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声をきかせて〔第14話〕

 
 
 
 金曜日の朝。ぼくはいつも通りに出社した。昨日のダメージは片桐課長と今井さんの激励のお陰で、ほぼほぼ緩和できていたのがありがたい。

 それよりも心配だったのは雪村さんの方だった。普通に出社して来るのか。そして、ぼく自身にしても、どんな顔で会えばいいのか。と言うよりは、いつも通りの顔でいられるのか。

 企画室に入るといつも通り皆が挨拶をしてくれる。しかし、雪村さんの席に、彼女の姿は見えなかった。

「雪村さんは?」

「あ、珍しくまだみたいです」

 武藤くんからの返事に「やはり」という気持ちが隠せない。今まで何があろうと、動じた様子を一切見せなかった彼女だが、昨日の動揺はただ事ではなかった。あの時のぼくに、すぐに追いかけるくらいの余裕がなかったことが情けない。

 それでも心配で、帰りのタクシーの中から電話をかけてみたけれど。電源は入っていたようだが応答はなく、仕方ないので留守電を入れておいた。が、結局、返答もないままだ。

 彼女はご家族と一緒に暮らしているはずだから、夜、帰宅していない、と言うことはないはずだ。仁志氏のことだから、彼女が帰宅しなければ恐らく専務を通じて連絡してくるだろう。

 そうこうしている間に、連絡がないまま始業時間が近づき、さすがに他のメンバーが心配し始める。こんなことは今まで一度もなかったから当然だろう。

「途中で何かあったんでしょうか……」

 ついに始業時間を過ぎて、誰に言うともなく、野島くんが不安気に呟く。

「野島くん。明日の準備はもうほとんど大丈夫かな?」

「あ、はい。明日の決定会で使う資料は昨日のうちに仕上げて、もう大体確認して戴きましたから」

「うん。じゃあ、ちょっと雪村さんと連絡を取ってみてくる。場合によっては様子を見に行くことになるかも知れないから、もし何かあれば連絡して」

「はい。わかりました」

 ぼくの言葉に、少しホッとしたような顔を浮かべた野島くんが頷く。

「事故とかじゃないといいですけど」

「うん。大丈夫だとは思うけど……具合が悪くなってたりしたら困るからね」

「そうですね」

 ぼくは野島くんに後のことを頼み、まず永田室長のところに向かった。

「室長、よろしいですか?」

「うん?どうしたんだい?」

「雪村さんがまだ出社して来ないんです。室長のところにも連絡は入っていないでしょうか?」

「いや~入ってないよ。連絡があるとすれば、たぶん藤堂くんの方に入ると思うし……」

 やっぱり室長にも連絡はないようだ。

「では、これから連絡をしてみて、応答がないようなら様子を見に行っても構いませんか?交通機関の遅れであれば良いのですが、連絡もないなんて、こんなことは初めてなので念のため……」

「ああ、そうだな。明日のこともあるし、藤堂くん、頼むよ」

「はい。後のことは野島くんに頼んでありますので」

「うん、わかった。頼んだよ」

 執務室を出て、ぼくは再度、雪村さんに電話をかけてみた。呼び出し音は聞こえるが応答はない。ご家族に連絡を取ってみるべきか。とりあえず、彼女の自宅の方まで行ってみることにした。

 社屋を出て駅に向かう。タクシーも考えたが、出社途中でのアクデントもありえないことではない。急ぎ足で歩いていると携帯電話に着信が入った。雪村さんかと思い、慌てて取り出して見るが、画面には名前ではなく番号が表示されている。と言うことは登録されていない相手と言うことだ。

