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声をきかせて〔第9話〕

 
 
 
 変わらない華やかな笑顔を浮かべた瑠衣は、だが4年前より確実に色香を増し、あの頃より短くした髪がさらに円熟した女性らしさを醸し出していた。

「……いつ日本へ……確か任期は……」

「久しぶりなのにいきなりご挨拶ね。残念だけど休暇を利用した一時帰国なの。本格的な帰国はもう少し先になるわ」

 クスクス笑いながらいう。

「雪村さんもお久しぶりね。藤堂くんだけじゃなくてあなたまで企画室に異動になってたなんて……びっくりしたわ」

 如何にも同期らしく雪村さんに話題を振るが、その言葉の端に、微かに挑戦的な含みを感じる。

「ご無沙汰してます。つい最近、欠員補充として着任したばかりです」

 雪村さんの返事には何のてらいもないように感じるが、もし、ぼくの感じたことが間違いないとすれば、瑠衣の心が却って煽られる状況だ。彼女はふんわりしたその見かけとは裏腹に、驚くほどに競争心が強い。

「そうなんだ。雪村さんが来てくれたのなら、藤堂くんも心強くていいわね」

 言っている内容は何てことはない。が、やはりその口調には強烈な含みを感じる。

 かつて今井さんが瑠衣のことを『羊の皮を被った女豹』と称していて笑ったが、実際には言い得て的を得ていると思う。もちろん、そこがまた彼女の魅力でもあるのだが。

 瑠衣の中では、何事も『勝つか負けるか』が判断基準で、そんなところがぼくにとっては新鮮であり、刺激でもあったことは事実だ。

 その彼女が『負け』を認めた唯一の相手が、どうやら今井さんらしい。

「ま、挨拶はこれくらいにして。永田室長はいらっしゃるかしら。本来なら、私、休暇なんだけど……現地の状況を林部長と室長に報告しておいてくれ、とか言われちゃったから」

 瑠衣はそう言って少し拗ねた顔をする。見慣れたはずの表情。

「今、お部屋にいらっしゃると思います」

 雪村さんが答えると、

「そう。ありがとう。じゃあ、また。仕事中にお邪魔してごめんなさいね」

 そう言って再び艶やかに笑い、室長の執務室へと歩いて行った。

 瑠衣の姿が見えなくなると、雪村さんとの間に微妙な空気が流れる。いや、ぼくが勝手にひとりで感じているだけなんだろう。気を取り直して説明を続けるが、何故か雪村さんの気配を意識してしまう。

 瑠衣の顔、今井さんに言われた言葉、そして雪村さんの言葉が交互に浮かんでは消えて行く。

 瑠衣とのことは既に終わったことで、当然、それ以外の何物でもない。もちろん彼女に未練がある訳でもない。なのに何故、今、ぼくの前に現れたのか。つい、そんな風に考えてしまう。

 仕事を終わらせた時には、身体よりも頭の中がグッタリしている自分に気づく。もう何も考えたくなくて、帰宅してシャワーを浴びるなりベッドへと倒れ込む。

 そのまま眠ってしまいたいのに、むしろ頭が冴えて眠れない。こんな時、他の人はどうしているのだろう、と考える。

 答えの出ないままぼんやりとしていると、ふと、頭に浮かんでくるのは雪村さんの顔。変化がわからないくらいのポーカーフェイスの中に、時折、混じるようになって来た感情の色。少ない言葉数の中に込められた心遣い。そして意外な激しさ。

 氷の花のようだと思っていた彼女の印象は少しずつ変わり、今はむしろ炎のようにも感じる。燃え上がる真っ赤な炎とは違う、静かな、けれども高温を放つ青い炎のような。

 今井さんが言うように、この気持ちが恋なのだろうか。それすらもはっきりとわからない。そう考えると、ぼくは今まで本当には恋したことなどないのではないか、とすら思えて来る。今までのつき合いは全部『擬似恋愛』だったのだろうか。かつての瑠衣への思いも全て。

 彼女を大切に思っていたことは間違いない。でも、それだけでは成り立たない何か、が、ぼくには欠けていたのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、ぼくはいつの間にか眠りの底に落ちて行った。

 

 
 朝、目覚めるとメールが入っていた。片桐課長だ。眠ってしまって気づかなかったらしく、見れば着信も入っている。

 『詳細は改める』となっていたが、用件は室長も言っていた伍堂財閥の件らしい。課長たち営業にも情報が入っているということは、どうやら本格的に動いているのか。しかし、企画自体がまだ起動していない今現在、何をどうするために動き出したのかがよくわからない。全くの別件なのか。

