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課長・片桐 廉〔5〕~混迷編

 
 
 
 今井さんとの食事は、今夜で五回目になる。

 いいかげん、何らかの結論……を出さなければ。このまま、ただ、ズルズルと誘っているだけ、というワケにはいかない。

 それなのに。彼女との時間の心地好さが、『何らか』などと言う生ぬるい結論ではなく、わかり切っている、決まり切っている決断を鈍らせる。

 手放さなければならない、という決定的な思いと、手放したくない、という切望と。

 その迷いの間を行ったり来たりしている。

 本来ならば、一回限りで終わらせるべきものだった。それを引き延ばしてしまったのは、おれの責任。

 だが、ここに来ておれを迷わせているのは、半分は変な競争心もあると思う。ある人物の出現が、変なところでおれの闘争心を煽ったのだ。

 その人物━。

 それは、北欧担当の北条真斗。

 彼の出現が、今のおれを迷わせる最大の原因になっていた。

 事の発端はほんの数日前。

 たまたま社食で、北条が今井さんに話しかけ、同じテーブルに座るところに遭遇したことだった。それ自体は別段、どうと言うことでもない。誰だって空いている席に座るわけだし、知り合いの傍を優先的にすることにも不思議はないのだから。

 ……なのだが。

 目についたのは他でもない、北条の今井さんに対する態度。そして彼女を見る目。

 今まで感じたことのない雰囲気。見たこともないような目。

 どこがどう……と言われると説明のしようがないのだが、勘、とでも言えばいいのだろうか。何となく、おれの心をざわつかせた。

 つい、そちらに気をとられていると、それを知ってか知らずか、朽木が二人の座っているテーブルに向かっておれを促す。

「課長。今井先輩と北条先輩のとこ空いてますよ。行きましょう」

 おれが止める間もなく、朽木はトレーを持ってスタスタと歩いて行く。

「今井先輩、北条先輩、お疲れさまです。ここ、いいですか?」

「お疲れさま。どうぞ」と今井さんが答えるのが聞こえると、

「ほら、課長!空いてるそうですよ」

 朽木がおれを呼びながら、今井さんの隣にトレーを置いた。

 今井さんがおれの方を見て、本当に微かに口元を緩めながら(彼女は仕事中はいつもそんな感じ)、「どうぞ」と言うように会釈する。すると、今井さんの向かいにいる北条が隣の椅子を引きながら、「片桐課長、どうぞ」と促してくれた。

 仕方ないので「サンキュ」と言って北条の隣に座る。北条もかなり背が高く、朽木とおれと男三人は長身組で何となく圧迫感のあるテーブル。

 だが、その圧迫感は物理的なものだけではない……気がする。……おれにとっては。

 その、何だかわからない圧迫感に窮屈さを感じながらも気づかないフリをし、手を合わせて食べ始めた。

 今井さんと食事をしてから、何となくクセがついたらしい。もちろん、特に丁寧に合わせるワケでも、まして「いただきます」なんて言葉に出すワケでもない。

 本当に、ただ一瞬、手を合わせるだけ、ではあるが。

「課長と社食でお会いするなんて珍しいですよね」と北条。

「あぁ。ほとんど週の半分以上は来ないからな。時間もまちまちだし」

 食べながら適当に答える。いや、本当のことではあるのだが。何故、社食に来ないかって、かなりの確率で専務に掴まるから来れないのだ。メシくらい気楽に食わせてくれ、と言うのが正直なところ。

「ところで、課長は今回の企画、どうなると思われますか?」

 北条は欧州部ではトップの成績を誇る。やはり企画のことは相当気になっているようだ。

「まだはっきりとは言えないけどな。この間の打ち合わせで聞いた限りでは、まだ納得いかない……リスクの方が大きすぎる」

「……ですよね」そう言って北条も考え込んだ。

 ……と、その時。

「今井先輩」

 今まで黙って食べていた朽木が、いきなり今井さんに話題を振った。

「へ?」

 今井さんがモグモグ食べながら、朽木の方に上目遣いの視線を向ける。

「今井先輩って彼氏いるんですか?」

 「「「ごふっ!」」」

 今井さんと北条とおれが同時にむせた。

 こ、こいつ、命知らずだ……。おれはむせながら片目で朽木を見やる。しかも、この脈絡のなさ。南原さんや東郷といい勝負かも。

 横を見ると、北条はハンカチで口を押さえながら、顔だけは普段通りの顔をしている。大した鉄面皮だ。だが、朽木の今井さんに対する質問に、むせる程度の反応を示したことは間違いない。

