却って陽一郎の胸に突き刺さった。
「……覚悟があるのなら、後はあなた方二人が決める事……けれど、本来ならあなたが、あなたの方が、より多く背負わなければならない事ではありませんか?」
 陽一郎は初めて、母が真に松宮家の血を引いている人間なのだ、と実感した。
 ずっと敬愛していた父のような、努力で磨いた能力を素晴らしいと認めてはいても、母が持って生まれた能力は父にはないのだ、と。もちろん、父にあって、母にないものも多い事はわかった上で。
「……お父さん……」
 ゆっくりと昇蔵の方を見る。昇蔵もまた、陽一郎を見上げた。
「……その条件、受け入れます。……ただし、ひとつだけ約束して欲しい事があります」
「……何だ?」
「……ぼくたちが、どうやっても自然に子どもを授かる事は難しい、と言う年齢になるまで、その方法を使う事は待って欲しいんです」
 陽一郎を見つめたまま、昇蔵は少し考えているようだった。だが、直に小さく頷く。
「……わかった」
 この時、冴子と美紗が目だけで頷き合った事に、昇蔵も陽一郎も気づいてはいなかった。
 
 そして一年後、美紗の卒業を待って、二人は結婚する事になる。
 

 
 予定通り結婚した陽一郎と美紗は、昇蔵との約束通り、程なくして遺伝子を保存するべく臨んだ。
 
 さらに、結婚するに当たって、昇蔵と冴子からは三年間は別に暮らす事を提案された。その間は、別宅を使って二人で暮らすように、と。
 いずれは本宅に入らなければならない身ではあるが、二人きりでのせめてもの新婚生活を、祝いとして贈られたのである。
 美紗には、これは冴子からの心遣いである、と瞬時にわかった。味方である、と言ってくれている事が。
 その三年の間に子どもを授かる事はなかったが、それでも二人にとっては、かけがえのない三年間となった。
 
 だが、二人が松宮本家に入って一年と経たない内に、最初の事件は起きた。
 
 松宮が運営する研究所から、保管してある陽一郎たちの遺伝子──その内のひとつが紛失した、と言うのだ。
 その知らせを受けた時、陽一郎は昇蔵と打ち合わせの最中であった。紛失なのか、盗難なのか、そしてどこにあるのか、捜索指示を昇蔵が出そうとした、まさにその時、研究所からの第二報が入ったのである。
 ──間違いであった、と。
 新人のスタッフが確認中に勘違いをし、その後、他のスタッフが再確認して間違いである事がわかった、と。
 それを聞いた昇蔵は頷き、その話はすぐに終結した。
 だが逆に、陽一郎の胸には不安と疑惑が生じていた。慎重な父が、現場に確認にも行かず、そこまででなくとも事細かな事実確認もしない事に。
 そして、ひとつの仮説を事実として、胸の内から拭い去る事が出来なくなった。即ち、松宮の一員であれば、誰でも簡単に研究所に潜り込めるのだ、と言う事実である。
 それは後々まで、陽一郎の中で燻り続ける『疑惑』となった。
 
 その予感は的中し、意識していないところで陽一郎が漠然と懸念し始めた『事実』が、知らぬところで確かな事件となっていたのである。
 

 
 『その事』に、最初に気づいたのは冴子であった。
 
 事件から一年近くが経つ頃になって、他の誰も気づかぬ程度に微かな昇蔵の変化──不審に思った冴子が問い質したのである。
 
 話を聞き、冴子は驚愕した。
 あろう事か、昇蔵は陽一郎との約束を破り、二人の遺伝子で子どもを設けた、と告白したのだ。遺伝子紛失は、まさしく昇蔵の指示の元で行なわれていたのである。
「……あなた……何て事を……」
 下方に視線を固定した昇蔵に、冴子が声を絞り出した。
「……陽一郎たちと約束したではありませんか……!」
 昇蔵は何も答えなかった。答えられないのだ、と冴子は気づいた。
 人工的な手段を用いても、松宮の特性を考えれば確実に子を授かるとは限らない──その可能性に、昇蔵は焦りを抑えられなかったのだ、と。
 重苦しい空気の中、冴子は決意した。
「……あなた……こうなってしまった以上、仕方ありません。でも今の時点で、その子を松宮の後継者にする事は出来ません。陽一郎たちに話す訳にも……」
 微動だにしない昇蔵に、冴子はひとり言のように語りかける。そして、決定的なひと言を放った。
「……その子の処遇は、わたくしに一任してください」
 初めて昇蔵が顔を上げた。瞬きのとまった目で冴子を見つめる。
「……よろしいですね?」
 視線と言うよりは、顔の向き自体を宙に彷徨わせた後、昇蔵は力なく頷いた。
「……最良の方法で尽力致します……」
 それだけ言うと冴子は立ち上がり、座り込む昇蔵を残して部屋を出た。
 

