かりやど〔伍拾参〕
『 も う も ど れ な い 』
*
ふたりが求め合うのは必然で
自分たちが求め合うのも必然で
何故なら三人が形作るのは
完全なるトライアングルだから
*
自宅の寝室で布団に潜り込み、黒沼は恐怖に震えていた。
「……バカな……そんなバカな……わ、わしは殺される……!……いや、殺されてたまるか……!」
ひとり言を唱えながら見開かれた目は、全く瞬きをしていない。
「……わしは関係ない……わしは……」
*
講演の話もクライマックスに差し掛かった頃である。
風もない晴天の空の下。
聴衆を前に、気分良く話している黒沼は、不意に右耳に風を切る音、そして風が吹き抜けたのを感じた。
「………………?」
不思議には思いつつ、ただの突風と判断して話し続ける黒沼。だが、横から跳び出した護衛の男が駆け寄って来た時、黒沼の背後に置かれていた石像が音と共に砕け散った。
「………………!!」
護衛の男が、突っ立っている黒沼の身体を抱え、横っ飛びに地面に伏せる。同時に会場内から悲鳴が湧き上がった。聴衆が我先に、と出口に殺到する。
『狙撃だ!何名か追え!』
大混乱の中、護衛の男は伏せたまま、他の場所にいる仲間に告げて指示を出した。そして、追撃がないと判断すると、駆け寄って来た他の護衛と共に黒沼を連れ出す。茫然自失の体の黒沼は、『連れ出される』と言うよりは、限りなく『運び出される』と言う状態に近かったが。
結論として、黒沼にはかすり傷ひとつなかった。耳のすぐ上の辺り、ほとんどない髪の毛が、風圧でやや乱れた、と言う程度である。
「……外れて良かった……少しでも逸れていたらと思うと……不幸中の幸いでした」
茫然として座る黒沼の傍で、護衛の男に秘書が戦々恐々の様子で言った。だが、護衛の男は首を振る。
「外れた、のではありません。最初から当てるつもりではなかった……スレスレのところを敢えて狙ったのですよ」
秘書の顔が面白いほどに歪んだ。
「……そ、そんな事、出来る訳が……ほんの1センチでもズレたら……」
「……ですから、それが腕、です。しかも、かなりの距離から……方角から部下に追わせましたが、未だ場所の特定が出来ていません。恐ろしい腕前です」
秘書は震え上がり、黒沼は見開いた目で護衛の男を見上げた。震えながら何かを言おうとしている。だが、その時、黒沼の直通電話が鳴った。
「ひっ……!」
黒沼も秘書も怯えた悲鳴を上げる。
「発信源!」
護衛が短く指示を出し、黒沼に出るよう促した。恐る恐る、黒沼が受話器に手を伸ばす。
「……黒沼だ……」
「黒沼センセ?」
怯えを隠せない黒沼の声に、明るい、面白がっているような女の声が重なる。
「…………!……貴様、この間の……!」
怒りが恐怖に取って代わり、青ざめていた顔が真っ赤に変化した。
「あら、ずいぶんじゃありません?先生、って呼んで欲しそうだったから、そうお呼びしたのに」
「そんな事より、どうやってこの電話にかけて来おった!」
一瞬の間の後、高らかに響く笑い声。
「そんなの簡単に調べられるんですのよ?何なら、センセのいい人たちのとこにも全部連絡入れて差し上げましょうか?センセと別れてくださらない?って……あ、奥様の方が宜しいかしら?」
クスクス笑う声が、一段と黒沼の癇に障る。
「……貴様、一体、何が望みだ……?」
「ん?決まってるじゃないですか。センセの、い・の・ち」
明るく言う言葉に、黒沼は総毛立ちそうになった。護衛が横から指示しているように、目的を探ろうと必死で平静を保とうとした時──。
「……な訳ないじゃん。あんたみたいなオイボレの命を取っても何にもならないし、簡単に楽にしてやるなんてバカらしくて」
突然、激変した口調に呆気に取られる。
「……殺したりなんてしない……でも、やる事成す事、全部邪魔してやる。塵も残らないくらい粉々にね。あんたはこれから、何をしても成功しないし、遂げる事も出来ない。人からチヤホヤされる事もない、ただの役立たずの老人として扱われるんだ」
「そんな事が出来るものか!ただでは済まさんぞ!」
激昂する黒沼に、鼻で笑う女。
