見出し画像

月待ちの宵〜花の章〜

 
 
 
~月待ちの宵花~
 
 
 
「……ここは……?」

 男は辺りを見回した。

 気がついたら、知らぬ場所に立っていたのだ。一面、美しい花が咲き乱れている、この場所に。

 例えるなら『楽園』か、それとも──。

「……極楽……?ここはあの世なのか?とうとう私は死んだのだろうか……?」

 それにしては花畑以外に何もない。誰もいない。ただ、こんなに近くに、と思うほどに大きな月だけが見下ろしている。その月に照らされた花びらたちが、内側から灯るように透けた光を放っていた。

 『あの世』とは、こんなにも美しく、しかしこんなにも寂しい場所なのか──男は少し哀しくなった。もちろん、死んだ経験などないのだから、極楽がどんなところかも知らないし、ここが本当に極楽なのかもわからないのだが。

「……お迎えは……なしか……」

 ポツリとつぶやいた時、

「何故、ここに来たのです?」

 突然、背後から声。

 耳に心地よく響く若い女の声は、だが、男が望む声ではなかった。それでも、この寂しい場所に人がいたことへの仄かな希望が男を振り向かせ、同時に驚かせもした。

「……きみは……!」

 その驚きには答えず、女は男を見つめている。

「私が知っている方に見えるようですね。だから、ここに来れたのですね」

 その言葉の意味は、男には理解出来なかった。ただ、目の前の女が自分の知っている女性ではないことだけはわかった。

「……あなたは……枝里子(えりこ)さんではないのですね……」

「……そうです……貴男が逢いたいと望む人の姿が私に映るだけです」

 男は寂しげに微笑み、うつむく。

「……最期の最後に迎えに来てくれたのかと……本当は私の気持ちに気づいていてくれたのかと……そんな虫のいいことを……」

 男の顔を見つめる女の唇が静かに動いた。

「貴男の大切な方ですか?……奥様……ではなさそうですね」

 女の問いに、下げたままの目線を彷徨わせる男。迷いが見て取れる。

「……大切な……思い出の女性(ひと)です。……確かに家内ではなく……」

 女は何も答えなかった。それが男には、逆に責められているようにも感じられた。

「……壊れそうなほどに惹かれた女性だったけれど……想いを伝えることも出来なかった……」

 何故、こんな言い訳がましいことを言っているのかと、男は自分のことが可笑しくなって来る。

「どうして想いを伝えなかったのです?」

 当然の質問とわかってはいた。しかし、即答は出来ず、沈黙の時が流れる風に乗って行く。

「……その時、私には既に家内が……」

「本当は奥様より心惹かれていた、と聞こえますが……?」

 やっとのことでひと言絞り出した男に、女はそれでも躊躇わずに訊ねた。男にとっては、女の問いは容赦ないものだったが、客観的には真実を突いてもいた。

「……それは……」

 男は言い淀み──。

「……いや、確かにその通りだ……」

 消え入りそうな声。だが、女の表情は特に変わることはなかった。

「だから、その方の姿に見えたのですね」

 変わらない声音でそう言った女の顔からは、既に男の知っている『枝里子』の面影は薄れている。

「……ああ……やはり枝里子さんではないのだね……」

 女本来と思われる美しい顔を見つめ、男の顔は一瞬の驚きと感嘆の後、暗がりへと沈み込んだ。

「あまり時間はないのです。早くお戻りなさい」

 女の言葉に、男はうつむいた顔を逸した。

「……戻る場所など……もう今さら……もう家内もいない……枝里子さんにも逢う術はない……待つ人などいないこの身が一体どこへ……」

「それは貴男が決めることです。ここは留まって良い場所ではありませんから……」

 女の声音は、特に冷たいものではなかったが、男には立ち退きの通告の言葉として突き刺さる。

「……こんなことなら……想いを告げておけば良かったのだろうか……家内よりも惹かれていると気づいた時点で……そうしたら、彼女は今頃……」

「それほどに後悔するくらいなら、何故、そうしなかったのです?」

 後悔の念を吐露する男に、女は淡々と訊ねた。

「……それは……だから……」

 既に結婚していたから──そう言いかけ、男の言葉は尻すぼみになる。そのルールに従うのなら、今さらの後悔の愚痴など口にすべきではない、と。だが、それで後悔の念がなくなるわけでもない。

