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かりやど〔四拾九〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
まだ終わらない
まだ収まらない
 
この気持ちは
 
 

 
 

 昇吾を抱きしめながら、朗は心の中で泣き続けていた。
 
(……酷すぎる……昇吾に何の責任があるって言うんだ……)
 その心中を代弁するかのように、美鳥の視線が曄子(はなこ)を射る。
「……始まりは……最初の事件の犯人は、父様と約束したはずのお祖父様……。それはお祖父様によって隠蔽され、いつの間にかなかった事にされた。父様の遺伝子の欠損分も補充されて。……でも父様は疑いを拭い去れなくて……そして別の不安要素も相俟って、ある細工を施した」
(美鳥のお祖父さんが!?)
 以前、美鳥から聞かされた話が脳裏を過った。先代の松宮家当主は、陽一郎夫妻が自然に子どもを授かるのが難しい、と判断される年齢までは、決してふたりの遺伝子に人工的な処置を加えない約束を交わした、と。にも関わらず、ふたりが結婚して程なく事件は起きていたと言うのだ。それも発起人の手によって。
 その話に、曄子の表情が微妙に変化した。
「……お祖父様が持ち出した父様たちの遺伝子がどうなったのかまでは、私にはわからない……父様でさえ、その行方も詳細も掴めなかったそうだから。だからこそ、不確かな事件になってしまった、とも言えるんだけどね。……だけど、それが本当であれ間違いであれ、今後、絶対に起きないと言う保証はない、父様はそう考え、恐れた」
 それでも曄子は、虚勢を張るように腕を組み、顎を反らすように顔を背ける。
「……父様は、それぞれ別の場所に保管されている、いくつかの自分たちの遺伝子、そのひとつを、他の人物のものと入れ替えておいた。もし、次にこんな事件が起きるとしたら、犯人は限られて来る。松宮が運営する施設に入り込め、そして自由に動き回れる人間なんて数少ない。ならば、その最たる者、に正しい相手を……そう考えた。……私にしてみれば、それもどうなの?って感じだけど……でも父様は、もうそれしか方法がない、って考えてたんだろうね……たぶんね」
 朗は、背中を冷たいものが伝った気がした。美鳥が言っている事──それを理解しようとすると、理性が拒絶したがる。
 