「……出来ないと思うんだ?ふ~ん……まあ、それはそれで別にいいけど。気が変われば、あんたの命を取るなんて、いつでも容易く出来るんだけどね?」
「……何!?」
電話口で小さく笑う気配。
「……その証拠に……今、斜め向かいに護衛の人……ごっついお兄さんがいるよね?」
黒沼だけでなく、護衛の男の表情も変わった。次の瞬間──。
「………………!」
黒沼に指示を出していた護衛の男が前のめりに倒れた。
「うわぁ!」
黒沼たちだけでなく、他の護衛のメンバーも驚愕する。我に返ったひとりが、倒れ伏した男に近づいて揺する。
「……い、生きてます……!……気絶しているだけのようです……!」
「……い、一体、どうやって……」
パニックになりかけている室内に、電話口から響く美鳥の忍び笑い。
「ほらほらぁ。言ったでしょ?いつでも、どこにいても、私にはあんたを殺す事なんて雑作もない。……だけど、それじゃあ、面白くないんだよね」
女の声が、次第に変化した事に黒沼は気づいた。楽しげな声から、凄味のある声色へと。『殺さない』と言いながら、溢れる程に含まれた殺気。
「……き、貴様……一体、何者だ……何のために、こんな事を……」
冷静を保とうとして、既に無駄なあがき。震え声の黒沼に、満足げな息づかい。
「……とうとう、わからなかった……って言うか、自分のして来た事を顧みる事はなかったんだ?」
「……何……!?」
「……昔々、一度や二度はお会いしてると思うんだけどねぇ」
「……何じゃと?」
「ずいぶん、お祖父様に援助して貰ってるよね?忘れちゃうなんて酷くない?」
「……援助?……何の話だ?」
「……恩を仇で返して覚えもない……見事過ぎて感心しそう」
クスクス笑う声。
「……お前……」
「あんたは松宮昇蔵のお陰で、今、安泰なんじゃないの?」
「…………な…………!……お前は……!」
「……私の名前は松宮美鳥。祖父は松宮昇蔵、父親は陽一郎。そして、あんたが甘言に乗せられ、利用したつもりが利用された緒方曄子は私の叔母だよ」
聞いた途端、黒沼はその場に崩れ落ちた。
「……バカな……何故、生きて……そんなはずはない……そんなはずは……」
「あんたにとって、本来、一番頼りになるはずだった副島と、ちゃんと足並みを合わせなかったのが裏目に出たね。DNA鑑定もまともにやらないようなマヌケしかいなかったなんてさ」
身動きひとつしない黒沼に、美鳥は更に続ける。
「もうひとつ教えとくね。父は、自ら松宮を解体するつもりだった。叔母の曄子もそれは知っていた。でも、自分の目的を果たすために、それをあんたたちには言わなかった。あんたたちは、うまく乗せられて、やらなくていい事に手間隙をかけた挙げ句、余計な事をしたばっかりに墓穴を掘ったんだよ」
黒沼は既に聞いていなかった。
「じゃあね。センセ」
甘い声で囁くと、美鳥は一方的に電話を切った。
「……先生……」
呼びかけた秘書が黒沼の肩に触れる。すると過剰に反応し、その手を払い除けた黒沼が部屋の外へ駆け出した。
「……先生!……どちらへ……!……先生……!」
秘書の声を背中に受けながら、黒沼は見向きもせずに自室に飛び込んだ。そのままベッドに潜り込み、ブツブツとひとり言を言い続ける。
「……わしじゃない……わしが悪いんじゃない……わしには関係ない……松宮昇蔵が何だと言うんだ……財閥の解体に耳を貸さなかったのが悪いんだ……」
扉をノックする音が響く。
「先生!先生!」
「黒沼さん!」
「うるさい!わしは関係ない!」
黒沼は瞬きを忘れたまま震え、ひたすらひとり言を言い続けた。
*
電話を切った美鳥は、満足げな顔でソファに沈み込んだ。
「……何となく予想はつくけど、反応は?」
朗が訊ねると、その膝の上に滑り込み、凭れかかった。
「……上々。……たぶん、近いうちに……」
「……近いうちに……?」
朗を見上げ、ふんわりと笑いかける。
「……老兵は立ち去るのみ……」
「……辞任する、ってこと?」
浮遊感漂う瞳が朗を見つめる。美鳥の目、昇吾が不安を抱いていたこの目を、朗はほとんど見た事がなかった。
