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かりやど〔四拾四〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
欺くことなど容易い
本当に大切な人なら
 
 

 
 

 朗が出かけ、美鳥と昇吾ふたりきりになると、途端に会話は途切れた。
 美鳥は伊丹からの報告書に目を通し、昇吾は朗に頼まれた財務関係の書類を、佐久田に送るべく目を通す。
 同じリビングの、向かいのソファにいながら、何ら目を合わせる事すらなく。
 
 むしろ昇吾にとっては、昨夜、美鳥が自分を引き止めた事が意外だった。
 自分は美鳥を大切に思っていても、美鳥の方もそうとは限らない。以前はともかく、今は。まして、今は朗も傍にいる。
(……朗さえ傍にいれば大丈夫なんじゃないか……)
 そう言う意味において、昇吾は美鳥の本心を知らない。それは美鳥が気づかせていないせいもあるが、それ故に、見積もりが甘くなっている事も事実であった。
「……昇吾……」
 突然、美鳥に呼びかけられ、思考が霧散する。
「……うん……?」
「……お昼……何にもないから食べに行こ……」
 驚きで声が出ない。
 だが、昨夜朗が持っていたパンは、確かに朝食で食べてしまっていた。
「……そうだね……」
 美鳥にとって必要不可欠な存在ではなくとも、不要な、疎ましい存在でもない──そんな思いが、心を仄かに暖めもする事を知る。
 
 ふたりは近くの店に食事に出たものの、やはりその間の会話はないも同然だった。しかし、マンションに戻ってから、美鳥がひとつだけ質問して来た。
「……昇吾……昇吾と朗がお世話になった倉田さんって人のことだけど……」
「倉田さんがどうかしたか?」
 一点を見据えたままの瞳で、美鳥の口だけが微かに動く。
「……どんな人だった……?」
「……どんな、って……」
 何とも抽象的な質問に、昇吾が答えに迷う。
「……歳はたぶん……三十歳前後……三十代前半より若いのは間違いないと思う」
「……それから?」
「……え……と……一見、穏やかそうな外見、口調……でも時々、目も、言う事も鋭かった。やんわりと核心を突く、感じかな……」
 美鳥は指を顎に当て、何かを考えているようだった。
「……何か気になるか……?」
「……ん……その人、下の名前はわからないの?」
「……一度、訊いた事はあるけど……何だかはぐらかされたと言うか……世話になってる手前、あんまり出過ぎた事をしつこく訊けないし……」
 美鳥と同じように顎に手を当て、昇吾が天井を仰いだ。━━と。
「……あ……でも、ひとつだけ……何か不思議な事を言ってたな……」
「……不思議な事?」
 戻って初めて、昇吾は美鳥とまともに目を合わせた。話題があれば以前のように話せるのは、無意識の産物とも言えるが。
「……そう、確か…… “ぼくはね……小半優一だったはずの人間だよ” って……」
「…………え…………?」
 美鳥の顔にも驚きの色が浮かんだ。
「小半優一、って……あの小半だよな、やっぱり……。……でも、倉田さんには副島と関わりがあるようには見えなかった。もちろん、ぼくが見ていた範疇では、だけど……」
「……小半……だったはず……?」
 呟いた美鳥は、一度自室に入り、しばらくして戻って来た。
「何か思い当たるか?」
 昇吾が問う。
「……ん……気のせいかも知れないけど……一応、本多さんに調べてもらう事にする」
「……そうか」
 その言葉を最後に会話は途絶え、昇吾は再び書類に目を落とした。しばらくして、静か過ぎる事に気づいて顔を上げる。すると、目に飛び込んで来たのは、うたた寝している美鳥。
(……そうそう変わるもんでもないか……)
 自分は美鳥にとって、傍にいても、まだ安心して眠ってしまえるくらいの存在であるのだ、と少しほっとして口元が緩む。だが同時に、以前より体力が落ちているようにも感じる。
 昇吾の胸に不安が過った。
(……また色が白くなってる気がする……)
 そっと抱き上げ、ベッドに運びながら考える。
(……定期検査の結果……異常はないんだろうか……)
 変わらぬ寝顔を眺めながら離れようとすると━━。
「………………!」
 やはり変わらず、昇吾の袖口を握る小さな手。
 美鳥と朗の事を知っているだけに、昇吾は迷った。
 前夜も、美鳥が部屋を抜け出し、朗の部屋に入った事を昇吾は知っていた。そして実は、朗の部屋に行く前に、昇吾の部屋を覗いた事にも。
 眠れぬまま横になっていた昇吾は、美鳥の一連の行動に気づいていた。また以前のように、ひとりでマンションを抜け出すのではないか──その恐れが甦り、美鳥が扉を閉めた後、そっと様子を窺っていたのだ。だが、昇吾の心配を余所に、美鳥はそのまま朗の部屋に入って行き、取り越し苦労だったと、心底、安心したばかりなのである。
(……今は朗がついていてくれるのに……添い寝とは言え、朗に悪いよな……)
 しばらく迷った末、結局、その場に横になる。勘、のようなものではあるが、何故か起こさない方が良い気がしたのだ。そして本来なら、その判断は間違ってはいなかった。
 