「……家内に……綾子(あやこ)に不満があったわけでもないのに……落ち度があったわけでも……だから……」

 そこまで言った男は、それすらも自分を擁護する言い訳に過ぎないと気づいた。故に、何ひとつ言える言葉を見つけられなくなってしまう。

「……傷つけたくなかったなんて言って……自分が怖かっただけ……か……。……結局、隠したまま……何を言おうと、私は裏でずっと綾子を裏切り続けていたんだ……何も知らず、いつも笑顔で支えてくれていた綾子を……」

 だが、その時、女の口から思いも寄らない言葉が投げかけられた。

「奥様は、貴男の気持ちを全てご存知でしたよ」

 一瞬、男は自分が何を言われたのか理解出来なかった。女の顔を見つめ、息を詰める。

「……そんなはずは……いつも穏やかに笑っていて……私を疑っているような素振りなど一度も……」

 男は額に手を当て、過去を手繰り寄せた。だが、妻の様子を変に感じた記憶など一度もなかった。

「本当は、心当たりがあるのではありませんか?奥様の最後の言葉の中に……」

「……え……?」

 女の言葉に首を傾げた男の脳裏には、次の瞬間、突如として妻との別れの日のことが甦った。

『……綾子……しっかりしなさい……!』

 床に横たわる妻の手を握り、男は説得力のない鼻声で檄を飛ばした。涙を浮かべた妻の、いつの間にか痩せ細った指。それでも変わらぬ優しい感触が、弱々しい力で握り返してくるのを感じる。

『……あなた……ありがとうございました……』

『……何を気弱なことを!』

 男は妻を抱え起こした。

『……私は幸せでした……』

 妻の言葉に、男の瞬きと呼吸が思考と共に束の間途切れる。

(……私……は……?)

『……ごめんなさい……』

『何を謝っているんだ!』

 見つめる瞳からひと筋の涙が頬を伝った。

(……綾子……?)