(……何だ……?美鳥のこの雰囲気は……)
感じるのは昇吾と同じ、漠然とした不安と恐れ。
「……たぶん、ね……」
朗の不安に気づいているのか、それともいないのか、美鳥は他人事のように答えた。
その時、ノックの音が響く。
「お嬢様。本多さんと伊丹さんがお出でになりましたよ」
顔を覗かせた春さんが、朗に凭れた美鳥を見て、ふたりに遠慮しながら告げた。
「ありがと、春さん。今、行くね」
美鳥の返事に頷き、春さんが扉を閉める。
突然の昇吾の死から、春さんはようやく少し立ち直り始めていた。それでも、気づくと寂しげに俯いている。春さんの気持ちは充分過ぎるくらいにわかっていても、美鳥にも朗にもどうする事も出来なかった。
リビングに行くと、夏川、本多、伊丹が揃っている。春さんは飲み物だけ用意すると、そのままキッチンへ戻って行った。
「……見事だったよ」
「……恐れ入ります」
美鳥の短い、しかし全てがこもった賛辞の言葉に、伊丹は目を伏せて静かに頭を下げた。本多も合わせて目を伏せる。
「……これで大体のところは終わったかな……これで黒沼が懲りずに何かやらかしそうなら、もう一発お見舞いするつもりだけど……さっきの様子じゃ、その心配もなさそうだし……」
「一応、しばらくは様子見、と言うところでしょうか?」
本多の言葉に美鳥が頷いた。
「……他の動きと合わせて、もうしばらく監視しててくれる?」
「承知しました」
本多と伊丹が立ち上がる。すると、ふと思い出したように、本多が美鳥に封書を差し出した。
「……報告書?」
「はい」
「……ありがと。……後で見とく」
頷き、本多たちは去った。残った夏川と朗は、ぼんやりと座り込んでいる。放心している、に近い状態。
「……先に報告に行って来る……」
そこに、突然、美鳥が言い出した。
「美鳥さま?報告とは……誰に……」
夏川が不思議そうに訊ねると、美鳥は微かに微笑む。
「……昇吾に……」
その言葉に、夏川は反応出来ずに美鳥を見つめた。
「……ああ……行っておいで……」
だが、朗は穏やかに返す。
小さく頷いた美鳥が、リビングを出て行くのを見送ると、夏川は朗に視線を移した。
「……朗さまは……一緒に行かれなくて宜しかったのですか?」
朗は床の方を見ながら、訊ねる夏川に静かに頷いた。
「……あの言い方は……ひとりで行く、来ないでくれ、って事ですから……」
「……そうなのですか?」
「……はい。そこまで言われてしまったら、ふたりの邪魔は出来ません」
朗が苦笑する。
「朗さまでも、昇吾さまと美鳥さまの間にはお入りになれないのですか?」
少しニヤニヤしながら訊ねる夏川に、朗の苦笑いが更に苦くなった。
「……あんまり遅いようなら、様子を見に行って来ます」
穏やかに微笑んで頷いた夏川は、視線を少し空にさ迷わせると、もう一度ゆっくりと朗の顔を見つめる。
「……朗さま……以前、お聞きしましたが……朗さまは全てを知っていて、それでも美鳥さまを大切に思い、美鳥さまとの人生を望んでいる、と……」
朗もゆっくりと夏川に視線を移した。
「……はい……」
「……朗さまは、美鳥さまと昇吾さまの関係に……変な話ですが、嫉妬したり、やるせなくなったりした事はないのですか?昇吾さまと美鳥さまは……その……端から見れば、下手な恋人同士よりも濃密な関係に見えなくもない。朗さまの立場から見ていて、それは許容出来るものだったのですか?」
ある意味、もっともな夏川の疑問に、朗は穏やかに、思い出すように微笑み、頷いた。
*
墓前に花を備え、美鳥は昇吾に語りかけていた。
経過を、そして、報告を。そして、まだ完全ではないかも知れない事も。でも、直に全てを終わらせる事を。
緩やかな風が、美鳥の頬と髪を撫でて行く。かけがえのない、穏やかなふたりの時。
話し終えた美鳥は、そっとしゃがみ、ゆっくりと顔を近づけた。
昇吾の墓石に、愛おしげに口づける。
そのまま、数秒。
少し顔を離し、刻まれた昇吾の名を見つめた美鳥は、両の手を置き、額を重ねた。
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