 課長と話すために、早めに出社して営業部に顔を出すことにした。現地との時差があるため、米州部はもう出社しているはずだ。

 久しぶりに感じる営業部の雰囲気。やはり最初に配属された場所だけに思い入れはある。見知った顔に挨拶をしながら米州部のシマに向かう。

 ぼくの後任である三杉くんはアメリカに赴任中で、根本先輩と朽木くんが課長の下にいるはずだ。

 ぼくが近づいて行くと最初に気づいてくれたのは、こちら側を向いて座っている朽木くんだった。彼は小さく会釈をしながら立ち上がると、奥の方に姿を消した。恐らく、ぼくが課長に会いに来たと察して、席を外している課長を呼びに行ってくれたのだろう。噂には聞いていたが、本当に回転が早いようだ。

 シマのすぐ近くで立ち止まると、こちらに背を向けて座っていた根本先輩もぼくに気づき挨拶してくれる。

「お?藤堂くん、おはよう。珍しいな。こんな時間から」

「おはようございます。ちょっと片桐課長にお訊きしたいことがあって……」

「そうか。片桐課長は……あれ?奥かな?」

「あ、今、たぶん朽木くんがぼくに気づいてくれたので、呼びに行ってくれたのではないかと思うのですが……」

 そんなことを話している間に、奥から朽木くんが現れた。

「藤堂主任。片桐課長が奥のミーティングルームへ、とのことです」

「ありがとう、朽木くん」

 お礼を言い、ぼくはミーティングルームに向かった。

 ノックをすると、中から「どうぞ」と聞こえたので扉を開ける。

「課長。おはようございます。昨夜は申し訳ありませんでした」

「おう、おはよう。いや、忙しいかとは思ったんだけどな」

「いえ、それが……昨夜はすっかり眠り込んでしまっていました」

 課長の言葉に寝オチを白状する。

「まあ、今、いろいろ重なっているしな。疲れているだろう」

 その言葉に苦笑いするしかない。

「ところで、メールにあった伍堂財閥の件ですが……」

「そうそう、それだ。おれは昨日、専務から聞いたんだが」

「えっ。専務からですか?」

「まあ、聞いた、と言うと語弊があるかも知れないな。あの人はいつも飄々としていて、どこまでが本音なのかわからない時が多いからな」

 課長はそう言って苦笑いをする。課長はニューヨークの件以前から社長と専務からは絶大な信頼を得ていて、時々呼び出されては食事などに同行させられる。課長が情報通なのはその辺りの情報網も大きい。

「昨日も、『どうするかなぁ~。向こうが動くほどのことにするつもりないんだけどなぁ~』なんて誰に言うともなく呟いてたからな」

 その物言いは如何にも専務らしいと、つられて苦笑いする。そんな感じでいて、時に豹変するのだから。

「それにしても、専務のその言い方だと、伍堂が動こうとする理由をご存知、という風に聞こえますが」

 ぼくの言葉に課長も頷く。

「おれもその点が気になったんだけどな。専務もそれきり何も言ってくれなくてな。ったく……気になるから中途半端になら言ってくれるな、って感じなんだが」

 ブツブツ言う課長の言葉に笑いながら、ふと気づく。

「そう言えば、課長。伍堂財閥の社長は当然『ごどう』という苗字ですよね。ですが、ぼくの記憶違いでなければ、確か『ご』の字が……」

「ん?ああ。苗字は『まもる』って方の『護』なんだよな。お堂を護るで『護堂』」

「今まであまり考えたことがありませんでしたけど、いったい何故なんでしょう?」

「昔、社長に聞いた話だと、確か元々は護堂という名を持つ一族で固めていたらしいが、今、その名を名乗っているのは社長一族だけなんだそうだ」

「でも、それだと財閥という感じではないですよね」

「もちろん、名が違っても系譜的には繋がってるらしい。で、今ある企業系統が大まかに5つだから語呂合わせ的に『伍堂』。あと『まもる』の字だと、文字通り『護りに入る』って印象になるから、それを払拭する意味もあるらしいな」

