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声をきかせて〔第16話〕

 
 
 
 彼女は、ついに自分の口から、ぼくに告白してくれた。

 この、ひと言。たったひと言を口にするために、どれほどの勇気を必要としたのか。ぼくには想像も出来ない。

 ぼくは必要なければ、仁志氏から聞いたことを言うつもりはなかった。ただ、彼女の口から出た言葉だけを信じようと。

「……うん。それで?」

 ぼくの言葉に、彼女は驚いて顔を上げた。

「……どうして……何故、驚かないんですか……私は……」

「驚いているよ。充分に。きみがあれほど必死になって隠そうとしていたことだから、余程のことだとは思っていたけど。……でも、さっきも言ったと思うけど……」

 ぼくは心の中で言葉を噛み締めた。

「きみの口から放たれる言葉の中で、ぼくを底の底まで落とせる言葉、は……ただひとつ、だけだ」

 彼女はぼくを、信じられないものを見るような目で見つめた。

「知られて傷つけたくなかったのは……その子、なんだね?」

 彼女は唇を噛みながら頷いた。

「……その子の父親を……今でも……?」

 ぼくは、一番、訊きたかったことを確認する。触れられたくないことなのはわかっていたけれど、仁志氏のことを黙する以上、尚更、訊かない訳には行かなかった。

「……一度も……」

 小さく呟きながら、彼女は頭を振った。

「……大切な友人、でした。……でも……あの人のことを……それ以上に思ったことは……思えたことは一度も……」

 ━『あの人』。

 その呼び方が、充分に彼女の心情を物語っているように思えた。変な言い方かも知れないが安堵の気持ちが広がる。だが━。

「ならば、どうして……その人は……」

「……子どもが産まれる前に病気で亡くなりました。……いえ……正確には、子どもの存在も知らせていませんでした。……だから……」

 そう言って俯く。

 やがて彼女は、ポツリポツリと話し出した。

 雪村さんの妊娠が確定しても知らせず、そもそもお義兄さんたちが一切の関わりを断ち切ったこと。

 そのまま留学の名目で、出張名目のお義兄さん家族とアメリカに航ったこと。

 安全ギリギリまで待ち、護堂家の息がかかった病院で帝王切開で出産したこと。

 子どもは男の子で、お義兄さん夫婦の実子として育てられていること。

 子どもが生まれる前に、幼なじみの『啓吾くん』は亡くなったらしいこと。

 アメリカでは普通に高校・大学生活を送ったこと。

「そのままアメリカで就職することも考えました。誰も日本での私を知らない場所で。その方が楽なんじゃないか、って。でも……」

 少し考える仕草を見せ、

「どこにいても、やっぱり私は日本人ですし……日本のことが嫌いになった訳じゃなくて。一生、日本を離れている、なんて考えられなかったから……」

「帰国して……ウチの社に就職したんだね?」

「……はい。義兄の口利きで履歴書を見て戴いて。当時の人事部長からぜひ、と言って戴きました。でも、その後、配属が米州部の営業になりそうだ、と聞いて。出来れば、あまり多くの人と接しなくて済む部署にして欲しいとお願いしました」

「……それでか……」

 彼女が土壇場で総合部に配属された理由がわかった。確かに、多賀野部長が米州部の営業への配属を決めたとしても不思議ではない。それを断ったのは、雪村さん自身だったのか、と。

「それに……生涯、事実を知らせることはなくても、やはり義兄たちに全てを頼りっきりには出来ないと思って。……日本に戻れば……思い出したくないことも思い出してしまうことはわかっていたけれど……」

 『思い出したくないこと』

 そこまで。では、何故。

「……どうして……その人の子どもを……?」

 恐らく一番、訊かれたくないこと、だと思う。彼女にとっては。案の定、彼女は躊躇いながら、

「……子どもでした。私は。幼すぎた。何も考えずに。子どもを産む、と言うことがどんなことかも。……ただ……」

 そう言って、彼女はいったん言葉を止めた。

「……もう時間がなかったあの人に懇願されて……自分が生きていた、生まれて来た証……を遺したい、と」

 強く目を伏せる。

「……だから……私に力を貸してくれ、と」

 柱にかけた指が震え、涙を湛えた睫毛が濡れて艶めく。

「動くこともままならないような身体で、必死に私に向かって腕を伸ばして来て……お見舞いに行くたびに何度も何度も。大切な友人だったから、私に出来ることなら力は貸したかった。望みを叶えてあげたかった……でも……」

