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かりやど〔八〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
望んではいけないことなのか
望んでも無駄なことなのか
 
 

 
 

 三日後──。
 
 朗(ろう)は堀内承子(ほりうちしょうこ)と『偶然』遭遇するために、翠(すい)は小半(おながら)、隅田(すみた)との会食のために出かけた。
 
 隅田が女と歩いているところを、婚約者である承子に目撃させるべく翠が選んだのは、かつては花街などと称された場所──奥深くには由緒ある料亭なども佇む反面、表には目立つ派手な建物が立ち並ぶ──つまりはホテル街と呼ばれる一角である。
 小半たちから誘われた時、翠は既に場所の目星を立てていた。そして、うまくふたりを誘導したのである。
 

 
 足取りも重く、朗は承子と遭遇するはずの場所へと向かっていた。
 承子に対して特別な感情を抱いている訳ではない。だが、これから自分がやろうとしていることが、何も知らず、何の責任もない彼女を利用する行為であることは間違いない。
 過去の因縁も相俟って、顔を合わせるだけでも気まずい朗にとって、翠の提案は針の筵(むしろ)であった。まして翠は、出来るなら承子を完全にオトせ、とまで言っているのだ。朗にとっては、自身の存在意義を揺さぶられる話でもある。
(……彼女がオチる訳がない。……婚約者を裏切ってまでそんなことをするタイプとは思えない)
 朗は自分に言い聞かせ、買い物をするフリをしながら承子が来るのを待った。
(……翠ももう出かけただろうか……)
 翠が小半や隅田に笑いかけ、談笑する様子が脳裏を過る。必要であると判断すれば、恐らく最終的には小半をもオトすことになるだろう。
(……その気になれば、翠なら小半でもオトせるだろう……)
 陳列した商品を眺めているつもりが、一点を凝視して止まっている視線と身体。──が、ふと気づくと、傍に誰かが立ち止まった気配。振り返ると、驚いた顔の承子だった。
「……小松崎くん……」
「……やあ……」
 いくら何でもボキャブラリーが貧し過ぎると、心の中で苦笑いになる。
「……今日も買い物?」
「……この間、結論が出なくて……」
 朗の返事に、口元に微かな笑みが浮かぶ。
「……今日はひとりなの……?」
「……え?」
 咄嗟に頭が回らず、訊ねられた言葉の真意を計りかねていると、承子の方から言葉を付け足す。
「……あの……この間の彼女……一緒じゃないの?」
「……ああ……」
 訊かれた意味に気づき、朗が頷くとホッとした表情。
「……すごく綺麗な子ね。……みどりさんって言ったかしら?女から見ても見惚れちゃうような……」
「……彼女は遠縁なんだ」
「そうなの?何て言うのか、無邪気で不思議な雰囲気を持ってて……男の人から見たら、そんなところが魅力的なんでしょうね」
 確かに、ある種の魅力に満ちてはいるが、と朗は思う。不思議なほどに人を惹き付けて止まない。
「……気まぐれで……手が掛かって困ってるよ」
 翠からの受け売りではあるが、朗にとっては嘘とは言えない。
「……遠縁の……?」
 朗の説明に、承子の目が何かを手繰るように一点を見据えた。
「……あの……もしかして、前に『あまり長くひとりにしておけない』って言ってたのは……あの子のことだったの?」
 朗は驚きを隠せなかった。
「……よく憶えて……」
「……だって、若い男性が介護みたいなこと言うから珍しくて……」
 承子が恥ずかしそうに笑う。
「……ああ……あの頃は身体を壊していて……あまりひとりにしておけなかったんだ。何しろ、難しい子だから人に任せるのも難しくて。今は日常生活に支障はないけど」
「……そうだったの」
 続いていた会話も途切れてしまった。朗はどう話を持って行こうか思案する。
「……時間ある……?」
 結局、捻りも何もない言葉しか出ない。
「……え……?」
「……良かったら食事でも……」
 瞬きの止まった承子が、朗の顔を見上げた。驚いて声も出ない様子に、策を誤ったかと朗の胸に不安が過る。
「……早く帰らなくて大丈夫なの?」
 翠が待っていること、を心配しているのがわかり、とりあえず朗は胸を撫で下ろした。
「……今夜は、彼女も友だちと食事をして来る、って言ってたから……」
 その言葉に安心したように笑う。
「……じゃあ……一緒させてもらっても……いい?」
 翠の予想通りの展開。
 控えめな承子に、朗の胸が針で刺されたように痛む。どう言い訳しても、彼女を利用し、彼女の周囲を陥れようとしている事実に変わりはない。既に撤回出来ないところまで来ていることがわかっていても。
「……いい店があるんだ。和食、好き?」
「ええ。私、和食が一番好きかも」
 嬉しそうに答える様子から目を背け、朗は表通りでタクシーを拾うと店の場所を告げた。
 当然、承子を連れて行こうとしている店も、翠が小半たちと行く場所の近くである。ホテル街の真っ只中ではないだけでもマシと言えるだろう。
「……わあ、素敵なお店……」
 素直に感嘆する承子を、罪悪感を圧し殺した朗が中へと促した。
 