 
 そうは言ったものの、冴子にもすぐに妙案が浮かんだ訳ではない。どうするべきか……考えあぐねた冴子は、信頼出来る人物に相談しようと思い至った。
 
 この頃、昇蔵の周囲には、将来の日本を担うであろう、有能な人材が数多く集まって来ていた。その中には、冴子の覚えが深い男も。
 それが、二十歳台の頃から昇蔵に目をかけられ、後に大物代議士と呼ばれる事になる男──名を副島大造(そえじまだいぞう)と言う。
 副島を特に気に入っていた昇蔵は、陽一郎にもたびたび会わせ、様々な話をさせていた。陽一郎の育成に於いて、副島は一役も二役も買っていたのである。
 
 冴子からの連絡を受け、副島は即日中に駆け付けた。
 冴子に対して、副島は若い時分から秘かな憧れを抱いていた。それは美しく聡明な歳上の女性に対する、仄かな、だが真剣な想い。もちろん気づかせる事はなかったが、頼られればどんな事でもする気概はあった。
 
「奥様から連絡を戴くとはお珍しい」
「お忙しいのにごめんなさいね、副島さん。実は知恵をお借りしたいのです……」
 冴子の言葉に、嬉しそうに口角が弛む。かつて『副島くん』などと呼ばれていた、懐かしい頃を思い出しながら。
「何の。私如きでお役に立てるかはわかりませんが、奥様の頼みとあらば、出来得る限り力を尽くします」
 目元を弛めた冴子が、静かな会釈で謝意を示した。
「……実は、子どもを一人……秘密裏に預けられるところを探したいのです。大切に預かってくれる場所を……」
 副島の顔の動きがとまる。
「……養子に出す先をお探し……と言う事ですか?」
「……方法は何でもいいのです。ただ、周りに子どもの素性は知られたくありません。そして、勝手な話ではありますが、もしかしたら……いつか、呼び戻さなくてはならない日が来るかも知れない……」
 下方を見る冴子の顔に、視線を固定させた副島が再び問う。
「……それは……もしかして陽一郎くんたちの……?」
 遺伝子保存の件までは聞いていなかったであろうが、昇蔵が目をかけただけの事はあり、副島は鋭かった。冴子は無言を以て答える。
「……わかりました。……訳はお訊きしません」
 そう言って考える様子を見せ、ややして躊躇いがちに顔を上げた。
「……後々の事も視野に入れるなら、どこかに預ける形より、信頼出来る誰か、に託した方が良いと思います」
「……それは……」
 その通りではあったが、難しい注文でもあった。肝心の『託す相手』が、である。
「奥様になら、そう言った方にお心当たりがあるのでは?」
 問われて思うのは、決していない訳ではない。だが、頼む事には躊躇いが先に立つ。
 何故か──それは、そうする事で相手の人生を、一生を、奪ってしまう、からである。赤の他人の子どもに、生涯を捧げさせてしまうかも知れない──それが迷いにならないはずがなかった。
 答えられずにいる冴子の耳に、静かに襖を引く音が聞こえた。
「……奥様……わたくしが……」
 沙代であった。二人の会話を聞いていたらしい。
「……何を言うのです……!」
「わたくしでは力不足なのは承知の上です。でも、必ず全力でお守り致します……!」
 この時、沙代は40歳間近で、亡くなった母に代わって冴子の側近くに仕えていた。
 沙代は20代の頃に婚約が整い、結婚して一旦松宮家を去っている。だが、子どもが一歳になる頃に大事故に遭い、夫と子どもを喪ったばかりか、自身も瀕死の重傷を負った。松宮の運営する医療機関の尽力で九死に一生を得、その後、沙代の看病疲れと心労で倒れた母・佳代もそこで看取るに至ったと言う経緯がある。
 が、何より沙代は、幼い頃から冴子を慕っていた。
「……沙代ちゃん……」
 冴子が首を振る。
「……大切な人と一緒に、妻としての人生も、母としての人生も失いました。もう私は母もおりませんし、憂いもありません。血は繋がっていなくとも、続いていたかも知れない母としての人生を賭けて……何より、奥様の御恩に報いたいのです……!」
 沙代の決意も固かった。だが、冴子にとっては、すんなり受け入れられる話ではなかった。
「……沙代さん……本当に宜しいのですか?」
 声を発したのは副島であった。
「……副島さん……!」
 冴子は驚愕した。だが、沙代は決意を秘めた目で頷く。
「……はい……!」
「……沙代ちゃん……!」
 坦々と話を進める二人。
 展開に焦っているのは冴子の方であった。自分の相談が、自身を超えた思惑になってしまっている事に。
 頷いた副島は、冴子に身体を向け、傍に寄った。
「沙代さんが、ただ子どもを連れて松宮家を出たのでは、すぐに足がついてしまうでしょう。……私に考えがあります。少し……いえ、明日まで時間をください」
「……副島さん……」
 困惑する冴子に力強く頷き、副島は一旦松宮家を出た。
 
 翌日、副島は約束通り、策を持って再び松宮家を訪れたのである。
 
 
 
 
 
〜つづく〜
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?