 個人的にはわざわざそのために文字を変えてまで、とも思うが。すると課長が思い出したようにつけ加える。

「そうだ。件の不倫説のことも訊いてみたぞ」

「えっ!専務に直接訊いたんですかっ!」

 これ以上、噂が広がるようなら、とぼくも考えてはいたが、さすがに今の段階ではまだ迷っていたのに。

「……で、専務は何と?」

「『え~ぼくが雪村さんと~?彼女みたいな別嬪さんなら、ぼくが独身だったら喜んでウェルカムだけどねぇ~。残念ながら、ぼく、奥さんのこと愛してるし~』だそうだ」

 がんばって専務の物言いを真似する課長に、そんな場合じゃないとわかっていながら笑いがこみ上げて来る。

「藤堂。笑いたければ素直に笑え」

 そう言う課長の目が怖くて笑えない。だが課長はすぐに真剣な表情に戻り、ぼくが一番気になっていた件について触れた。

「それとな。村瀬のことも報告ついでに」

「話されたんですか!?」

 課長が課長たる所以だ、と思う瞬間だが。

「専務との目撃情報だの何だのの絡みがなければ、さすがにおれもそこまで報告しようとは思わなかったけどな。きみにこの間の説明会での話を聞いたんで……それとなく、な」

 やはり何でも相談や報告をしておくべきだと確信する。普段、他の人に対してこれらが足りないことが、課長に言われた「何でもひとりで解決しようする」という言葉に繋がるのだろう。

 それにしても、村瀬の件を聞いて専務はどう思われたのだろう、と気になって仕方ないぼくは、課長の言葉を聞いて驚いた。

「専務曰く、村瀬のことはそのまま泳がせろ、だそうだ」

「……え。それは……放っておく、と言うことですか?」

「そう言うことらしい」

 それでは、万が一、村瀬が暴挙に出たらどうすればいいのか。雪村さんに危害を加えるようなことがあったら?

「それと、雪村さんのことを嗅ぎ廻っていたヤツのことは、こちらに任せろ、とも。専務たちが何かしら手を打つ、と言うことらしい。つまり、おれたちには余計な動きをするな、ってことだ」

「そんな……」

「まあ、専務ならそれなりに専門のツテもあるだろう。素人が中途半端に動かない方がいいこともある。出来るだけひとりにさせない、とか、そう言うところを気をつけておいてやれ」

 ぼくの表情から、不安や不満を読み取ったらしい課長が宥めるように言う。『素人』と言われれば返す言葉はないが。依然として不満気なぼくに課長が続ける。

「そう言えば坂巻さんが一時帰国したようだな。藤堂、きみ、会ったか?」

 忘れていた件を思い出す。正直、あまり触れたくない話題なのだが。

「ええ……はい、昨日。室長への報告で企画室に来た時に。課長は何故、ご存知なんですか?」

「昨日、アジア部のシマでな。今井さんとしゃべっているところを見かけたんだ。髪の毛が短くなっていて、最初は誰かと思ったよ」

 そう。変わっていたのは短くした髪の毛とぼくとの距離。だけど、変わらないのはその負けん気と、そして……。

 黙り込んだぼくを見て、課長はそれ以上、瑠衣についての話題には触れなかった。代わりにと言うわけではないだろうが、もうひとつ気になることをつけ足した。

「村瀬の話に戻るが……」

「はい」

「専務は、村瀬が雪村さんに物理的に危害を加えるようなことはないだろう、とも言っていた。彼も大変なことがあって、今、自分を見失っているんだろう、と」

 課長が専務から聞いたと言う言葉は、ますます意味がわからないものだった。あの村瀬が『自分を見失うほど大変な目に遭った』?それはどう言うことなのだろうか。だが、果たしてそれで雪村さんの身の安全は本当に確保出来るのだろうか。

 どこか納得が行かない。黙り込んだぼくの様子を見ていた課長が何か言おうとした、その時。ノックの音が響く。

「課長。三杉先輩からお電話が入りました」

 朽木くんが顔を覗かせて告げた。

「ん、今、行く。藤堂、この話はまた夜にでも話そう」

「はい」

「いいな。先走るなよ」

 課長は念押しの言葉を残し、朽木くんと共に速足で出て行った。

 後に残されたぼくは一先ずこの件を頭から振り払い、とにかく企画室へ入室しなければならない。

 企画室が見える辺りまで行くと、瑠衣が扉を閉めて去って行くところだった。さすがに遠目でもわかる。その後ろ姿を見送りながら不思議に思う。休暇だと言って昨日は報告すら拗ねていたのに。今日はまた企画室に何の用事だったのだろう?しかも、こんな朝っぱらから。

「藤堂主任、おはようございます!」

「おはようございます!」

 部屋に入ると、野島くんを筆頭に、藤川くん、武藤くん、岡田くんが次々と挨拶をしてくれる。

「おはよう」

 挨拶を返しながら見回すが、雪村さんの姿が見えない。

「雪村さんは?」

「あ、雪村先輩なら席を外されてます」

「そう。……そう言えば、今、アジア部の坂巻さんが来ていた?」

 野島くんに訊いてみる。

「はい。雪村先輩と何だか少し話されて……何か預けて行かれたみたいです」

 瑠衣が雪村さんに?いったい何だろう?