 だが、昇吾は少なからず後悔する事となる。
 

 
 朗が戻り、ふたりの様子を見て微笑ましげに、かつ困ったようにため息をつく。
(……ふたりとも意地っ張りだな……)
 キッチンに立つ美鳥、書類を手にリビングで無言の昇吾。
「おかえり、朗」
 それでも声を揃えて言う。
「ただいま」
「……朗……本多さんには……」
 昇吾が問いかけた事に頷いた。
「昇吾が戻った事は言って来たよ。佐久田さんにも、事実を事実として、ね。入れ代わっていた事とかは……一応、辻褄が合うようにはしたつもりだけど……」
「……そうか……」
 昇吾が複雑な顔をして俯く。
「夏川先生や春さんにも、ちゃんと報告に行かなくちゃな」
「……そうだな……」
 言いにくそうな昇吾。それもそのはずで、朗として美鳥の傍にいたものの、本来、昇吾は四年以上も行方知れずと言う事になっていたのだから。
「……一応、今日電話は入れといた……」
 キッチンの入り口で、ふたりの会話を聞いていた美鳥がポツリと言った。朗が頷いたが、昇吾は驚きを隠せない。
「……いつの間に……」
「……朝一で……」
 その返事で、起きて来る前に連絡していたのだ、と気づく。
「……先生たち……何て……?」
「……無事で良かったって……春さん、泣いてたよ……」
 春さんの様子が脳裏に浮かび、昇吾の胸には堪らない罪悪感が込み上げて来た。
 朗は、自分たちが入れ代わっていた事を、夏川が気づいていたと話していない。昇吾にしてみれば、ずっと音信不通になっていたのは自分、と言う事になるのだ。
「……今度の美鳥の検査の日に三人で行こう……いいな?昇吾」
 目を瞑り、下を向いたまま昇吾は頷いた。
「……出来たよ……」
 無愛想に言う美鳥の声で、朗は昇吾を促してテーブルに着かせる。さりげなく、昇吾の好きなものが並べられている食卓。朗は気づかれない程度に微笑んだ。
(……ホントに素直じゃないとこは……血なんだろうか……)
 考えてから、自分も昇吾とは血が繋がっている事を思い出して苦笑する。
 結局、昇吾と美鳥は必要以上の会話をする事はなかったが、それでも昨夜よりは自然な雰囲気が戻っていた。その事には安心しながらも、朗にはひとつ懸念があった。
(……今後、美鳥はどうするつもりなんだろう……)
 昇吾に知られないように、どう言う風に動くのか。それとも、その事は諦めたのか──。
 