 当の今井さんは、と言うと。

 確かにむせた……はずなのに、微かに笑いながら「さあ?」と答えたかと思うと、もう平然とした体でモグモグ食べている。……さすがだ。

 それにしても朽木……恐ろしいやつ。

 その時、「じゃあ、おれはお先に失礼します」そう言って北条が席を立つ。

 今井さんが「お疲れさま」と北条に声をかけると、微かに笑いかけて出口へと歩いて行った。

「今井先輩」

 朽木が、まだ果敢にも今井さんに話題を振ろうとしている。いや、だが、おれは絶対に口を出さんぞ。出したら絶対にロクなことはないに違いない。

「ん?」

 今井さんは相変わらず食べながら返事をし、目だけを朽木に向ける。

「お気をつけて」

「へ?」

 今井さんだけじゃなく、おれもポカンとして朽木の顔を見た。

「……何を?」

 今井さんが不思議そうに訊き返す。

 朽木はチラリと今井さんの顔を見ると、出口の方、次いでおれの方を経由して視線をトレーに戻し、質問に答えないまま残っていた食事を食べ始めた。

「……………………」

 今井さんはしばらく朽木の横顔を凝視し、それからおれと少し目を合わせ、首を僅かに傾げてから食事を再開する。

 おれも何が何だかわからず、やはり首を傾げてから再び箸を動かし始めた。

 それから2~3日経ったのか……そんなことも忘れていた、つい昨日のことだ。

 おれが営業部の入り口辺りで立ち話をしていた時。

 北条がアジア部のシマに近づき、今井さんに話しかけるのを、おれは相手の肩越しに見ていた。

 片手を机につき、座りながら話している今井さんに屈み込むように話しかける北条の、その様子。それが社食でのことを一気にフラッシュバックさせた。知らず知らずガン見している自分。

 今井さんが何かを確認しようとしているのか、北条から目線を落とした。

 ━その時。

 北条の視線がおれを捉えたのがわかった。

 目が合った瞬間。どう表現すればいいのか。

 ヤツの視線は、明らかにおれを攻撃していた。いや、攻撃、と言うか……挑発、とでも言うのか。

 北条にしては珍しいくらいにストレートな感情の露出。

 おれがワケもわからずにその視線を受けていると、微かに、本当に微かに、口元に浮かんだ笑み。酷薄な。

 その後、北条は何もなかったかのようにいつもの様子に戻り、再び、今井さんと話を続けていた。

 そして、おれの話が終わるのを見計らったかのように、ヤツはおれのいる入り口の方に歩いて来る。

「片桐課長、お疲れさまです」いつもと変わらぬ挨拶。

「……おつかれ」おれも同じように返す。

 ……が、すれ違う、その瞬間。

「おれはあなたに負けたくない。絶対に超えて見せますよ。仕事も……」

 『仕事も』の後はよくわからなかったが、おれにしか聞こえない程度の声で、間違いなくそう言った。

 遠ざかる北条の気配を背中で感じながら、おれは自分の心がワケのわからない焦りと、そして闘争心に煽られているのを確かに感じていた。

 そして今日、だ。

 今夜は今井さんにリクエストされた店に行くことになっていた。彼女も行ったことはないそうなのだが、以前から気になっていたらしく、ならば、と行ってみることにしたのだ。

 仕事上がりに駅で待ち合わせて電車で向かう。

 途中、おれが住んでいる町の最寄り駅を通過した時に、電車の中からそのマンションが見えたので「あれがおれの住んでるマンション」と言ってみたら、意外と食いつきやすい話題だったらしく、

