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かりやど〔四拾伍〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
一番を取るために二番は捨てる?

全部を捨てないために
一番を削る?
 
 

 
 

 昇吾が戻って数日。
 
 再び、三人揃っての生活にも馴染んだ頃、突然それは訪れた。
 

 
 いつも通り、美鳥の定期検査で訪れた夏川の診療所。検査も済み、迎えた翌朝の事である。
「おはよう、昇吾」
「おはよう、朗」
 朝食に向かう途中で挨拶を交わしたふたりは、ダイニングの中を覗き、美鳥がまだ起きて来ていない事に気づいた。特に珍しい事でもなく、昇吾が手を挙げて言う。
「お姫様を起こして来るよ」
 朗が笑って頷くと、昇吾が思い出したように足を止めて振り返った。
「……朗のベッドじゃないよな?」
 からかうように訊ねる昇吾に、朗が目を見開き、軽く睨む。
「……そうだったら、起こして連れて来てるよ……」
「わかってるって。冗談だよ」
 笑いながら昇吾が戻って行くと、朗はキッチンを覗いて春さんの手伝いを始めた。テーブルに食器や料理を並べている朗の耳に、少し慌てた足音が飛び込んで来る。
「………………?」
 顔を上げると、息を切らせた昇吾の姿。
「……昇吾……?どうかしたのか?」
 息を飲み込むように整えた昇吾が、焦りを隠せない様子で朗の顔を凝視した。
「……美鳥がいない……!」
「……え……?」
 一瞬、朗は何を言われたのかわからなかった。
「部屋にいないんだ!バスルームも見て……美鳥が行きそうな部屋は全部見ながら来たけど……どこにもいないんだ!」
 昇吾の声は泣きそうであった。朗も心の中で、確かに昨夜は自分のところにも潜り込んで来なかった、と反芻する。
「……こんな事……今まで一度もなかった……」
 狼狽える昇吾。
「……そんなバカな……!」
 自分でも確かめようと、朗が飛び出して行こうとした時──。
「お嬢様なら、今朝方早くにお出かけになりましたよ」
 キッチンから出て来た春さんが、男ふたりの狼狽えぶりに驚きながら告げる。
「出かけた!?……春さん、それ何時頃?美鳥はひとりで出かけたんですか!?」
 矢継ぎ早に訊ねる昇吾に、春さんが不思議そうな顔をした。
「いいえ。伊丹さんをお連れになって。……6時頃でしたか……おふたりはまだ寝てるから、起こさないうちに行って来る、と。そんなに遅くならずに戻るから、と仰ってましたので……」
「……伊丹さんと……」
 ふたりは顔を見合わせた。
「……美鳥は……何をしようとしてるんだ……」
 昇吾の言葉に、朗は息を飲む。
(……美鳥は……昇吾に知られないように、こんな方法を……!……ぼくにまで黙って……)
 不安と恐れ、そして、無力感。昇吾に知られないために、どんな方法を取るのか……もしかしたら、もう諦めてくれるのではないか、などと考えていた甘さに茫然とする。もし、やめる事はなくとも、まさか自分まで置いて行かれるなどと、少しも考えていなかったのだ。
「……朗……何か心当たりはないか?」
 その問いかけに、思わず息が止まる。握りしめた拳も硬直し、昇吾と美鳥、ふたりの間で板挟みになっている己の立場を再認識した。
(……昇吾に言うべきなのか……言っていいものなのか……美鳥があれほどに昇吾に知られたくない、と恐れていた事を……だが、昇吾に言わずに、ぼくがひとりで動く事は不可能だ……どうすれば……)
「……朗……!……お前、何か知ってるんだな……!?……そうなんだな……!?……何を知ってるんだ……!?……美鳥は……美鳥はどこに行ったんだ!?……ぼくたちふたりともに言わなかったって事は、ただの外出じゃないんだろう!?」