「はい」

 番号が表示されたので一応は出てみる。

『藤堂くん?突然、ごめん。護堂仁志です。今、話しても大丈夫かな』

「……!……護堂副社長!」

 すごいタイミングで仁志氏からの電話が入った。このタイミング、正直、嫌な予感しかしない。

『礼志から教えてもらったんだ。勝手にごめんね。ちょっと急いできみにも話しておきたいことがあって……』

「いえ、とんでもないです。あの……」

 仁志氏の話し方は、ぼくが恐れていたような内容ではないようだ。で、あるとすれば、いったい何があったのだろうか。

『うん、実はね。先日、話したゴシップ関係の記者の件なんだ。あ、そちらの社員の村瀬……さん?の話は聞いてるかな?』

「はい。片桐の方から一応。詳細は聞いていないのですが、話がついた、とだけ……」

『うん。礼志が直接、退職したと言う村瀬氏の後輩の人に会いに行ってくれてね。その彼から直接、村瀬氏に話をしてもらったんだ。とりあえず、それで誤解は解けたらしい』

 専務が直接……そうだったのか。ではゴシップ誌の方と言うのは……。

『実は記者の……高田って人なんだけど、ちょっと拗れてるんだ。それで、そっちに行くようなことはないと思うけど、念のため、と思って……』

 仁志氏のこの言葉で、雪村さんが昨夜は普通に帰宅し、今朝も自宅を出たことをぼくは悟った。ならば……さらに嫌な予感しかしない。

「副社長。申し訳ありません。実は雪村さんから連絡がないまま、まだ出社していないのです」

『えっ!?今朝も普通に……いつもと変わらずに家を出たはずだ!』

「交通機関の遅延であればいいと思っていたのですが、まったく連絡がないことが気になって……途中で体調が悪くなったことも考えて、今から電車でそちらに伺うつもりで移動していたところです」

 仁志氏が動揺している様子が伝わってくる。が、正直ぼくも他人事ではない。心が逸る。

「とにかく、途中の駅で確認しながら移動したいと思います」

『うん。ぼくも自宅にいるようにするよ。心当たり……がある訳じゃないけど、探させてみるから。礼志からきみの携帯にぼくのメールアドレスを送るように頼むから、何かあったら連絡してほしい。もちろん、電話でも構わない』

「わかりました」

『……藤堂くん。ありがとう。頼む』

 仁志氏の声が揺れる。同じ気持ちを抱えながら、ぼくは改札を抜けて、彼女の家に向かう電車に飛び乗った。程なくして、専務から仁志氏のメールアドレスが送られて来る。一緒に高田という男の簡単な情報も。

 途中の駅で、駅員に具合が悪くなった人の情報がないか確認しながら移動したのだが、該当するような人はいない様子だった。それはそれで安心するも、では、いったい雪村さんはどこへ行ってしまったのか。

 自分の意思なのか、それとも、何かのトラブルに巻き込まれたのではないか。どちらにしても心配が拭えるものではない。

 彼女の最寄り駅まで着いた時点で仁志氏に電話をしてみる。彼からの連絡も入っていないところを見ると、特に何か進展があったとは思えないが、きっとぼくからの連絡を待っていることだろう。

『はい、護堂です。藤堂くん?』

「はい。今、最寄り駅まで来たのですが、それらしき人は途中の駅でもいないようでした。雪村さんからの返信もありません」

『ぼくも連絡してみたんだけど返事はない……。いったいどうしたんだろう。……とにかく駅まで迎えに行くから。少し待っててくれる?』

「いえ、こちらから歩いて向かいます。確か大した距離ではなかったように記憶してますので……」

『わかった。外まで出て待っているから』

 仁志氏のその返事を聞きながら、ぼくは改札を出て既に歩いていた。前にタクシーで送って来た時は近くで撒かれてしまったのだが、住所から大体の場所は把握出来ている。

 記憶通りに道を辿り、近くまで行くと道端に立っている仁志氏が目に入る。彼はぼくに気づくと手を振ってくれた。

「藤堂くん!わざわざありがとう!」

「いえ、あの……」

 ぼくは昨日のことも含めて説明した方がいいと思い、口を開こうとすると、それを遮った仁志氏が、

「藤堂くん、とりあえずこっち」

 そう言って、ぼくを脇の細い通り道に誘導した。その道の奥には小さな扉があり、どうやら裏口のようになっているらしい。それも護堂家とは繋がっていないかのような造りになっている。やはり護堂家ともなると、出入りにカムフラージュが必要なこともあるのだろう、と雪村さんの状況が現実味を帯びたように感じ、内心、複雑な気持ちだった。