「……うん……」

 彼女の心情を表すように、強く握られた拳は震え、瞳に溜まった涙を必死に堪えている。ぼくは彼女の手に自分の手を重ねて、震えるその手を包んだ。

「……本当は怖くて……必死になっているあの人のことも、あの人の言ってることも……ただ怖かった……!」

 彼女の瞳から、無色透明のダイヤのようなひと粒が溢れ落ちた。やがて、そのひと粒は白い肌の色を映し、真珠のような乳白色へと色を変える。

 ぼくは睫毛を、頬を濡らす彼女を静かに抱きしめた。躊躇いながら、縋るようにぼくの服を握って来る彼女への愛しさが胸に込み上げ、抑え切れずに溢れて来るのを感じながら。

「……あの人が子どもの頃から……ずっと……ずっと私に……好意を抱いてくれていたこと、薄々気づいてはいたけれど……私は……」

 それは想いに応えられないことへの罪悪感。仁志氏が言っていたように。

「……申し訳なくて……あんなに想ってくれていたのに……応えられなくて……だから……!」

 抱きしめる腕に力を籠める。

「……だから、なおさら……子どもに知られたくなかった……!あなたの父親を好きだった訳じゃない。愛して、望んで、あなたを産んだ訳ではなかったのだ、と……知られたくなかった……!」

 ぼくには何も言えなかった。気休めは言いたくない。だけど、何か言葉をかけたい。その葛藤と闘う。

「……あの子の命を、存在を否定する訳じゃない。でも……でも、自分の行ないを否定することは、あの子自身を全部……否定することになってしまう……から……」

 全てを。今まで、ひとり胸に押し込めていた気持ちを全て。堰を切ったように解き放ち、その流れに怯えながらしがみついて来る。嗚咽に震える身体。ぼくは彼女を強く抱いたまま言葉を探した。

「……子どもを……大切に思っていることに……嘘はないよね?この世に送り出した命を否定しないって言ったことも……」

 腕の中で、彼女は小さく頷いた。

「……ならば、それが全て、だと思う。他人のぼくが言うのは綺麗事だってわかっている……きみにとっては葛藤の十数年だったと思う。でも、きっと、それは理屈じゃなくて」

 彼女はしがみついたまま、じっとぼくの言葉を聞いている。

「真実を知る日が来るのか、知らないでいられるのか、それはわからない。でも、もしも。もしも、その時が来たのなら、きみが大切に思っていること、を伝えてあげればいい」

 身体を少しだけ離して俯いた彼女は、ぼくのシャツを握り締めながら。

「……でも、きっと……本当は……私は自分を守りたかっただけなんです。あの子を傷つけたくなかった、なんて綺麗事で。……もちろん、大切に思っていることに嘘はありません。……でも。本当は、それよりも何よりも、自分を守りたかった。ただ、人に知られるのが怖くて……何より、いつの間にか……」