 妻が何を言わんとしているのかわからないうちに、黒目がちの優しい瞳が少しずつ閉じて行く。腕にかかる頭の重みをもろに受け、男は我に返った。

『……綾子!』

 呼びかけても、もう返事はなかった。

『……綾子……!』

 それきり、妻の最後の言葉の意味など考えたことはなく──。

「……あれは……いや……何故、綾子が謝る必要があるんだ……!悪いのは私の方なのに……!」

 頭(かぶり)を振る男の耳に、静かな女の声が入り込む。

「……それでも……自分は貴男といて幸せだったから……」

 男が瞬きの止まった目で、ゆっくりと女の方を向いた。

「自分の存在が、貴男を縛っているのだと……思っていたから……」

 息を飲む。

「……何故、きみにそんなことがわかるんだ……」

「私がわかっているのではありません」

「……え……?」

「貴男が、そう思っているから……心のどこかで、奥様はそう言う人だと知っているから……ここでは、その人の心の奥底が映し出されるのです」

「………………!」

 男はもう一度息を飲んだ。それは、女の返答のせいだけではなかった。女の顔が、再び変化していたからである。

「……綾子……!」

 間違いなく妻の顔であった。懐かしい面立ちに、呼吸も忘れて見入る。

「……私のことが……今度は奥様の顔に見えるのですか?」

「……ああ……」

 男の声が震えた。

「では、貴男は本心から奥様に逢いたいと思っている、ということ……ここでは自分の心に嘘をつくことは出来ませんから」

「……何故……だって、さっきは……」

 心の恋人の姿に見えたのに、という言葉を飲み込む。

「……貴男の心が囚われていたからでしょう」

「……囚われて……枝里子さんに……」

「いいえ。……想いも告げられなかった、という事実に……」

 女の言葉が胸に刺さった。

「貴男が真実、どれほど奥様を想っていたか、ということを覆い隠すほどに……」

 男の目から涙が溢れる。女はそれを見つめ、もう一度静かに言った。

「さあ……わかったのなら、早くお戻りなさい。ここにいても、貴男の望む迎えはありません。ここは、人が留まるべき場所ではないのですから……」

 覆っていた顔から手を離し、男は女を見上げた。妻の面影が少しずつ薄れて行くのがわかる。

「……ならば……きみは何故ここに?……何のために……」

 男の問いかけに、女は真っ直ぐな視線を向けた。

「……私はここで月を待っているのです」

「……え……?」

 思わず頭上を仰いだ男はそこに月を認め、不思議そうに女を見つめ返した。

「……月ならあんなにはっきりと……」

「あれは本当の月ではないのです。貴男が見ているのは、月が反射した姿……映された残像のようなもの。貴男が見た奥様の姿も、奥底にある本心も、本当の月が映して投影させていたものなのです」

 睫毛を翳らせ、女は答えた。男には意味はわからなかったが、今、目の前にある月が本物の月ではない、と言っていることだけはわかった。そして、こんな状況を、知らぬ間に自分が受け入れている事実が不思議だった。

「……何故、本当の月を待っているのかね?」

「……私を探している……迎えに来てくれるはずの草に……私の居場所を映して伝えてくれるのが、本当の月だけだからです。私はその瞬間を……その刹那を待っているのです」

「……その瞬間は……いつ来るのかね?」

 男の問いに、女は首を振る。

「わかりません。もし、月が現れても、タイミングが合わなければ見つけてはもらえないので……」

「……そうなのか……」

 男が自分のことのように項垂れた。

「私のことより、貴男の方こそ早くお戻りなさい」

 そう言った女の顔からは、妻の姿は完全に消えている。男は最後であると予感し、問うた。

「……きみの名前は……?」

「私には名はありません。ただ、周りのものたちは『花(ファ)』と……」

「……花……」

 つぶやいた瞬間、男の周囲は闇に包まれた。

 目を開けると、そこには見慣れた白い天井。片側には病室特有のパーテーション。

「……何だか夢を見ていた気がする……」

 ふと、カーテンを閉め忘れた窓の外を見遣れば、覗かれているような大きな月。

「……見事な月だな……そう言えば、綾子とも良く縁側で月見をしたっけ……」

 半身を起こした老人が月に見入る。──と、その目に不思議な光景が映った。

「……あれは……?」

 月の中に、見たこともない美しい花が咲いている。そして、その花に差し伸べられる若い男の手が。すると、まるで首を傾げるように、もたれかかるように、花がその手に頭を寄せた。嬉しそうに。

「……あの娘に……花についに迎えが来たのだろうか……?」

 つぶやき、老人は我に返った。

「……私は今、何を言ったんだ……?……ファ……誰だったかな……?」

 月に目を奪われながら洩らすと、再びハッとする。

「……あれは何だ……?」

 ぼんやりとした光のような何か、が見えるのだ。見定めようと、老人は遠くなった目を凝らした。やがてはっきりして来る『それ』を認め、驚愕に瞬きがとまる。

「……綾子……!」

 懐かしい、優しい笑顔の妻が手を差し伸べている。

「……来てくれたのか……」

 嬉しそうに手を伸ばした老人は、迷いのない目で妻の手を取った。

「……私も幸せだった……」

 そう言って、妻の手を強く握る。

(……私の迎えは来てくれた……)

 それが記憶の有無と矛盾しているなど、老いた身には既にどうでも良いことであった。妻が迎えに来てくれた、という事実以外は。

 ただただ心を満たされた老人の魂が、役目を終えた身体からゆっくりと立ち上がった。

 翌朝、病室を訪れた看護師は、老人が既に起きているのかと驚いた。

 だが、そこに見たのは、ヘッドボードにもたれて永の眠りについた老人の、満足気に微笑む穏やかな姿であった。
 
 
 
 
 
 
 
← 前話〜草の章
→ 次話~樹の章
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?