「ごめんね。こんな隠れるみたいに」

「いえ。高田という記者との関係が拗れているのであれば当然かと……」

 ぼくのその言葉に、

「……ん。まあ、ちょっと……それだけじゃなくてね。ごめん、後で詳しく説明するから」

 仁志氏は少し困ったような表情を浮かべ、意味深な言葉を放った。そのまま応接室に通される。

 ぼくは、そこで仁志氏に昨日の出来事を全て話した。そして昨日のうちに連絡をしなかったことを詫びた。

「いや。話してくれてありがとう。ぼくはきみの行動は間違っていないと思ってる。静希の心の殻を壊すには、それくらいしないとダメだと思うから」

「しかし、些か焦り過ぎた、と反省しています」

 ぼくの言葉に仁志氏は首を振る。

「違うよ。きみが焦ったから、ではない。きみ相手だったから、だと思う。きみが……きみ相手なら静希がそこまで感情を顕にするんだ、と知って少し安心した。きっと他の人間では、同じシチュエーションでも……」

 そう言い、さっき言いかけたことを口にした。

「実はね。静希が隠していることって言うのは、ぼくと家内、お義父さんは知っているんだけど一花さんは知らない……知らせていないんだ」

「えっ。……それは……」

「だから、静希が出社していないこと、とかも今の段階では話したくない。いや、出来れば一花さんには静希の秘密を知られたくないんだ」

「……………………」

 実の母親にだけ話していない秘密とは、いったい何なんだろう。ぼくの胸の中で、不安がますます膨れ上がる。

「お義父さんたちと相談してそう決めたんだけど……まさか、あの時は静希がここまで頑なになるとは思っていなかったから……」

 仁志氏はひどく後悔の色を滲ませた。

「藤堂くん。ぼくは……ぼくは後悔している。こんなことになるなら、最初からきみに全て話しておけば良かった、と。強引にでも、無理やりにでも、と頼んだのはぼくの方なのに……」

「え……」

「その上で、きみにその事実を受け入れてもらえなかったなら、逆にそれはそれで、その時点で収まったように思う。それを本人から聞いてもらおうなんて、ぼくが悠長なことを考えていたばかりに。あの子にしてみれば、きみにだけは言いたくなかっただろうこと……こんなに長い間あの子を見て来たのに読めていなかった……」

 仁志氏の深すぎる後悔の念に、ぼくは何て言えばいいのかわからなかった。黙って聞いていたぼくは、思い立ったように顔を上げた仁志氏の目に射抜かれた。

「藤堂くん。今さらだけど、静希の秘密を聞いて欲しい。もう、手遅れかも知れないけれど……」

「そんなことはありません!絶対に!」

 思わず出たぼくの言葉の勢いに、仁志氏が驚いて目を見開く。

「ぼくも、本来なら彼女から、彼女の口から全てを聞きたいと思っていました。彼女の方から話して欲しいと。ゆっくりと彼女の心を開きたかった。でも高田という男が動いている以上、猶予がありません」

 仁志氏は目を見開いたままぼくの言葉を聞いている。

「……教えてください。彼女が隠していることを」

 ぼくを見つめる仁志氏が息を飲むのがわかった。

「……例え、それがどんなことであっても。ぼくの気持ちは変わりません」

 仁志氏の口元が緩む。

「どんなことであれ、彼女に大切な男がいる、と言われるより数万倍マシです」

 泣きそうな笑顔を浮かべ、仁志氏は頭(こうべ)を垂れた。しばしの沈黙の後。

「話すよ。全て。ぼくの知っていることを」

 仁志氏は顔を上げ、言いにくそうに口ごもってから、覚悟を決めたように切り出した。その事実を。

「……藤堂くん。静希にはね。……その……」

 ぼくは身構える。心の準備は出来ていた……が。

「……子ども……がいるんだ」

「……え……?」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。思考力が停止する。言葉が出ないぼくに、仁志氏が呟くような声で続ける。