 再び、彼女の瞳から涙が溢れる。

「……あなたに知られるのが怖くなっていた……こんなこと……知られたくなかった……知られたらと思うと怖かった……怖くて堪らなかった……!」

 一気に吐き出した彼女の身体を、夢中で掻き抱いた。折れそうなくらい、強く、強く抱きしめる。今度こそ、時間がこのまま止まっても構わない。そんな思いで。

 だけど、きっとこのことがなければ、ぼくが彼女に出逢うことはなかった。出逢ったとしても、彼女は誰か他の男のものだったに違いない。

「……ごめん。こんな状況なのに。ぼくは……少しだけほっとしている。きみに、今、他に大切な男がいる訳じゃないことがわかって」

 その言葉に、彼女は驚いた顔をして咄嗟にぼくから離れ、睫毛の濡れた瞳でぼくを見上げた。

「……きっと、色々と……面倒なことがあるのはわかってる。わかっているけど、でも、ぼくにとって……」

 そう。きっと、色々と片付けなくちゃならない問題は多くなるだろう。恐らく、ぼくの想像以上に。それでも━。

「きみを想うことに、その想いを他に気兼ねする必要がないことに、何の障害もない、その現実に……」

 潤いを湛えた瞳を真っ直ぐに向けて来る彼女の顔。思わず理性を手放したくなるくらいに可愛くて。

「何度も言うけど、きみのひと言だけが、ぼくを天国にも地獄にも簡単に連れていく」

 戸惑う表情。

「……でも……でも、私は……」

「迷っているなら、ぼくを選んで」

 彼女の瞳が大きく見開かれた。唇が震えている。

「ぼくを選んで。そして、もう、迷わないで。全部、ぼくに委ねて」

 ぼくは少しずつ、彼女との距離を詰める。━と。

「……ならば」

 ぼくの目を見つめたまま、震える唇から小さく絞り出す。

「……私は全て話しました。そして、その上で、主任。あなたを選べ、と言うのなら。それなら、あなたも……」

「……え?」

 予想外の展開。彼女からの反撃なのか。しかも、彼女の言わんとすることがわからずに戸惑う。

「あなたもきかせてください。あなたの気持ち、あなたの本心を。あなたの本当の声を」

「……ぼくの……?」

 ……ぼくの本当の声?

 彼女は少し睫毛を落としながら、

「……いつも……いつも不思議でした。どうしてこの人は……いつもこんなに自分を抑えているんだろうって……」

 彼女の言葉にぼくは驚いた。ぼくが自分を抑えている?確かに争い事は好きじゃないから、あくまで問題ない程度であれば、穏便に済まそうと言う傾向があることは自分でも認めるけれど。

「ぼくは……そんなに自分を抑えているように見える?」

「……私には……いつも……周りを失望させないように行動している、ようにしか見えませんでした。主任にはそれだけの能力があるから、周りも期待するし、許容以上を要求するのだとはわかっていますけど……でも……」

 『周りを失望させないように行動している』……これは耳に痛い言葉だった。正確に言えば『失望させることが何となく怖かった』からだ。

「……あなたがどんな人なのか……そんなことは、皆、気づいているのに。人や業務への対応、仕事量、言葉や行動、普段の全てを見ていれば……自ずとあなた自身が見えて来ます。どれだけ、努力しているのかも」

 彼女は少し俯いて、言葉を探しているようだった。

「周りの状況ばかりを見過ぎて、考え過ぎて……しんどそうでした。無理だと断ったとしても、あなたがそれだけのことを熟していること、皆がわかって認めているのだから、誰もあなたに対する見方や気持ちを変えたりしないのに、と」

 それを聞いて、突然、今井さんに言われた言葉が脳裏に甦る。

━普通はちょっとくらい印象からハズレたことがあっても、いきなり相手をきらいになったりしないもんなんだから━

 あれは、こう言う意味だったのか。彼女の言うことは、本当にいつも核心を突いている。と同時に、雪村さんもそんな風に、ぼくを見ていてくれた、と言うことなのだ。

 以前、ぼくは自分がギリギリいっぱいの状態なのに、室長からの依頼を断り切れずに受けようとした。その時、彼女が然り気無く助けてくれたこと。ぼくに『しんどくないか』と訊いてくれたこと。そして恐らく、室長から説明会の進行を依頼された時も、ぼくの負担を減らすために。

 ……そんな全てが少しずつ思い出され、色鮮やかに浮かび上がった。

 一瞬にして、そんなことを回顧しているぼくに、彼女は最後通告をつき付ける。

「周りのためとか、私のためとか、そうではなくて。あなたの。あなた自身の……」

 そう言って顔を上げた彼女は、真っ直ぐにぼくの目を射抜いた。狙った獲物は逃さない、とでも言うかのように。そして、その狙い通り、ぼくは意図も簡単に捕われた。いや、自分から望んで囚われた、と言った方が正確なのかも知れない。

