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課長・片桐 廉〔2〕~初ランデヴー編①

 
 
 
 ……とうとう、この日が来てしまった。

 朝、目が覚めた途端に頭に浮かんだのはそのこと。

 週末・金曜日。自分から、日程まで指定して誘ったと言うのに、この体たらくだ。

 初デートに浮き足立つ中学生かよ、と自分に突っ込み、そしてまた悩む。

 

 

 米州部のシマに出社すると、朽木が電話応対をしながら目だけをおれに向けて小さく挨拶をする。おれは手で返し、そのまま自分の机についた。

「おはようございます、課長」

「おはよう、根本くん。三杉から連絡入った?」

「いえ、今朝はまだですね」

「ん……先に専務のところに顔を出して来る。三杉から連絡来たら、この間の件、ゴーしといて」

「了解です」

 指示だけを出し、おれは専務室に向かった。

 扉をノックすると「は~い。どうぞ~」と、いつも通り脱力系の返事が聞こえる。「片桐です」と名乗りだけ上げながら入室すると、中では専務がおれと同期で筆頭秘書の大橋と打ち合わせの最中だった。

「専務、おはようございます」

「ん~。片桐くん、おはよう」

「片桐課長、おはようございます」

 大橋には割り込みを目で謝りつつ、「お話し中に申し訳ありません。先日の件ですが……」と用件を切り出すと専務の目つきが変わり、大橋もこちらに鋭い目を向ける。

「昨日の夜、先方から連絡入りました。三杉から連絡入りしだい進めさせます」

「……オッケー……!頼むね、片桐くん」

「はい。動きしだい、また、ご報告します。恐らく、遅くも午後には動くと思いますが」

「わかった。もし、ほくがいなかったら大橋くんに」

 目配せしながら専務が言うと、大橋がおれに向かって頷いた。

「わかりました。じゃあ、そう言うことで……」そう言って退室しようとしたおれを、

「あ、片桐くーん。あのさ、きみさ~?」専務が呼び止める。

「は?」

 正直、専務からこの呼び方をされてロクなことがあった試しがない。

 案の定、裏のありそうなイヤ~なニヤニヤ笑いを浮かべた専務が、

「お見合い……する気なーい?」などと言い出した。

(やっぱりかよ)

 自分の勘の良さに、むしろ腹が立つ。

「……ありません!」

 ひと言、断言して、おれは退室した。いったい何度目だよ、この手の話。

 廊下を歩いていると、後ろから「片桐!」と大橋の声が追いかけて来る。足を止めて振り返ると、大橋が急ぎ足で近寄って来た。

「片桐……きみ、本当にまだ結婚する気ないのか?」

 『余計なお世話だ』と撥ね付けたい気持ちを抑える。大橋には責任はないのだ。

 だから声だけは冷静に、「まだ、じゃなくて、ずっと、ない」と、だがひと言で突き放す。

 さらに『きみだって独身だろうが』と言いかけて堪えていると、

「片桐……きみ……まだ、あの時のことを……?」

「大橋っ!」

 眉をしかめながら問うて来る大橋に、思わず声を荒げる。

「……それは、禁句だ。おれにとっても……それから……」

「……すまない……。だが、専務の気持ちもわかって差し上げて欲しい。本当にきみのことを心配してる。ずっと気にされているんだ。社長も」

「……わかってる。……だけどな。おれはもう、あんな思いはしたくない。二度と、だ。だから……」

 大橋は辛そうな顔でおれを見つめた。

「特定の相手を作るつもりは……もう、ない……!」

「片桐……」

「じゃ、急ぐから。あとで報告入れる」

 会話を断ち切り、浮かない顔の大橋を残しておれは営業部のシマに戻った。

 
 米州部に戻ると、根本くんが真っ先に「課長。三杉くんから連絡入りました。すぐに進めるそうです」と報告してくれた。

「よし。じゃあ、データ来たら教えてくれ。おれは今のうちに矢島部長へ報告して、それから南米のフォローに入る」

「了解です」

 基本的におれは北部米州部担当なのだが、何しろ、どこの部署も人手不足。皆であちこちフォローに入るのは仕方ない。北米も三杉の他に数人が赴任しているが、それでも足りなくてアップアップの時が多いのだ。

 これは米州部に限ったことではなく、欧州部も同じような状態だし、アジア部だっていい勝負だ。恐らく国営もそうだろう。

 人手だけ増やしたところで使えなければ意味がないのだ。そう言う意味で、藤堂は新人ながら見事な男だった、とつくづく思う。今さら言っても始まらないが。

 部長への報告の後、南米の駐在員と連絡を取りながらパソコンの画面を見ていると、向かいの根本くんがおれに目配せをする。自分のパソコンからおれのパソコンに向けて指を動かしたところを見ると、三杉から送られて来たデータを転送してくれたのだろう。