『そんなはずはない』
『いや、それしかない』
 
 それが交互にやって来るのだ。
「……父様は、あんたを警戒し、自分の遺伝子をすり替えておいた……緒方の義叔父様のものと……」
 やはり、と朗の脳裏を駆け巡る葛藤。美鳥が言うように、それしか方法はない、と考えていたのであろう、追いつめられた陽一郎の心情を慮る。
「……たぶん、あんたも松宮の直系だから、子どもを授かりにくいかも知れない、とか何とか言って、義叔父様を説得したんだ。そして、絶対的に信頼している管理者にだけ、真実を明かしていた。万が一、本当に父様たちが『その手段』を使う事になった時に、間違いが起きないように、ね……」
 視線を逸らしたままの曄子が、小刻みに脚を揺すり出した。落ち着かない様子が目に見える。
「……あんたは、父様の予想通りの動きをした。父様の遺伝子だと思い込んで義叔父様の遺伝子を持ち出し……」
「やめて!」
 曄子が耳を塞いで取り乱した声を上げた。
「……今、思い出してもゾッとする……お兄様とわたくしの血を引く子どもだと信じていたのに……緒方に似て来た時のあの衝撃…………そうだとわかっていたら、始めから産んだりしなかったのに!」
「ふざけるな!」
 我慢出来ずに朗は叫んだ。これ程の怒りを、生まれてから一度も感じた事はなかった。松宮邸の事件を聞いた時でさえ、怒りより哀しみ、哀しみより絶望、の方が強かったのに。
 普段の印象が穏やかである故か、美鳥ではなく曄子の驚愕の方が顕著だった。目を見開き、硬直している。
「……ふざけるな……!……よくも……よくも、そんな事を……!」
 必死で抑えた声。堪えた涙。肩で大きく呼吸し、強く目を瞑った。
 半身で振り返った美鳥が、朗の姿に睫毛を翳らせる。
「……気づかなかったの?……元々、松宮家は生殖能力が極端に低いんだよ?そもそも、父様とあんたの子どもが出来る確率なんて、それこそあり得ない程に低い……義叔父様との子どもだって、授かるかわからなかったはずだ……」
 ゆっくりと曄子に視線を戻し──。
「……そんな、一番重要な事すら忘れる程、あんたは周り全てを遮断していたんだよ……緒方の義叔父様の真心も、父様の肉親としての愛情も……何より昇吾の、子どもとしての当たり前の自然な気持ちも、全部、全部、全部!あんたは何にも見ようとしなかったんだ!自分の気持ち以外!」
 爆発するように美鳥が叫んだ。
(……美鳥……)
 背中が泣いている──朗にはそれが見えた。
 小さな身体に閉じ込めた慟哭が、押し込められた感情の渦が、マグマのように溢れ出す様が。
 朗の中に不安が過り、固唾を飲んでその小さな背を見つめる。
「……え、偉そうな事を……!ならば、お前は何がわかると言うの!?ひとり娘として、ただただ大事にされていただけのお前に!お前が松宮を継いでいたなら、継続出来ていたとでも言うの!?周りの何が見えていたと……お前などに何が出来たと言うの!?」
 怯みながらも必死に言い返す曄子に、
「……出来るよ……何でも……」
 上目遣いで見遣り、美鳥は短く答えた。
「……何ですって?」
「……私は父様とは違う。……時に、歴代の当主たちが用いたどんな手段も……それが、どんなに非道な事であっても使えるよ、私はね。……ただ、今さら松宮のために使う気はない……まして自分のためにも……」
 曄子の目が見開かれた。そこに宿っていたのは、明らかな恐怖。
「……一族の事も、友だちの事も、父様と母様を殺された事も、この身体をこんな風にめちゃくちゃにされた事も、今さら蒸し返さなくてもいいと思ってた……過ぎた事と忘れても……ただし……」
 美鳥の声の調子が変わった。
(……美鳥……!)
 朗には、背中を向けた美鳥の顔は見えなかった。だが、どんな表情でいるのか、直感でわかった。
「……それが昇吾の人生と引き換えられるなら、だ……」
 一瞬、震えた声。
(……美鳥……!……やめろ……)
 だが、朗の心の叫びは声にならなかった。凍りついたように。
「……昇吾のためなら何でも出来る……どんな手でも使える……それが例え……」
(……美鳥……!もう、やめるんだ……!)
 朗が叫ぼうとした時、
「……ひ……」
 小さく悲鳴を上げ、曄子がその場にヘタり込んだ。
「……曄子叔母様……この手で直に、あなたを八つ裂きにする事でも……あなたのバックに付いている人間を皆殺しにする事でも、ね」
 朗の予想通り、美鳥の口は笑っていた。ただし、笑っているのは口だけ、である。
 ゆっくりと、曄子に近づく。一歩、一歩。
「……わたくしに近寄らないで!……汚らわしい……!」
「……汚らわしい、ねぇ……あんたが言うかね?」
 クスクスと笑いながら歩みを止めない美鳥に、曄子はヘタったまま後退る。
(……美鳥、まさか……まさか、本当に殺す気なのか……!?)
 動こうとした朗は、曄子の不自然な動きを見て取った。後退った先にある椅子に四つん這いで飛び付き、何かを手に持つ。
「……美鳥……!」
 隠してあったらしい銃を、曄子が美鳥に向けようとした瞬間、逆に美鳥の方が曄子に向かって何かを投げつけた。目にも留まらぬ速さに、朗の方が息を飲む。
「きゃっ!」
 小さなカプセルのようなものが曄子の顔にぶつかり、破裂する小さな音と共に悲鳴が響く。飛び出した僅かな液体が顔を濡らし、驚いた曄子が銃を取り落とした。それを奪おうと駆け寄ろうとした伊丹に、
「伊丹、近づくな!」
 鋭い声が飛ぶ。
 咄嗟に動きを止めた伊丹は、屈んだ態勢から足で銃を蹴り、曄子から遠ざけた。すぐに距離を取る。
「……な……何の真似なの!これは!?」
 顔に付着した液体を手で拭い、曄子は美鳥を睨みつけた。
「……言ったはずですよ……」
 言葉は丁寧になっているものの、感情のこもらぬ冷たい声が答える。
「……わたくしを殺すつもりなの!?……そんな事をしてただで済むと……」
「……殺しはしないよ」
 恐怖と怒りでヒステリックに叫ぶ曄子に、再び少しずつ近づく。
「……ただ殺す、なんてしない……」
「……何ですって?」
 曄子の目の前に立って見下ろす。ひとり頷くと、覗き込むように膝を屈めた。
「……叔母様は、あの日、松宮邸にいた人たちが何をされたか、当然ご存知ですわよね?」
 飲食物に盛られた薬物、屋敷に充満したガス、爆発に巻き込まれた人々──曄子が知らないはずはなく、それを敢えて確認する意図が読めない。曄子にも、そして朗にも。
「……松宮の研究グループはとても優秀ですの」
「……そんなこと……!お前に言われるまでもなく、わたくしの方が良く知っているわ!」
 曄子を覗き込んだまま、美鳥は口角を上げて頷いた。
「……そうですわね……でも私は、知識や記憶、としてではなく、この身を以て存じ上げておりますので」
 研究所の絶大なる努力によって、薬物中和を叶えた美鳥の痛烈な嫌み。曄子が黙り込む。
 朗は、事件から二年後に再会した時の美鳥の姿を思い出した。真っ白に痩せ細った身体、視力を失い、物を映さぬ怯えた瞳。それでも美しくなっていた小さな鳥を。
「……私は、薬物の中和剤だけではなく、研究改良も研究所に頼んでおりました」
「……それが何だと言うの……!?」
 なかなか本題を言わず、焦らす美鳥に、曄子が痺れを切らし、苛立つ。
「……さっきも申し上げた通り、皆、優秀で……ついに、改良に成功しましたわ」
「………………」
「……ところで叔母様は、熱帯の国には行かれた事がありまして?」
「……ないわよ!……それが何だと言うの!?」
 苛立たせるのが目的なのか、単にとことん焦らすつもりなのか、美鳥はいちいち曄子への質問を挟み込んだ。
「……昔、お祖父様に聞いた事があったのですけど……熱帯地域に生息する特殊な細菌がいると……」
「………………?」
「……研究の結果、その細菌を薬物に加えて培養すると、特殊な作用を及ぼす事がわかりました」
「……それが何よ?」
「……経口ではなく接触によってでも、その効果を発揮する……ただし、空気に触れると、ほんの数秒で死滅してしまうのですけど……」
 その時、朗の全身を冷たいものが駆け抜けた。
(……美鳥……まさか……!?)
 目を見開き、息を飲む。
「……一瞬でも触れると、皮膚から真皮に潜り込み、細胞から血管へと浸透して身体中を巡る……」
 そこまで聞いた時、曄子の表情も激変した。恐怖に慄き、目が飛び出さんばかりに拡大する。
「……後は、元々の作用と大体同じ……少し強力になったくらいかしら?……薬物による中毒症状……身体機能の停滞……身体中の疲弊……そして、細菌による細胞の破壊……」
 美鳥は、今度こそ満面の笑みを浮かべた。
 艶やかで美しい、大輪の花のように。
 