「静希は……子どもを産んでいるんだ。男の子を……」

「子……ども……?」

 何とか思考力を取り戻す。別に世間的に見て、珍しい話ではない、が……。

 ぼくの沈黙に、仁志氏が不安そうな目を向ける。だが逆に仁志氏のその視線で、思考力が急激に回復するのを感じた。どんなことであれ、彼女に大切な男がいる、と言われるよりマシであることに間違いはない、その事実を思い起こす。

「……大丈夫です。確かに驚きましたが。先ほども言いましたが、今、大切な男がいる、と言われるより遥かにマシです。副社長のお話から察するに、そう言った相手はいない、と考えて良いのだと思いますので。ですが、気になるのは……それをどういった経緯で隠しているのですか?彼女が結婚した様子がないところを見ると……」

 そこまで言ったぼくの脳裏にある推測が浮かび、言葉が途切れてしまった。

 ……まさか。

 ぼくの表情から読み取ったのか、仁志氏が慌てて首を振る。

「藤堂くん。違う。あの子は道ならぬ相手との子どもを産んだ訳でも、誰かに無理やり……乱暴された訳でもない。それだけは違う」

 その言葉にホッと息を吐き出した。せめて、そんなことだけはあって欲しくない。彼女に子どもを産むほどの決心をさせる男がいた、と言うのは複雑ではあったが、話の流れからして、今、その男との関わりがあるとは思えない。

「結論から言ってしまってごめん。ちゃんと……順を追って話すよ」

 仁志氏は記憶の束をかき集めるようにゆっくりと話し始めた。

「静希の幼なじみに大病院の息子がいたんだ。啓吾(けいご)くん……だったかな。彼は静希とは幼稚園から一緒で、ぼくたちから見てもとてもいい子だった。少しおとなしいけど、優しくて、頭の良い、可愛い子だった。その頃から彼が静希に好意を寄せているのは、周りが見ていてもわかるくらいで……微笑ましかった」

 まさか、幼稚園時代の話まで遡るとは思っていなかったので、一瞬、面食らう。

「二人が成長するにつれ、彼がどんどん静希に夢中になって行く様が見てとれた。別にそれ自体は問題ではない。自然の流れだと思う。ただ、静希の方は……あまりその気がなかったようだけど」

 そう言って仁志氏は苦笑いした。きっと、二人が恋に落ちれば両家にとっては申し分のない組み合わせ、だったのだろう。しかし、この場合、ぼくにとっては幸いだった、と言っていいのだろうか。

「中学生になる頃には、彼が静希に思いを寄せる様子はもう一生懸命としか言いようがないくらいで。静希は気持ちに答えられないことを申し訳ないと……思っていたんだろう。たぶんね。仲が悪くなった訳ではないだろうけど、あまり彼と行動しなくなっていった」

 寄せられる思いに答えられないことは、確かに申し訳ない、という気持ちを生むことがある。それは、ぼくにでも経験があるから。与えてもらった分を返せないと言うのは、意外と辛いことだ。

「そんな、ある日。二人の関係を変えることが起きた。たぶん、それが全ての始まり……きっかけだったのだ、と思う」

 ぼくは息を詰めた。いったい、二人の間に何が起きたのか。

「その彼……啓吾くんは頭もいいし運動神経も良かったけど、あまり丈夫な子ではなかったみたいで。ある日、学校で体調不良を起こして倒れたらしい。だけど、その時は特に問題はなかった。自分で歩いて帰ったそうだから。ところが……」

 仁志氏は少し眉根を寄せた。

「その後、頻繁に体調不良を起こし、ついに検査をすることになった。もちろん彼の家は大病院だからね。しかも大切な息子のことだ。きっと詳しく調べたんだと思う。そして、彼の体調不良の原因が判明した。彼が患っていたのは……白血病だった」