 焦りを顕にし、昇吾が朗の肩を掴んで揺さぶる。見開かれた目は朗を映してはおらず、美鳥の安否の心配だけが見て取れた。
「……朗……!……頼む、教えてくれ!美鳥はどこへ行ったんだ……!」
 朗の肩に手をかけたまま、昇吾は力なく項垂れた。朗は朗で、どうして良いのかわからずに視線を宙へとさ迷わせ、後ろでは夏川を呼びに行こうかと春さんがオロオロしている。
 その時、朗のポケットの中で携帯電話が振動した。急いで取り出すと、美鳥からの着信。
「もしもし、美鳥!?今……」
『……朗、ごめんね。……昇吾を止めてて……お願い……今日、明日で必ず戻るから……お願い……』
 昇吾が朗から電話をもぎ取る。
「……美鳥!?今、どこにいるんだ!?」
『………………』
「……美鳥!戻って来るんだ!……美鳥!?聞いてるのか!?」
 昇吾の言葉には何も答えず、電話は切られた。
「……美鳥……!?……美鳥……!」
 答えのない電話を握ったまま、昇吾は椅子にへたり込んだ。
「……朗……美鳥は何て……?」
 頭を抱えながら問う昇吾に、朗はまだ答える術を持たなかった。言い淀む朗に、昇吾は再び立ち上がる。
「……朗!何か知ってるんだろう!?美鳥はどこへ行ったんだ!……何をしようとしてるんだ!……お前……美鳥が心配じゃないのか……!?」
「……心配だ!死ぬほど……!……だが……」
 掴みかかる昇吾を押さえながらも、朗には答えが出せないでいた。
 何より、携帯電話を開いてわかったのは、美鳥が居所を知られないように、自身のGPSも切ってしまっている事。朗にも正確な美鳥の居場所は知りようがなかった。
「……一体、何事です……!?」
 その時、ようやく起きて来た夏川が、状況に驚き、ふたりの間に割って入った。
「……先生……美鳥が……」
「美鳥さまがどうかしたんですか?」
 泣きそうな顔の昇吾に、夏川の顔色も変わる。
「……わたくしが……伊丹さんがご一緒だからと安心して、お止めしなかったばかりに……申し訳ありません……」
 責任を感じたのか、春さんが小さな身体をさらに小さくして項垂れた。
「……違う……!……春さんのせいじゃない……!」
 昇吾と朗が口を揃えると、夏川は三人の顔を交互に見遣る。
「……ちゃんと説明してください。美鳥さまがどうなさったんです?」
 項垂れて言葉も出ない昇吾に代わり、朗が口を開いた。
「……美鳥が……朝早くに伊丹さんと出かけたらしいんです……ぼくたちに何も言わずに……」
「……何ですって?」
 それきり黙り込んだ朗を見つめ、夏川は自分の電話を取り出した。
「……おれだ。朝っぱらからすまない……ああ……すまないが、本多さんはいるか?」
 どうやら、佐久田にかけているらしい事がわかる。
「……出かけた……!?……本多さんがお前のガードを投げてか……?……代わりが来た?一日~二日だから?そう言っていたのか?……ああ、わかった……ありがとうな……」
 電話を切った夏川が、微動だにしないふたりの顔を見た。
「……と言う事らしいです。……朗さまは何か心当たりがおありですね?」
 いきなり図星を指され、朗が息を止める。昇吾は座り込み、項垂れたままであった。
「……美鳥さまに……口止めされてるんですね?……昇吾さまには言わないで欲しい、と……」
 昇吾は驚いた顔を向け、朗は息を止めたまま黙り込む。
「……朗さまの立場では板挟みだ。言いたくても言えない。昇吾さまのためにも、そして、どれほど美鳥さまが心配でも言えない。……ならば、私がその責を負いましょう」
 夏川がきっぱりと言い切った。
「……美鳥さまは……松宮の事件の犯人を知っていて……とどめを刺しに行ったんですね?」