 手でお礼の合図をし、おれは電話の用件を済ませてから画面を開いた。予定通り、いい感じで進んでいる。三杉に返信をして、おれは再び専務室へと向かった。

 専務室をノックをしても返事がない。仕方ないので秘書室へ向かう。

「米州部の片桐です。専務秘書の大橋くんは……」

「少しお待ちください。……あ、大橋先輩!」

 ちょうど通りかかった大橋に、入り口付近にいた女の子が声をかけると、大橋はおれに気づいて近づいて来た。

「専務に今朝方の件のご報告に伺ったのですが……」

「専務は今、社長との打ち合わせに……私が代わりに承ります」

「ありがとうございます。これからデータをそちらに転送しますので。これが概要です」と書面を一枚預ける。

「了解しました。専務が戻られて、確認をして戴きましたら折り返しご連絡致します」

「お願いします」

 事務的に会話を終わらせると、おれは米州部に戻って大橋にメールを送った。とりあえず一息つく。

 大橋という男は、仕事自体には私情を挟まずに済ませてくれるので、そういう意味では助かる。

 他の駐在員への指示と状況確認、三杉からの連絡対応、南米のフォロー、専務からのしつこいアプローチの相手……これでおれの今日一日が慌ただしく終わったようなものだった。

 とにかく専務の相手が、一番、骨が折れる。まだ諦めていなかったようで、折り返しの連絡の時にまた食いついて来たのだ。ま、いつものことだが。

『片桐くん。じゃあ、お見合いの件は諦めるから、今夜、少し時間くれない?』

『お断りします』

『本当にお見合いの件は諦めるからさ~。ちょっと食事に付き合ってよ~』

『申し訳ありませんが、今夜は予定があるのでムリです』

『冷たいなぁ~』

『………………』(冷たいって何だよ。予定がある、って言ってるのに)

 ……と、まあ、こんな感じだ。得意先接待の同行などであれば仕方ないが、先約があるのに個人的な食事にまでつき合ってはいられない。

 だから正直に言えば、おれは大橋をある意味では尊敬している。あの専務と年がら年中、日がな一日、一緒にいるのだから、本当に大したもんだと思っているのだ。

 
 何とか一日の仕事が終わる頃。時計を見ると、おれの今日一番の悩みの種……の時間が近づいていた。本気で後悔している自分に気づき、知らず知らずため息が出そうになる。

 『おれは、何で、彼女を誘ってしまったんだろう』

 その答えは、いくら考えても出ては来ない。半ばヤケクソ、今日で話が終わってしまえば何の問題もないのだ、と自分に言い聞かせ、おれは退出した。

 

 