 
 絶妙の誘導で店を指定した翠は、小半たちとの約束の時間より少し前に到着した。
「……朗はうまく誘い出せたかな……」
 呟きながら店の門をくぐる。名を告げると、既に小半と隅田は来ていると言う。
「……やるなぁ……」
 翠は口元に不敵な笑みを浮かべた。
「お待たせしました」
 ゆったりとしたテーブル配置の奥まった一角。敢えて、の個室ではない選択。
「いえ、ぼくらは着くのが少し早過ぎました」
 立ち上がった小半と隅田が、にこやかに定番の挨拶。ふたりが休日であることは、小半からの誘いの連絡が入った時点で聞いており、事前に打ち合わせ、落ち合って来たのだろう、と翠は推測する。
「先日の定例会ではありがとうございました。先生ともお話し出来ましたし、堀内社長にもご紹介戴きまして……」
 翠も、まずはお定まりの礼を述べた。
「堀内が夏川さんのことを褒めておりました。頭がキレる上にお美しい、と」
「副島(そえじま)もです。入たくあなたを気に入ったようでした」
 ふたりが矢継ぎ早に続ける。
「恐れ入ります」
 翠も無難な返答に留め、一見、和やかな会話が繰り広げられて行く。
「ところで、今日は本当に宜しかったのですか?新堂さんのご都合に合わせても良かったのですけど……」
 小半が切り出した。隅田も頷く。
「それですと、いつになるかわかりませんし……また機会もあるかと。善は急げ、と言いますし」
「確かに!」
 三人は笑い合った。
「ところで、新堂さんは夏川さんのパートナーとお聞きしましたが……実際に公のみのパートナーなのですか?」
 隅田からの質問に、翠は『やっぱり来た』と心の中で冷笑する。若い男と女が互いをビジネスパートナーと紹介すると、好奇心丸出しで訊ねて来る輩の多いこと。
 それは隅田も例外ではなく、止めようとしない時点で小半も同じなのであろう。
「はい。新堂には、あくまでビジネス上の良きパートナーとしてサポートしてもらっています」
「それはまた……本当は新堂さん、夏川さんみたいな綺麗な人と四六時中仕事してて、実は気になって仕方ないんじゃないかなぁ」
「お上手ですこと」
「いや、本当ですよ。新堂さんも、男の目から見ても素敵な方ですしね。先日、お会いした時、お似合い過ぎて恋人同士なのかと思ったくらいです」
 傍目には他愛もない探り合いの会話が続く中、小半が胸ポケットから携帯電話を取り出す。画面を確認すると、「すみません。少し失礼します」と言って店の外に出て行った。
「小半さんと言い、隅田さんと言い、秘書と言うお仕事は大変そうですね」
「そんなこと……仕事は何でも同じだと思いますよ」
「そう言ってしまえばその通りですけど……」
 笑い合いながら、翠は朗の顔を思い浮かべていた。
(秘書、ねぇ……)
 翠にとって朗は、『秘書のような存在』と言えなくもない。それこそ公私共に。
 そこに電話を終えた小半が戻って来た。申し訳なさそうな顔をし、隅田の方を見る。
「隅田、すまない。急ぎの案件が入ってしまったんだ。夏川さんのお送り、頼んでもいいかな?」
「何だよ、休日だってのに。……まあ、呼び出されればどうしようもない身の上か……お互いに。わかった。夏川さんはぼくがちゃんと送って行くよ」
「ああ、頼むよ。……夏川さん、申し訳ない。そんな訳で、先に失礼させて戴きますが……」
 残念そうに詫びる小半に、翠の目が密かに光る。
 「とんでもないです。今日はありがとうございました」
 後はデザートを残すのみ、と言うところで小半は去って行った。もちろん、小半が呼び出されるように裏で工作したのは翠であるのだが。
 予定通りに小半を追い払ったところで、翠はさりげなく隅田に揺さぶりを掛け始めた。
「隅田さんのご結婚は、いつ頃のご予定なんですか?」
「……いえ、まだ具体的な日程などは……漸く婚約した、と言うところです」
「まあ、そうでしたか。どのくらいお付き合いされていらっしゃったんですか?」
「……一年半……二年は経ってない、ってくらいですかね。堀内には急かされていたんですけど、彼女がまだ若いせいか……乗り気と言うほどでもなくて……」
 隅田の声がトーンダウンする。
「そうなんですね。承子さんはどんな方なんですか?きっとお綺麗なんでしょうね」
 数日前に見た承子の顔を思い浮かべながら、翠は素知らぬフリで訊ねた。
「……まあ、夏川さんほどではありませんよ。どっちかと言うとおとなしくて……社長令嬢と言う感じではないですね」
 翠が受けた印象、そのままである。
「まあ、そんな……承子さんはきっと、芯がしっかりした女性なんでしょうね」
 隅田の心を擽って承子の様子を聞き出しながら、今後の動きを頭の中でシミュレーションして行く。聞き出すだけ聞き出し、そろそろお開き、と言うところで、翠は化粧室へと席を立った。
 化粧を直しつつ、朗に連絡をしてタイミングを合わせる。鏡に映る自分に笑いかけ、翠は隅田のところへと戻った。
 