『わかれる時は最高の笑顔で』
 
 ここに至っても、その教えを守るべく。
 
「……そうそう……これには、まだ中和剤はありませんの……」
 そう言って、屈んでいた身体を起こした。
 
「……さようなら……曄子叔母様……」
 
 薔薇のように花開く唇。だが、冷ややかな瞳。
 
「……あなたが私の叔母であっても、父様の妹であっても……昇吾をこの世に送り出した人であっても……もう、私には関係ない……」
 
 そう呟く美鳥の顔を、曄子は魂を抜かれたように見つめ、そのまま身動きひとつしなかった。
 
 踵を返した美鳥が、昇吾を抱えた朗に向かい、真っ直ぐに歩いて来る。昇吾の前に跪くと、そっと頬に手を添えた。その目は、たった今、曄子にこの上なく冷酷な行ないをし、非情な言葉を投げつけた人間とは到底思えない。
「……昇吾には……何も聞かせていない……」
 約束したように。
「……ありがとう……」
 美鳥の手に、朗が自分の手を重ねた。
「……朗……昇吾をお願い……」
 頷いた朗が、美鳥の手を借りて昇吾を背負う。
「伊丹。後はお願いね」
「畏まりました」
 昇吾を連れ、ふたりは本多たちに見送られて部屋を出て行った。
 
 表に出ると、朗たちが乗って来た車の傍に一台の車が止まった。降りて来たのは、夏川と佐久田。ふたりは美鳥たちの姿を見ると、息を飲んで硬直した。
「……昇吾さま……!」
 辛そうに項垂れるふたり。美鳥は何も言わず、暗い視線を送っただけで、昇吾を乗せるべく車の後部扉を開けた。朗が静かに寝かせる。
 
 美鳥が助手席に乗り込むと、朗は静かに車を発進させた。
 
「……後悔してるんじゃない?」
 唐突に美鳥が訊ねた。朗には辛い質問だった。大きく息を吸いながら答えようとする。
「……昇吾を連れて行ってしまった事なら……」
「……違うよ……」
 美鳥は『そんな事を訊いてるんじゃない』と言うように呟いた。
「……じゃあ、何を……?」
 他に何があると言うのか?朗は不思議に思う。
「……私のような女の傍にいた事……早く離れる選択をしなかった事、を……」
 前を向いたまま、美鳥は言った。
 確かに、今日の美鳥の行動には驚かされた。それは間違いない。そして、出来るなら、行なって欲しくはなかった。それも間違いない。だが──。
「……前にも言ったけど、ぼくにはきみと離れた以上の後悔はない。……きみと離れる、と言う選択肢は、あの時以来、もう二度と、ありえない。……ぼくは二度と、きみを手離さない」
 朗の言葉に、美鳥は視線を下方に向けた。
「……でも、私は最後まで止めないよ……」
「それでも、だ。……どこまでも……」
 
 ふたりと昇吾を乗せた車は、三人がかけがえのない時を過ごした場所へとひた走って行った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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