 瞬きを止めた昇吾が立ち上がる。信じられない、と言う色を浮かべて。
「……そうだと……思います……」
 噛み締めるような間の後、朗が声を絞り出した。
「……バカな……!……朗……!美鳥は……美鳥は犯人を知っていたのか!?」
「……そうらしい……」
 下を向いて答えた朗を呆然と見つめる。
「……そんなバカな……そんな事が……何で美鳥が犯人を……そんな事……何でぼくにひと言も……」
 首を振りながら呟く昇吾の目には、絶望にも似た色。しかし、朗にも答えようがなかった。何故なら、朗にも理由は知らされていない。
『昇吾には言いたくない』
 美鳥からは、その言葉しか聞かされていなかった。
「……美鳥は……止めようとするぼくがそんなに疎ましかったのか……?……ぼくの事を……そんなに……信用していなかったのか……?」
「違う!昇吾!」
 珍しいくらいに朗が声を荒げる。
「それだけは違う!美鳥は……美鳥は……」
「……朗……気休めはいい……まだお前が戻る前に、美鳥はぼくにはっきりと言ったんだ……それに加えて、ぼくは約束を守らなかった……美鳥の気持ちが離れて当然だ……」
「違うんだ、昇吾!美鳥はお前が……」
 勢いでそこまで言いかけ、我に返った朗は口を噤んだ。自分を見つめる昇吾の視線が、朗には堪らないほど痛い。
「……ぼくが……何だ……?」
 言ってしまえたなら、どんなに楽か──誰よりも昇吾を思うが故、美鳥は知られたくないのだ、と。
「……朗!……ぼくが原因なのか!?美鳥が黙って……お前にまで黙ってひとりで行ってしまったのは……ぼくのせいなのか!?……一体、何が……!」
 再び朗の肩を掴み、必死の形相で訴えた。
「……朗さま……」
 夏川が辛そうに朗の肩を叩く。『もう、隠すのは無理です』とでも言うように。朗は俯いて目を瞑り、唇を噛んだ。
「……昇吾……お前には言いたくないと……ぼくにも真相は教えてくれなかったけれど……とにかく、お前にだけは知られたくないと……」
「……何故……」
「……それも、ぼくにもわからないんだ……けど……」
「……けど……?」
 朗は迷いを捨て切れていなかった。これを言ってしまったら、昇吾の心は壊れてしまうのではないか──その不安を拭い切れない。だからこそ、それを知っていた美鳥も、昇吾には真相を話せなかったに違いないのだ。
「……朗……!……頼むから、言ってくれ……!……美鳥は……美鳥は、何故……!」
 それでも、このままでも昇吾が壊れてしまう結果は変わらないかも知れない、とも思う。美鳥の本心を知らないまま、美鳥の心が自分の元にはない、と思い込んだままでは。
「……昇吾……」
 縋るような昇吾の目を見つめる。
「……美鳥が、犯人を追い詰めようと決意したのは、決して自分や、犠牲になった家族の復讐のためなんかじゃない。……お前と、ぼくと、夏川先生や佐久田さん、春さんたちとこのまま平和に暮らして行けるなら、もう、過去の事は良かったはずなんだ……」
 自分と同じだ──昇吾は思った。自分が考えていたのと同じように、美鳥も考えていたのだ、と。
「……もちろん、ご両親の事を思わなかった訳じゃない……何も知らずに殺された身内の人たちを……友だちだった美薗さんを……では、何故か……」
 腕を掴み、真っ直ぐに見つめる。
「……お前が……お前の事が何より大切だったからだ……」
 昇吾の目が見開かれ、口が何かを言おうと僅かに動く。だが、それが音として発される事はなく──。
「……お前の人生が、このまま無事に続くなら、もう、それだけでいい、と……出来るなら、こんな自分の事など置いて、自由に飛んで行って欲しい、と……」
 昇吾も朗の腕を握り返した。瞬きを忘れ、視線も動かさずに。