 
「……忙しそうだけど、小松崎くんは、今、何の仕事をしているの?」
 食事を摂りながら、相変わらず控えめな体で承子が訊ねた。
「いろいろと手広くね。大元は輸入業に関する仲立ち業務、ってとこかな」
 用意している答えを口にしているだけで、もちろん嘘である。
「……今は忙しくしてても彼女は大丈夫なの?」
「大体ね。たまに調子が落ちる時はあるけど、それほど支障はないかな」
 この辺りの内容は本当のことであり、考えずともスムーズに答えられる。
「……大変そうね」
「まあ、このご時世、仕事があるだけで感謝しないとね。堀内さんは?」
「……私は……」
 承子は言い淀んだ。
「……正社員としてフルタイムで働いてる訳じゃないの」
「そうなんだ。……ああ、そう言えば堀内さんのお父さんって大会社の社長さんだったよね」
 これも、翠から言われた揺さぶりのひとつである。覿面であったのか、承子が身体を強張らせるたことに朗は気づいた。
「ごめん。変なこと言ったかな」
「……ううん。本当はちゃんと働いて一人立ちしたかったんだけど……」
 承子は言葉を濁して下を向く。心を凍らせ、朗は更に承子に訊ねた。
「もしかして彼氏のために花嫁修業とか?」
 ビクッと反応した承子が完全に俯く。
「……実は……婚約したの……」
 消え入りそうな声。
「そうなんだ。それはおめでとう」
「……ありがとう……」
 実は打ち合わせの段階で、承子が本当に自分に気があるのなら、敢えて『婚約者がいること』など言わないのではないか、と朗は主張した。それに対して、翠は薄笑いを浮かべて言い放ったのだ。
 