 そこまで聞いた時、ぼくはその『啓吾くん』の現在のことが気になって堪らなくなった。

「あの……その彼は、今は……」

 ぼくの問いに、仁志氏は目を逸らしながら、

「彼は亡くなったんだ。まだ16歳にもならないうちに」

 辛そうに言った。

 と言うことは……どう言うことになるのか。彼が雪村さんの子どもの父親、と言う話ではないのだろうか。

「彼には最新の治療を施されたに違いない。でも……助からなかった。静希は、せめて力づけようと、週に何度もお見舞いに行っていた。ぼくか家内がその時に……ついて行けば良かったんだけど……」

「え……」

 仁志氏の表情が、目に見えて暗い影を帯びた。近くの病院に入院している幼なじみのお見舞いくらいなら、ひとりでも問題はないのでないのか、と思うぼくに仁志氏が続ける。

「しばらくして、ぼくたちは静希の様子がおかしいことに気づいた。何となく落ち着かないと言うか、あの子にしては珍しくそわそわしていると言うか……」

 そこまで言って、仁志氏はぼくにお茶を勧めてくれた。知らないうちに口の中がパサパサに渇いていたことに気づく。

「それを見過ごしているうちに……よく見ていなければわからない程度の変化が、さらに静希に起きていた。そんなに大きな変化ではない。でも、どこか、何か、いつもと違う……そんな違和感だった」

 仁志氏の表情はさらに深刻さを増し、声を発するのも辛そうだった。

「最初にそれと気づいたのは家内だった。女の勘……とでも言うのかな。ある日、静希と話そうとしたらしい。その時、家内も初めて見るほどの拒否反応を示された……と。仕事から帰宅したぼくに、ものすごく狼狽えた様子で訴えてきた。家内の狼狽ぶりも初めて見る勢いだった」

 雪村さんにとっては、実の母よりも姉の方が母に近い状態だったことを窺わせる仁志氏の話。お母さんは雪村さんの変化に気づいていなかったのだろうか。

「それで……今度はぼくが静希と話すことにしたんだ。普通は女性同士の方が色々と話しやすいと思うんだけどね。あの子にとっては、血縁関係にないぼくの方が話しやすいことがあるらしくて……」

 苦笑いしながら仁志氏は言った。きっと、彼だって思春期の女の子相手では話しにくいことも多かっただろうと推察できるが……。

「ぼくが夜、あの子の部屋に行くと、当然、最初は躊躇っていたけど何とか説き伏せて。そしたら、家の中では家内たちに聞かれるから嫌だ、と。それで護堂の書斎の方に移動して……この部屋で話したんだ」

「この部屋で……」

「静希に、何か隠していることがあるだろう、って訊いたら、途端に顔色が真っ青になって……膝の上で握っていた拳が震えていた。まるで何かに怯えるように」

 昨日の夜と同じだ。ぼくにはその様子が容易に想像できた。

「静希は拳を握り締めたまま俯いて、絞り出すようにぼくに “ごめんなさい、義兄さま” と……」

 仁志氏は両手で口元を覆った。視線が固定されたまま全く動いていない。必死で動揺を抑えているようだった。

「……その時、静希は既に妊娠していたんだ。自分でも考えなしにとんでもないことをしてしまった、と……」

 言葉が出なかった。と、言うことは……。

「ぼくも正直、慌てた。だけど、どうしようもないくらい動揺しているあの子にそれを見せることは出来なくて……何とか自分を保ちながら確認だけした。まず、誰かに無理やり乱暴された訳ではないのか、と言うこと。そして、そうでないなら相手は誰なのか、と言うことを」

 ぼくも口元を抑えながらじっと聞き入った。

「静希は乱暴された訳ではない、とはっきり言い切った。そして、相手のことを言い淀んだ。でも聞かない訳にはいかないから、何とか問い詰めたら……」

「………………」

「父親は啓吾くんだ、と」

 ぼくは目が拡大したような気がするほど見開いていた。まさか、本当にその彼が父親だったとは。

「でも、ぼくはそこで疑問に思った。彼はもう自分ひとりでは立ち上がることも出来ないくらい衰弱していたんだ。それはぼくも家内と見舞いに行ってるから間違いない。だから……彼が静希と……その、関係を持てるとは到底思えなかった」