 朗にさえ、美鳥の行動を予測する事は困難であった。
 

 
 無事に戻った昇吾を、伯母である斗希子を始め、小松崎の義伯父に従兄弟、そして夏川や春さん、皆が喜んで迎えた。
 申し訳ない思いに小さくなっている昇吾を、斗希子は前回のように抱きしめ、春さんはまるでぶら下がるかのようにして泣き崩れた。昇吾は、斗希子にとっては息子、春さんには孫も同然の存在なのだ。
 それよりも、朗が気になったのは夏川の様子だった。昇吾の無事を喜んでいるのは間違いないものの、気のせいか、その後の表情が浮かない。
「……先生……何かあったんですか?」
 夏川が、ひとりリビングを出て行ったところで、追いかけた朗が声をかけた。振り向いた顔にも焦燥感がはっきりと浮かび、暗い翳りが隠せない。
「……気のせいか、さっきからお顔の色が……」
「……いや、何でもありません……少し疲れたようで……今日は休ませてもらいます。朗さまたちは、今夜はお泊まりですよね?」
「……はい……そうさせてもらうつもりです」
 頷いた夏川は、
「……それでは、また明日……」
 短く答え、自室へと去って行った。
(……夏川先生……!?)
 朗の胸に不安が過る。初めて見る夏川の様子に。
「……朗?どうかしたのか?」
 リビングに戻った朗に、昇吾が不思議そうに訊ねた。
「……いや……」
「……そうか……?」
 それぞれが不安を抱えていながら、それでも表に出す事はなく。密かに互いを思い合っている事──それが、徒になるなどと考えもせず。
「……私ももう寝るね。検査するとやっぱり疲れる」
 そう言って、美鳥も早めに部屋に引き上げた。
 残った昇吾と朗は、何となく互いがいなかった時の話の続きを始める。昇吾は朗にも、美鳥に訊かれた倉田の話を伝えた。
「……小半だったはずの……確かに不思議な言い回しだな。ぼくは何年も一緒にいたけど、そう言う言葉が出た事はなかった……」
「不思議に思ったけど、それ以上は聞き出せなかったんだ。下の名前も……朗にも教えてくれてなかったって事は……なんなんだろうな……?」
「……そもそも、ぼくは、その小半って男の事も知らないからな……だが、本多さんに調査を頼んだって事は……美鳥は何か心当たりがありそうだな……」
 大の男がふたり揃っても、美鳥の考えている事はわからないままであった。
「……結局、美鳥にしか……美鳥の考えている事はわからない、って事か……何か当たり前の事なんだろうけど、情けないな……」
 ふたりで顔を見合わせて苦笑する。──と、思い出したように、昇吾が表情を曇らせた。
「……それより、朗……ぼくがいない間、美鳥の体調は良さそうだったか……?」
 一瞬、動きを止めた朗が、昇吾の顔を凝視し、思い出すように天井を仰ぐ。
「……ほんの数ヶ月だから……きみといた時と比べてどうか、って言うのは自信がないけど、具合が悪そうには感じなかった。生活サイクルも規則正しくさせていたつもりだし、薬も……美鳥の言う事はアテにならない時があるから、ちゃんと先生に確認して、指示通り飲ませていたし……検査も毎週二回、必ず連れて行ってたが……何か気になるか?」
「アテにならないって……さすがだな、朗」
 まるで母親のような朗の対応に、昇吾が可笑しそうに吹き出した。戻ってから初めての、心からの笑顔。
「……いや……朗がそこまできっちり監視してくれていたのなら、ぼくの取り越し苦労だと思う。今まで何年も傍から離れた事がなかったから……たぶん、そのせいだ」
(……そうだろうか?)
 朗は思う。
(誰よりも近くで、誰よりも注意深く美鳥を見ていたのは昇吾だ。そして何より、ぼくとは違う視点で美鳥を見ている……その昇吾が感じた事だぞ?)
 そこで初めて、先程の夏川の様子に行き当たる。
「……朗……不安にさせるような事を言ってすまない」
「……昇吾……強ちそうとも言えないかも知れない……さっきの夏川先生、様子が変じゃなかったか?」
 昇吾の動きが止まった。──が、
「……いや、何かあったのなら、ぼくたちに話してくれてるはずだ」
 言いながら首を振る。まるで自分に言い聞かせるかのように。
「……そうか……確かにそうだな……」
 そう答えたものの、胸から湧き上がる不安を拭い去る事は出来ないままだった。恐らくは、本心では昇吾も。
「……ぼくたちも今夜は早めに寝るか……」
「そうだな」
 ふたりは、己の心を誤魔化すかのように眠りにつこうとした。だが横になっても、なかなか本当の眠りが訪れる事はなく、互いの部屋で天井を睨んだまま夜は更けて行く。
 
「……美鳥……これからどうするつもりなんだ……?」
 呟いた朗の耳に、微かに扉が軋む音。暗闇の中、目を凝らすと、美鳥が宙を歩く妖精のように、ゆっくりと朗に向かって来る。
「……翠(すい)……」
 半身を起こし、片腕で身体を支えた朗の首に、するりと腕を巻きつけた。
「……疲れてるのに……眠れない……」
 朗は黙って、美鳥の小さな身体を包み込んだ。
「……身体が冷えてる……ダメじゃないか……」
 朗の言葉に、頬を胸に押しつけ━━。
「……あっためて……」
 
 頼りなげに縋りついて来る腕。任せて来る身体。
 そんな風に朗を頼って来るにも関わらず、だが美鳥は、しばらく後、朗が想像もしなかった行動に出た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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