 雪村さんが戻って来たら直接訊いてみよう、と考えていると、直に奥から姿を現したので声をかける。

「おはよう、雪村さん」

「おはようございます」

 挨拶をしたはいいが彼女は何も言い出さない。預かったものと言うのは、室長宛でもぼく宛でもないと言うことなのか。

「雪村さん。さっき、アジア部の坂巻さんが来ていたよね?」

 ぼくの方から切り出してみると、雪村さんの反応に、ほんの一瞬、迷いのようなものが見えた。

「……はい。いらっしゃいました」

「何の用事だった?」

 明らかに雪村さんが言い淀んでいるのが感じられる。瑠衣はいったい雪村さんに何を話したのか?そして何を預けたんだろう?

「……個人的なお話でしたので」

 彼女はそれきり口を閉ざした。

 個人的な話?瑠衣が雪村さんに?瑠衣の性格を考えると気になるが。

「そう。また報告か何かと思ったから。違うならいいんだ」

 本当は気になって仕方ないが、まさか『個人的な話』と予防線を張られたものを無理に聞き出すわけにも行かない。

 ただ、そう言ってる時の雪村さんの目がさらに気になった。彼女にしては珍しく、何か物言いたげにぼくを見つめる目。

「雪村さん?」

 訊き返すとほんの一瞬、ピクリと反応したが、すぐに何事もなかったかのような様子に戻り、仕事へと意識を移す。その切り替えの早さ自体は見倣わなければいけないところだが……。

 その日も一日、慌ただしく仕事をこなした。ただ、雪村さんが時折、本当に時折、こちらに視線を向けるのが感じられた。最初は自分が意識し過ぎなのかとも思ったが、どうもそうではないようだ。それが、また、ぼくの心をざわつかせる。

 彼女の視線が本当に気のせいではないのなら、それは恐らく瑠衣の行動が関係している。瑠衣は雪村さんと何を話していたのだろう。気になり始めるとどうにも抑えが効かなくなる。

 気にしないように意識して仕事に没頭しているつもりでも、視界に入る彼女の動きすら気になる。と、彼女の机の電話が、外線か内線かはわからないが鳴った。

「企画室、雪村です」

 電話を取る彼女の声に、全身が耳になったような感覚に襲われる。

 彼女の方を見ないようにしながらも視界の隅に映していると、彼女が一瞬、息と言葉を飲んだような反応の後、目だけでぼくの方を確認し、そして周囲を窺うように視線だけを動かしたのがわかった。そして電話の相手に対して返事だけをしている。その様子は、敢えて自分の方からは話さないように会話をしているように聞こえた。

 電話を切った後も特に何も言うことはなく仕事を続けていたが、一段落したのだろう、片づけて帰宅の用意を始めた。

 その時、ぼくの携帯電話にメールが入った。確認すると片桐課長からだ。今日は現地からの連絡待ちで、これから食事に抜ける、と書かれている。折り返しを電話にしようとしたところで雪村さんに声をかけられた。

「藤堂主任。お先に失礼します」

「お疲れさま。気をつけて」

 彼女は会釈して扉の方に歩いて行った。さっきの様子が気になるが。意識を彼女に残しながら、片桐課長に電話をかけるとすぐに応答があった。

「片桐だ」

「課長、藤堂です」

「ああ。今から出れるか?」

「はい。今、一段落つけました」

「じゃあ、入り口で」

 手短に言って電話を切り、社の入り口に向かう。

 ぼくが入り口に着くと、課長は既にホールで待っていた。

「課長!お待たせしました」

「いや、おれの方こそ誘っておいてすまないな。抜けるだけだからあまり時間がなくて。とりあえずメシでも食おう」

 社屋を出て近くの食事処に入る。曜日なのか時間帯なのか、数人の客しかいない。定食を頼むと、さっそく課長が朝の続きを話し始めた。

「村瀬のことだが。国内営業部のことだし、おれもよく知らなかったんだが。何年か前に、村瀬の部下と言うか後輩か……のひとりが、ノイローゼだか鬱だかになって退職したことがあるらしい」