 輝く双眸が、ぼくにも全てを晒せ、と決断を迫る。

「……ぼくは……」

 彼女の瞳が光を受けて、一層、強く揺れる。

「きみに、ぼくと一緒に歩いて行ってほしい。ぼくは、きみと一緒に歩いて行きたい」

 彼女は身じろぎもせずにぼくの目を見つめたままだった。何かはわからないけれど、ぼくは欲しくて堪らなかったその何かを、彼女の瞳の中に見つけた気がした。

「……きみが……きみの全てがほしい。……だから、ぼくを選んで」

 顔周りにかかるやわらかい髪の毛をすくうように、彼女の頬にそっと触れる。しっとりとした白い肌をなでるように。

 彼女は逃げも拒みもしなかった。拒否しない時の彼女の心は『諾』。ぼくは自分の中でそう決めていた。

 もう迷わない。

 もう躊躇わない。

 そして。

 もう退かない、あきらめない。

 ぼくの目を真っ直ぐに見つめる大きな瞳が、蝋燭の炎のように揺れている。その瞳に吸い込まれるように顔を近づけ、視線を絡ませたまま、ぼくは彼女の唇を塞いだ。

 瞳が一瞬だけ見開かれ、それから長い睫毛がゆっくりと伏せられていくのを気配で感じる。と同時に、彼女の唇がやわらかくぼくの唇を受け入れ、そっと、爪先立ちになる。

 深まる口づけ。

 角度を変えるたび、彼女の口から洩れる吐息にも似た小さな呼吸がぼくの心を煽る。

 とまらない心。

 とめられない口づけ。

 放したくない。こぼれ出す想い。

 無限にも思える数分。

 ぼくは、何かわからずに探していた宝物をやっと見つけた。そして、その宝物は、今、この手の中にある。その思いに打ち震える。

 ……いったい、ぼくたちはどれくらいの間そうしていたのか。

 爪先立ちの彼女の脚が震えてきたのを感じて、そっと唇を離す。離したくなかったけれど。終わらせてしまうのが惜しい時間。

 ぼくはやっと彼女を解放する、と見せかけて、そのまま腕の中に閉じ込めた。突然の拘束に小さく悲鳴をあげ、彼女がすっぽりとぼくの中に納まる。

 腕の中で彼女がモゾモゾと動き、ぼくのシャツの肩口を下から手を廻してキュッと掴む。その動き、と言うか、様子が堪らなく可愛くて、あのポーカーフェイスの彼女からは想像もつかない。今、どんな顔をしているのか見てみたい。でも、もったいないからこのまま離したくない。

 ぼくには流行りの言葉はあまりわからないのだが、思わず顔がだらしなく緩みそうになり、これが東郷くんたちが言っていた『萌える』……なのだろうか、などと考えてみる。

 ━すると。

 突然、ぼくの携帯電話が振動する。出たくない。もう少しこのままでいたい。頼むから邪魔しないでくれ、もう少し後にしてくれ、と携帯電話に祈る。

 しかし電話の相手も諦めない。ぼくが出るまで鳴らし続ける覚悟なのか。

「………………主任。…………電話が…………」

 ついに、心配そうに雪村さんが声をあげた。

 仕方なく、ものすごくゆっくりと手を放して彼女を解放する。

 取り出して画面を見ると。一気に意識が億万光年引き戻されたくらいの衝撃。

「も、もしもし…………」

 電話を耳から離し気味にして、恐る恐る応答する。━と。

「ちょっと!!見つかったの!?見つからないの!?」

 心配した今井さんからだった。雪村さんに「今井さんだ」と小声で伝え、

「ごめん。さっきはありがとう。お陰で見つかったよ。今、一緒にここにいるから」

 その返事に、電話の向こうで安堵の息が聞こえる。

「そう。良かった。接待も終わったのに、一向に連絡ないし……まったく!心配したのよ。ま、無事で良かったけど」

「本当にごめん。今度、お礼も兼ねてちゃんと説明するよ」

「……ん。わかった。じゃあね。雪村さんにもあんまり心配させないで、って伝えといて」

「わかった」

 電話を切り、今井さんからの伝言を伝える。……大音声は、ほとんど聞こえていたようだけど。

 それから、最初に公園の近くにいる情報をくれたのが今井さんだったことも教える。それを聞いた雪村さんは、嬉しそうに、ちょっと申し訳なさそうに口元を緩めた。

 それは初めて見る、やわらかい笑顔。ダメだ……萌える。ぼくが再び彼女を腕に閉じ込めようとすると、また携帯電話が振動。諦めて画面を見る。

 ……忘れていた。今度は仁志氏だった。

「……藤堂です。今、連絡をしようと……はい。無事に雪村さんを確保しました」

 とりあえず嘘も方便だ。

「はい。そうです、はい。はい。では」

 電話を切って彼女を見ると、様子を窺うような表情。初めて見せてくれる表情のオンパレードに、本当に!……萌える。もっと、ずっと見ていたい……けど、仕方ない。

「お義兄さんだよ。心配している。帰ろう」

 ぼくの言葉に、彼女は素直に頷いた。

 公園の出口に向かいながら、ふと気づくと、彼女がぼくのシャツの背中側の裾を掴んでいる。……理性とお別れしたくなるから勘弁してほしい。

 深呼吸で脳を鎮静化し、ぼくは彼女の肩を抱いて大通りでタクシーを拾う。

 タクシーの中でも、ぼくは手の中に宝物を掴まえたまま、後ろに流れて行く光の束を見ていた。このまま連れ去りたい……なんて考えながら。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 

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