「え、え、どれですか?あ、あの建物ですか?わぁ~素敵~。何階なんですか?」

 扉に張り付いて眺める姿は小さい子どものようだ(子どもにしては背が高いが)。

「15階建ての11階。エレベーターが止まるとしんどいレベル。……特にセキュリティも強化されてない普通のマンションだよ」

 その子どものような姿に笑いながら答える。

「11階じゃエレベーターがないとキツそうですね。でもあそこなら眺めが良さそう」

「そんなに眺めたりしないけど、悪くはないかな。最初、一番上を勧められたけど……ま、寝に帰るだけだからな」

 帰れない時もあるけど、などと心の中で愚痴りつつ。

「お休みの日とかくつろいだりしないんですか?」

 おれのその言葉に振り返り、不思議そうに訊いてくる。

「くつろぐ……ってほどのこともないな。もちろんボケ~と休んだりはすることもあるけど。大抵、家でも仕事絡みのことしかしてないから……」

 言ってから、『うっわ!すっげーつまんない男だな、おれって』と心の中で苦笑いする。彼女に指摘されるまで気づきもしなかったことがさらに痛い。

「課長って……」

 今井さんがおれの顔をじっと見ながら何か言いかける。

「ん?」

「……いえ、何でもないです」

 おれは彼女のその言葉の続きを聞きたかったのだが、ちょうどその時、目的の駅に着いてしまった。

 いや、聞かない方がいいか。「つまんないですね」とか彼女に直球で言われたら、今のおれは簡単にヘコむだろう。

 それもあり、結局、聞けずじまいで電車を降りる。

 駅から少し歩いたところにある店は、しっとりとした雰囲気の小料理屋。ともすればオヤジさんの店『縒処(よりどころ)』に重なる雰囲気。おれの好みにドンピシャリの店だった。

「今井さん、こう言う店も来たりするんだ」

「私、気になればどんなお店でも拘りませんから。ここは、前に人から聞いて一度来てみたかったんです。課長はこう言うお店、お好きですか?」

「おれもそんなに拘るワケじゃないけど、こう言う雰囲気はドストライク。気に入ってる店もこんな感じの……」

 そこまで言いかけ、ハッとして言葉を止めた。

「そうなんですか。なら、良かったです」

 今井さんがやわらかい笑顔でおれの顔を見ながら言う。

 『縒処』のことを話題に出してしまうと、本当は最初の食事の時の候補として考えていたことまで喋ってしまいそうで。そうしたら、きっと彼女は興味を示すだろう。

 だが、その時点でのおれにも、当然、今のおれにも、個人的な馴染みの店に彼女を連れて行くほどの決意は出来ていない。なのに迷いを捨て切れずにいると、ふと、北条のあの挑戦的な目が脳裏に甦る。

「課長?」

 不思議そうに呼びかける声で我に返る。

「ああ、ごめん。そろそろ出ようか」

「はい」

 頷く今井さんと店を出て、タクシーを拾おうと大通りに向かおうとすると。

「課長。少し歩きませんか?」

 引き留めるようにおれの腕を掴んで今井さんが言う。

「ん?」

 店のことと言い、彼女からのリクエストは珍しい。

「ここから少し歩いたところで、ちょっとしたものが見れるそうなんです」

「ちょっとしたもの?」

「はい」

 返事だけで、それが何なのかまでは言おうとしない。まあ、行ってみればわかるのだろう、と思い、彼女に任せることにした。

 並んで歩いていると、つい彼女の横顔に目が行ってしまう。話さなくても、黙っていても、心地好い空気を纏う彼女といると、つい、気持ちが傾いてはいけない方向へと揺れそうになる。

 そんな気持ちをもて余しながら、店から数分歩くと、高台にあるワリと大きな公園に着いた。

 切り立った展望台のようなところに行くと、眼前に広がるのは静かな優しい光を称えた夜景。そして、向かいの高台には五山の送り火ではないが、ライトアップされた文字やら模様が浮かび上がっている。

「へぇ~。すごいな。こんなところで、こんなものが見れるなんて知らなかった」

「本当に綺麗」

 そう言って目を輝かせた今井さんは、

「私も人から教わって……見てみたかったんです。でも、そんな有名じゃないらしくて。あまりひと気がないって聞いたから、ちょっと、夜、ひとりで来るの怖いな、って。ちょうどあのお店と近かったから……すみません」