「ノイローゼ……ですか」

 何となく食欲がなくなりそうな話のような気がする。

「ああ。それがな……ま、この辺は確実とは言えないが、どうも雪村さんが間接的に関わっているらしいんだ」

「雪村さんが?どういうことですか?」

 訊いてから、ぼくの胸に変な予感が走った。まさか。

「今、きみが考えている通りだと思う。その男は雪村さんに熱を上げたんだ。それはもう熱烈に恋慕していたそうだ」

 やはり。だが彼女のあの超絶的な美しさから察するに、そんな男が何人いても不思議ではないだろう、とも思う。

「ま、結果は言わずもがな、だ。それだけならただの失恋話で終わったはずなんだが、困ったことにそれだけでは終わらなかった」

「いったい……」

 課長の顔つきが変わる。

「その後、営業のノルマに耐え切れなくなった男は、精神的に追い詰められた挙げ句、身体にまで変調を来たし、結局退職したそうだ」

「でも、それは雪村さんには何の責任も……」

「まあな。惚れた腫れたも失恋も仕方がないことだ。恐らく村瀬もその時点では雪村さんに対して恨みなど抱いてなかっただろう。だが運が悪いことに……」

 課長は少し間を置き眉根を寄せた。

「忘れた頃になって、雪村さんが企画室に異動になった」

「……え?」

 それがいったい村瀬の恨みと何の関係があるのか、ぼくにはよくわからなかった。不思議そうなぼくの様子を見た課長は苦笑いのような表情を浮かべる。

 次の言葉を待っていると、ちょうど注文した食事が運ばれて来た。しかし課長は箸に手をつけずに話を続けた。

「きみにはあまりない感覚だろうな。ま、おれもどっちかと言えば少ない方かも知れないが」

「何がですか?」

 課長はおれの顔をじっと見つめ優しく笑った。

「嫉妬……いや、妬みだよ」

「妬み……ですか。ぼくだって嫉妬くらいしますが……」

 そう答えると課長は首を振り、

「そんなレベルのものじゃない。憎しみや恨みに近い感覚だ。そこまで思う相手、あんまりいないだろう?」

「まあ……好き嫌いレベルや苦手レベルならそれなりにありますが、憎いということになると……いなくはないと思いますが、パッとは浮かびませんね」

「そこがきみのいい所なんだがな」

 何だか微妙に褒められた気がしない気もするが、それよりも意味がわからないままだ。

「それが雪村さんの異動と何の関係があるんですか?」

「これはもう、逆恨みみたいなもんだがな。彼女が企画室に異動になったこと自体への妬み、そして専務との不倫の噂……つまり実力ではなく楽に出世の階段を上がったという勘違い、そのために下っ端の営業など歯牙にもかけなかったという勘違い。全てが村瀬にとってはパズルのピースのようにハマってしまったんだろう」

「そんな……」

 それ以上、言葉が出て来なかった。いくら何でも、そんなことで、たったそれだけのことで、あんなことを……としか、その時のぼくには思えなかった。

「当時の村瀬は北関東に出ずっぱりで総合部との接点もなく、仕事に関しての雪村さんの話などよく知らなかったんだろうな」

 課長はそこまで話すと、ようやく冷めかけた食事に箸をつけ始めた。つられて箸を取るが、やはり食欲が出ない話になってしまった、と心の中で苦笑いする。

「藤堂。理不尽だと思う気持ちはわかる。おれだって、おいおい、と思うからな。だが今回は、とにかく先走って動くな。彼女の周りにだけ気をつけておいてやれ」

「……わかりました」

 食事を終え、店の前で別れ際。

「また何かわかったら連絡する。きみも何かあったら必ず言えよ」

「はい」

 念押しして課長はそのまま社に戻って行った。ぼくは駅に向かって歩き始めた。その時。

 人通りの途切れる狭い道。一軒の店の前に、車が一台停まっているのが目に入った。いや、正確には車自体ではなく、運転席にいる男だ。薄暗くてよく見えない。見えないのだが。

「……専務?」

 ぼくは呟いた。シルエットが似ているような気がする。近づいて確認しようとしたぼくの足は、店から出て来て車に乗り込もうとする人影を見て動かなくなった。

 暗がりでも見間違えるはずのない、その姿を。

「……雪村さん……」

 無意識に洩れ出た声は、走り去る車の音に掻き消された。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 

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