 待ち合わせは社の最寄り駅にした。

 どこに連れて行くか。悩みに悩んで出した結論は、中級と上級の境界ギリギリのライン。肩肘張らず、かと言って砕け過ぎず、のイタリアンレストラン。

 得意先接待で女性が入り交じる時も、仕事そのものより悩む案件のひとつが店選びだ。あまりに時間がない時や相手によっては、もう、アシスタント任せにしてしまうのだが。

 まさか、個人的なことで悩む日が来るとも思っていなかった。

 約束の時間5分ほど前に駅に行くと、まだ今井さんの姿はないようだった。

 彼女も米州部の状況は暗にわかっているだろうから、恐らく、おれが抜け出せずに遅れると踏んで、早めに来るようなことはないだろう……と安心しかけた、その時。

 壁の向こう側からふいに現れ、チラリと見えた、見るからに綺麗な立ち姿の女。

 しなやかに伸びた背筋。なのに、何故か堅苦しさを感じさせない。やわらかくまろやかな、それでいて凜とした。

 思わず声をかけたくなる女性らしさと、近寄りがたい凜々しさを同時に体現している。

 それは、やわらかい黄色味を帯びたクリーム色のスーツをその身に纏った今井さんに間違いなかった。

 白いブラウスに淡い紫色のスカーフ、スーツに色味を合わせたヒールにアイボリーのバッグ。仕事中じゃないせいだろう、髪の毛も纏めずに自然に下ろしている。

 思わず、遠目から見惚れている自分に気づく。

 時間近くまで、わざわざ見えにくい場所に立っていたところが如何にも今井さんらしく、疲れも重い気分も忘れて思わず顔が緩む。

「今井さん、ごめん!待たせたかな。……すまない」

 おれの声に反応した今井さんが顔をこちらに向け、小さく会釈しながら口元を緩めた。

「いえ。私もついさっき着いたところです。……それに、まだ時間まで少しありますから」

 待たされた方の常套句だけではない返しが、また今井さんらしい。

「課長、お疲れさまです。……米州部、お仕事大丈夫なんですか?何だか今日、お忙しそうでしたけど……」

 よく見ているものだ。いくら同じ部屋の中とは言え、別のシマなのに。

「いや、大丈夫。……忙しかったのは専務の相手だけだから」

 苦笑いしながら答えるおれの言葉に微笑が浮かぶ。普段、仕事中はあまり考えていないせいもあるが、こうして見ると、やはり、目を引く美人であることに気づかされる。

「好き嫌いはないって言ってくれたから、おれが勝手に店を選ばせてもらったけど良かったかな……イタリアン好き?」

「はい、ありがとうございます。イタリアン大好きです。……私、大体、何でも戴きますけど」

「そう、良かった……行こうか」

 正直な返事にさらに顔が緩むのを堪え、タクシー乗り場へと誘おうとすると、彼女は、

「え、タクシーで移動するんですか?遠いんですか?」

「いや?ここから2駅かな」

「……課長。電車で行きましょう」

「え……いや、でも……」

 近いから、逆に電車で移動させるのもどうかと思ったんだが。誘っておいて、そこケチるのか、と言うのもどうなんだ、と。

「近いですし、週末の夜なんて絶対電車の方が早いです」

「は………………」

 反論の余地が微塵もなく、口が商売のはずのおれだが、一生、彼女にだけは勝てる気がしない。

 もう半ば改札に足を向けている彼女に負けて、おれは後ろから改札機を通り抜けた。

 纏めていない彼女の長い髪の毛が風になびき、フワリとやさしい香りが流れて来る。少し甘くて爽やかな香りが、彼女にとても似合っている、などと考えている自分がおかしかった。

 電車の中で扉の傍に立つと、やはり彼女は意外と背が高いことに改めて気づく。雪村さんほどではない気もするし、ヒールのせいもあるだろうが。

 話題の取っ掛かりに「今井さん、身長どれくらい?」と訊いてみる。女性にあまり身体的なことを訊くのは良くないのだろうが、ま、今井さんはこのくらいなら大丈夫だろう。

 案の定、「ん~……165……いや、164センチくらいですかね」普通に返事が返って来た。

「遠目だともっと高く見えるね」

「態度が偉そうだからですかね」

 会話のキレが何ともいい。思わず吹き出したおれに「課長。そこ笑うとこじゃないです」と、やや不満気に反論する。

 だが「課長も、背、高いですよね」と、すぐに切り返して来た。

「ま、日本人としては平均以上かもな。……180……ちょいくらいかな。だけど普段の取り引き先はアメリカ人ばかりだから、完全にガタイ負けしてる」

「でも米州部の男性陣……藤堂くんもでしたけど、朽木くんにしても皆ワリと長身ですよね。何か机回りが狭く見えますもん」

 おれの言葉に彼女が口元を緩めながら突っ込んで来る。

「そうだな……藤堂はおれより少し高いかな。朽木が同じくらいかも知れない。アジア部や欧州部と違って野郎ばっかだから、もうそれだけで狭くて暑苦しいな」

 派手に吹き出した彼女が楽しそうに笑った。

(こんな風に笑うのか)

 何だか新鮮なものを見た気持ちになる。

 そうこう言ってるうちに駅に着き、予約しておいた店まで歩いた。駅から徒歩5分ほどのところにあるその店は、おれが仕事ではたまに使うこともある。

「片桐さま、いらっしゃいませ」

「今日はお世話になります」

 通された奥の席は、くの字型に座る仕様のテーブルで、簡単な仕切りで目隠しがされている。

 向かい合って座るのは、慣れていない相手とだと意外と辛い時がある……らしい。そんなことを言っているヤツがいたので、そう言うもんか、と。おれは考えたこともなかったが。

 バーならカウンターもいいが、初めて食事をする相手と横並びもどうかと思い、距離感も考えて、それなら、と敢えてこの席を指定したのだ。

 実を言えば、最初はオヤジさんの店も考えたのだ。が、あらぬ方向に見当違いのウワサが流れそうなのが怖くて断念した。

「わ……素敵……」

 彼女は店内の内装や飾ってある装飾品、果ては酒瓶を眺めては目を輝かせている。こんな反応を示してくれるなら、悩んだ甲斐もあったと言うものだ。

「今井さん。とりあえずオーダーを先にしよう。お腹空いたでしょ。それからゆっくり眺めて」

 抑えきれない笑いに緩んだ顔で声をかけると、彼女は「は~い」と素直に返事をしながら、何とも言えないやわらかい仕草で席に着いた。

 立ち姿と同じように、まろやかな座り姿。

 その姿に目を奪われながら、おれは自分が既に深みに嵌まる直前にいることに、まだ気づいていなかった。
 
 
 
 
 
~課長・片桐 廉〔3〕へ続く~
 
 
 
 
 
 
 
 

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