「……ならば、どうして、こんな事を……何も自分の手を汚すことはなかった……美鳥がそう言うのなら、ぼくも忘れ去っても良かった……あのまま……あのままの美鳥でいれば良かったのに……」
 小さく首を振りながら呟いた。
「……美鳥が言うには……確か黒川の娘に雇われた男たちに連れ去られた事があると……」
 ビクリと昇吾が反応する。自分のせいで──少なくとも昇吾はそう考えていた──惨い目に遭わされた美鳥。発見した時の記憶が甦り、腕が震え出す。
「……それが原因なのか……やはり……ぼくのせいで……」
「……違う……そうじゃない……!」
 強く目を瞑る。昇吾に告げるための、勇気をためるかのように。覚悟を決めるかのように。
「……お前に……人を殺す決意をさせた者たちを……絶対に赦さない、と……」
「………………!」
「……生涯の重荷を……お前にそれを背負わせた奴らを……決してそのままにはしない、と……」
 朗の腕を握っていた昇吾の手が滑り落ちる。
「……嘘だ……」
 一点を見据え、見開かれた目。小刻みに首が左右に振られる。
「……結局、ぼくのせいだ……!……ぼくが……」
「昇吾!違う!わかってやってくれ!美鳥の……美鳥の気持ちも……!……お前がそう考える事がわかっていたからこそ……!……だからこそ、言えなかった……お前を遠ざけようとしたんだ……美鳥は……!」
 昇吾の目からひと筋の涙が伝う。
『言ってしまった』
 朗は、後悔と不安の狭間で昇吾を抱きしめた。
 知らされないでいる方も辛い。だが、秘密を抱え、ひたすらに口を噤んでいる方も辛いのだ。
「……朗さま……美鳥さまが向かう場所に心当たりはありませんか……?」
 ふたりのやり取りをじっと見守っていた夏川が、ようやく声を挟んだ。少し考え込んだ朗が、思いついたように顔を上げる。
「……そう言えば、少し前に黒沼の別邸について、伊丹さんに調べてもらっていました。いくつかあるうちの……美鳥が怪しいと踏んでいたのは、長野の鬼無里と……神奈川の葉山のようでした。出来れば鬼無里の方が人目が少なくて助かる、けれど、恐らく葉山だろう、とも……」
「……葉山……」
 夏川と昇吾がそれぞれに口の中で呟いた。
「……行くか……葉山に……闇雲に動いても仕方ないが、ここでじっとしてるよりは……」
 朗が呟いた、その時──。
「……いや、恐らく美鳥さまは鬼無里でしょう」
 入り口から佐久田が姿を現した。
「……佐久田……!」
「……佐久田さん……!」
 驚く三人に不敵な笑顔を向ける。
「……さっきのお前の電話で飛んで来たんだ。美鳥さまは大周りで長野に向かっていると思う……つまり、関越経由だ」
「……何故、そう思うんだ?」
「金の動きと、黒沼の周囲の動きだ。今日は上信越方面が混んでるらしい。……まあ恐らく、美鳥さまはそちらで寄る場所があるんだろうが……急いで中央から向かえば、それほど遅れずに追いつける可能性もある」
 確証など何もなかった。だが、佐久田の言葉には、信じさせる実績があった。過去に、何度も。
「……行こう……!」
 昇吾と朗は顔を見合わせて頷いた。
「夏川、おれたちも行こう」
 佐久田の言葉に夏川も頷く。男たちが手早く用意をし、車に向かおうとすると、春さんがずっしりとした包みを差し出した。
「……おにぎりです……朝ごはんに車の中で……」
 大急ぎで握ってくれたらしく、手の平が真っ赤である。受け取った昇吾は、春さんを抱きしめた。
「……必ず、美鳥を連れて帰って来るよ」
「……はい……ずっとここでお待ちしておりますよ……」
 
 涙声の春さんに力強く頷き、四人は美鳥の後を追った。
 
 
 
 
 
 
 
 

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