「そう言うタイプもいるだろうね。でも、たぶん彼女はちゃんと言うよ。それも、黒川玲子のように相手の気持ちを試すため、じゃなくて……」
「……じゃなくて?」
「……自分の気持ちを牽制するために、ね」
「………………!」
 朗は息を飲んだ。が、翠は当然のような顔のまま笑っていた。
 
 そのやり取りを思い出し、返す返すも己の甘さを痛感する。ほとんど学校にも行けずに過ごしていた、まして外で働いたこともない歳下の翠にそこまで及ばないとは、と。
「お相手はどんな人?」
 気持ちを逸らすように訊ねると、
「……あの……父の……秘書をしてくれてる人なの……」
 承子は目を逸らしたまま答える。
「じゃあ、お父さんの信任も得ている人なんだね」
「……ええ……」
「そうか。幸せなんだね。堀内さんみたいな奥さんなら、穏やかで幸せな家庭を築けるだろうね」
 朗はこの言葉を本心から言っていた。承子に気持ちがある、なし、は関係なく、彼女のようなタイプの女性なら、男は安心して寛ぐことが出来るのであろう、と。
 自分には望むべくもないことであったから。
「……そんなこと……」
 それっきり、会話が途絶えてしまう。気まずい空気が流れ、朗がどうしようかと迷っている時、携帯電話が振動した。翠である。
「……ちょっとごめん」
 朗は敢えてその場で電話を取った。
「……はい。それは準備出来てます。……はい……」
 通話を終えて電話を切ると、
「彼女じゃなくて、仕事の電話?」
 承子が訊ねて来る。それも想定してのことであった。
「うん。こう言うことがあるから、休みでも油断出来ないんだ」
 朗の返事に微かに笑みが戻る。
「……さて。そろそろ行こうか」
「……ええ……」
 出口近くの会計場所に向かっていると、承子が財布を出そうとしている気配を感じ、朗が手で制した。
「……いいよ。急に誘ってしまったからね」
「……でも……」
 躊躇う承子に何も答えず、朗は代金を支払って外へと促す。
「……本当にいいの?」
「……もちろん。付き合ってくれてありがとう。……表通りでタクシーを拾おう」
 そう返し、通りに向かって歩いている時──。
「………………!」
 突然、承子が歩みを止めた。前方の一点を凝視している。
 承子の視線の先には、派手なネオンが輝く数軒のラブホテル。その前から、親しげにタクシーに乗り込む一組の男女。
「……堀内さん?どうかした?」
 承子は立ち尽くしたまま答えようとしない。ただ、手は小刻みに震えている。
 思わず目を背けたくなるほどの罪悪感。胸に押し寄せる苦しさに、心も身体も押し潰されそうになる。
 だが、今さら引き返せはしない。
「……具合でも悪い?」
 心配そうな朗の言葉に、承子は青ざめた顔で首を振る。
「……ううん。ごめんなさい。何でもないの……」
「……そう?じゃあ、行こう。送って行くよ」
「……ごめんなさい。今日は寄るところがあるのを忘れていたわ。タクシー拾うからひとりで大丈夫。……今日はありがとう」
 息も継がない勢いで言うと、承子は大通りに走り出した。
「堀内さん!」
 その声には答えず、タクシーを停めて飛び乗ると、あっという間に去って行く。
 
 その場には、遣る瀬無い思いを抱えた朗だけが立ち尽くしていた。
 
 
 
 
 
 
 

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