 食事のついでと言っては何だが、おれをつき合わせたことを正直に白状すると、ペロッと小さく舌を出した。

 こんなイタズラっぽい顔もするんだな。見ていれば見ているほど、仕事中には見せない、見れない顔をする。

「いや、お陰でおれもいいもの見せてもらったよ。でも、確かにこのひと気のなさじゃ、夜、女性がひとりで来るのは戴けないな」

 おれの言葉に嬉しそうに口元を緩めた。

 そのまま、おれの目をじっと見て数秒、その瞳の中に、何か……を湛えている。

 ……と、唐突に。

「ありがとうございました」

 その瞳が湛えているものを考えた瞬間、それは、その言葉を聞き、その意味を考えた瞬間と同刻。

 ━おれは。

 自分が、今日、この時、彼女に告げなければならないはずの言葉など忘れて……いや、正確には吹っ飛ばして振り切って。

 彼女の腕を掴んで引き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めながら、驚いて声をあげる間もなかったその唇を塞いだ。

 おれの腕の中に閉じ込められて硬直している、細い、けれど、確かな存在感を示すやわらかい身体。しっとりとしたやわらかい唇。

 強引に、押し開くようにおれが口づけを深めると、何故か……何故か、逆に彼女は唇をやわらかくほどき、おれの唇を受け入れた。と、同時に、身体の硬直もほどけて行き、しなやかに、さらにやわらかくなる。

 溶け合う呼吸の音だけが辺りに響く。

 終わりにするはずだった。今日こそ。なのに、おれはいったい何をやっているんだ。こんなことをして、今日で終わりになんて出来るはずもないのに。

 ずいぶん長い間そうしていたおれたち。

 遠くから人の声が近づいてくるのが聞こえ、離したくない気持ちを無理やり抑え込み、おれはようやく彼女を解放した。

 怒るでなく、拒絶するでなく、ただ、驚いたような、物言いたげな、不思議な表情でおれを見つめる彼女の瞳。

 おれの方がどうしていいかわからなくなる。だが、ひとつ、わかっているのは、ヘタな謝罪の言葉をここで言うべきではないこと……それだけだった。

「……帰ろう」

「……はい」

 彼女は何も言わず、おれの言葉に頷いた。

 大通りに出てタクシーを拾い、彼女の家の場所を告げる。

 無言の車内。もしかしたら運転手は、おれたちがケンカでもしているのかと勘違いしたかも、と思うくらいに。

 何故、おれは……。

 いくら考えても答えは出て来ない……いや、本当はとっくに答えなんて目の前に突きつけられているのに、おれが見ようとしていないだけだ、とも思う。

 それなのに決心がつかない。今井さんの瞳と、そして、北条のあの目が、おれの心を鈍らせる。おれは、もう特定の相手など作らないと、あの時に決めたはずなのに。

 そんなことを考えていると、直に彼女のマンションに着いた。いつも通りタクシーを待たせて入り口まで送る。

 何か言いたげに、でも、躊躇っている様子の彼女に、

「来週は仕事が入ってしまっているんだ。その次の週末……逢えるかな」

 今日のこの状態で終わらせるワケには行かない、おれが追い打ちをかけるように問う。

 驚いたように顔をあげた今井さんが、じっとおれの目を見つめ━。

「……はい」

 そう答えた。

「じゃあ、また、連絡する」

「……はい。ありがとうございました。おやすみなさい」

「おやすみ」

 彼女がマンションに入っていく。姿が見えなくなると彼女の部屋の窓を見上げた。

 待つこと数分。

 部屋に灯りが点る。そして窓が開き、いつも通り彼女がおれのことを見下ろしているのがわかった。

 おれはいつも、それを確認するとタクシーに戻って帰宅する。

 次に逢う時にどう切り出すべきなのか。どうするべきなのか。

 そんなことを思案するおれは、次に逢うまでの間に彼女の身に起こることなど、この時、知る由もなかった。
 
 
 
 
 
~課長・片桐 廉〔6〕へ続く~
 
 
 
 
 
 
 
 

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