「……と言うことは、他に誰かいる、と?」

「いや、それはないと思った。それなら啓吾くんの名前を出すようなことはしないだろう。そう思ってさらに問い詰めたら……」

 仁志氏は双眸を強く閉じて眉間をしかめた。

「全く非合法な……人工的な処置だよ」

「人工的な……って」

 人工受精。その言葉が脳裏に浮かんだが、言葉に出すことは出来なかった。

「彼の家は大病院だからね。可能だろう……恐らく。だけど、全てを隠蔽するために、その後はこちらからも一切コンタクトを取っていないんだ。向こうにしてもバレたら困る話だろうからね。敢えてこちらに関わっては来ないよ」

 ぼくは、これで全て納得が行った気がしていた。何故、彼女があれほどに隠したがっていたのか。あれほど、知られることを恐れていたのか。あまりに重すぎる過去。

「では、雪村さんが産んだと言う子どもは、今……」

「うん。それでぼくは義父と相談して、あの子を留学の名目で海外に行かせることにした。ぼくが出張の名目で、家内や子どもを連れて一緒に行くことにして。帰って来る時は、家内が自分の子どもとして抱いて来ることにしたんだ。だから、ぼくの次男、と言うのが静希が産んだ子どもなんだよ」

「そのことを、雪村さんのお母さんもご存知ないってことですか?」

「そう。一花さんは絶対に海外には行かないと踏んでいたから。一花さんにも周りにも、隠すためにはそれが一番良かったんだ」

 彼女は自分の立場を弁えすぎていて、実の母親にさえ、そんな重要なことを話せない状態に陥っていたのか。昨夜の彼女の狼狽えた様子が脳裏にまざまざと甦る。

「藤堂くん。これで全部だ……ぼくが知っている事実は。ただ、ぼくたちには、事実以外のこと……あの子の本当の胸のうちまではわからない。決して、明かしてくれなかったから……」

 寂しそうに言いながら、ぼくの気持ちが揺らぐことを恐れているのだろう……仁志氏はぼくの顔を不安そうに見上げた。

「……話しにくいことを……ぼくを信用して、全て話してくださってありがとうございます。彼女の心のうちは、彼女に直接訊きますので、ご心配は無用です」

 その言葉に、仁志氏は目を潤ませながら深く一礼した。

「あの子がね……学校や会社の人がどう言う人だなんて、そんな話なんかしたことなかったあの子が、初めて、ほんの少しでも話してくれたのがきみの話だったんだ」

 仁志氏は表情を緩めて話し出した。

「雪村さんがぼくのことを……?」

「うん。それでぼくはきみにすごく興味を持ったんだ。どんな人だろう、って。あの子の言った通りだったからびっくりした。でも、あの子が言った中で一番印象に残っているのが “しんどそうな人” って言う言葉だったのがおかしかった……」

 ……と、その時、仁志氏の携帯電話が鳴った。

「護堂です」

 電話に出た仁志氏が、立ち上がって机のところに移動する。返事をしながら何やらメモを取っているようだ。「引き続き、頼みます」そう言って電話を切ると、再びこちらに戻り、ぼくに向かって言う。

「高田記者の姿を見失ったらしい。静希と直接接触することだけは避けたいが……」

「雪村さんか行きそうな場所に心当たりはありませんか。思い出の場所とか……」

「……前にも言ったように、あの子はぼくたちにはあまり自分を見せてくれなかったんだ。だから、お恥ずかしい話なんだけど、そう言ったことに全然心当たりがなくて……」

 仁志氏が申し訳なさそうに言う。

「わかりました。恐らく、彼女の行動範囲はそんなに広くないと思うんです。社の周辺から探して見ます。何か思い当たることがあれば連絡を戴けますか」

「わかった」

 ぼくは頷いて立ち上がった。

「……行きます」

 
 
 ぼくは再び、社の方向に戻ることにした。きっと、それほど遠くないところに彼女はいる。根拠はないが、何故かそんな気がしていた。

 彼女はきっと待っている。そんな確信にも近い思いを抱きながら、ぼくは駅に向かって走り出した。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 

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