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声をきかせて〔第7話〕

 
 
※聞こえの悪い言葉や表現がてんこ盛りです。ご容赦のほど。
 ……いつも口の悪い私が言うのもナンですが。

 
 
***

 
 こんな予感、はずれてくれと祈るような気持ちで、ぼくは何かに憑かれたように必死で走っていた。

 息があがる。だが急がなければ。どうしようもないくらいに心が逸る。

 焦る気持ちに煽られて必死に走るぼくの目に、社のビルが見えてきた。もう少し。

 息を切らし、肩を大きく上下させながら、走る勢いそのままで飛び込んで来たぼくを見て、受付の女の子たちが驚愕した様子で腰を浮かし、

「と、藤堂主任……!いったい……」

 小さくそう叫んだのは耳に入ったけれど、その時のぼくには言葉を返す余裕はなかった。

 時計を見ると、開始時刻を25分ほど過ぎている。ぼくは取るものも取り敢えず会議室へ向かった。室長が戻ってくれていること、何とか野島くんがやり過ごしてくれていることを願いながら。

 息を整えながら会議室の近くまで行っても、その周辺に人影はなくシンと静まり返っている。と、突然その静けさを打ち破るように、男の乱暴な怒鳴り声が聞こえて来た。

『何でこんな総合部にいた女なんかが企画室に異動になったんだ!どうせ裏があるんだろう!』

『それはこの説明会には関係のないことですから……』

 必死に対応している野島くんの声も聞こえる。と言うことは室長は戻っていないのだ。

『だったら、さっさと説明会を始めやがれ!引き延ばしてんのはそっちだろうが!』

『それは先ほどもお詫びした通り、責任者が少し遅れておりますのでもう少しお待ちくださ……』

 野島くんの声を途中で遮るように、

『何が責任者だ!だったら説明会の時に責任者が遅れたりするんじゃねぇよ!』

『ですから、それは……』

 野島くんもかなり応戦しているが、如何せん劣勢としか言いようがない。それにしても口汚ない男だ、と気分が悪くなる。この男が村瀬なのだろうか。

『大体、あんた……雪村とか言ったか?あんた、専務の女なんだってな。それどころか社長までくわえ込んでるらしいじゃないか。え?その顔と身体でタラシ込んだのか?おい?それで企画室に異動なんて羨ましい限りだな』

 聞くに耐えない暴言に頭に血が昇り、思考が弾けるような感覚に襲われた。会議室の扉に手をかけた、その時━。

『北関東エリアの村瀬チーフ……と仰いましたか?』

 いつもと全く変わらない、風のない湖面のように静かな雪村さんの声が響き渡った。思わずぼくの動きが思考と共に止まる。飛び込むのも忘れて立ち尽くした。

『それがどうした!言っとくがな!おれはその顔に丸め込まれたりはしねぇぞ!』

『……私の異動は欠員補充のためで、それ以上でも以下でもありません。そこに専務や、まして社長の個人的意思が介入しているはずもありません。お望みとあらば貴方を推薦しても構いませんが。適格と判断されれば、貴方が配属されて何ら問題はないかと思いますので』

 ヒヤリとするようなことを平然と言ってのける。彼女には怖いものなどないのだろうか。だが、その静かな言葉に男が一瞬気圧されたのは確かのようだった。

 それにしても、やはりこの男が村瀬だったのだ。そうと知ると、油断していた自分が返す返すも腹立たしくなる。

 片桐課長に言われた通りだ。ぼくが室長に、念のためにでも事情を説明してさえいれば、何とか会場に詰めていてくれただろう。

 ところが、村瀬の暴言はまだ終わりではなかった。

『は!誰がお前の推薦など!お前のように上層部を誑かすような女がいると迷惑なんだよ!どうせ他にもタラシ込んでるんだろ……そうだ。企画室の藤堂ともデキてんだろうが!』

 言うに事欠いてもうメチャクチャだった。ぼくは自分まで引き合いに出されたことよりも、ここまで彼女を侮辱する村瀬に対して怒りのあまり目眩がしそうだった。が、そんなぼくの思考を冷却するかのように、再び静かな声が響く。

『村瀬チーフ』

 名を呼ばれただけで村瀬が怯んだ気配を感じる。逆に彼女のその声には、怯えも、怒りも、嘲りもなかった。

『質問を変えますが、貴方はご自分の仕事をどう思っていらっしゃいますか。専務を、社長を、ひいては我が社を、そして貴方の部下の方を……』

『あぁ?何、言ってやがんだ。おれらが必死でノルマを達成しようとしてる時に、企画室なんかでのうのうとしているヤツにそんなこと言われる筋合いはねぇ!』

 村瀬の言葉は、完全にただの八つ当たりになっている。

『そのお言葉、ご自分の仕事に自信と誇りを持っている、と聞こえますが?』

『当たり前だ!』

『では申し上げますが、先ほど貴方が仰った言葉は、私、ではなく、専務を、社長を、延いては我が社を貶める言葉です。それはその会社における、貴方のその仕事と貴方自身をも貶めている、とは思われませんか?』

 あまりに冷静なその物言いに、村瀬も言葉に詰まって反論できないようだった。誰ひとり声を発さず、会議室内は静まり返っている。

『……うるさい!最もらしくホザきやがって!お前に何がわかる!』

 村瀬の反論の軸がさらにブレ始める。

『私の異動については、先ほど申しましたように社長たちの意思が介入しているはずもありません。第一、藤堂主任が何の関係があると……』

 彼女がそこまで言った時、ぼくは勢いよく扉を開け放った。彼女が言わんとしていることは予想できたが、これ以上、彼女に反論させない方がいい、と判断したからだ。

 彼女がどれだけ正論を述べようとも、村瀬のような男が納得して退くようなことはない。いや、むしろ彼女が何か言えば言うほど憎悪を募らせ敵視するようになるだろう。

 水を打ったように静まり返った会場内の、ほぼ全員の視線が一斉にぼくに注がれた。野島くんは泣きそうな顔で、ぼくの方に助けを求めるように視線を向けた。

 その中で村瀬と思しき男だけが、忌々しそうな顔でぼくから目を逸らして舌打ちする。

「企画室の藤堂です。遅れて申し訳ありません」

 営業部にそう詫び、雪村さんの方に近づいた。

「ごめん、遅くなって。説明を始めて」

 その言葉に、彼女は微かに会釈するように睫毛を伏せ、座っている営業部の方に向き直り一礼した。

「開始が大幅に遅くなり申し訳ありません。それでは説明を始めさせて戴きます」

 彼女は澱みない声で、何事もなかったかのように話し出した。

 雪村さんの説明は見事としか言いようのないものだった。

 普段の抑揚のない話し方がまるで嘘のように。ぼくもただ驚くばかりで、息を詰めて見守る。

 最初は険しい表情で、聞いているのかさえわからないような雰囲気だった営業の顔が、説明が進むにつれて徐々に変わっていくのがわかる。メモを取る姿も比例して増えていく。

 ふと、隣にいる野島くんの顔を見ると真剣そのものだった。夢中になって説明を聞いている様子が窺える。

 見れば、あの村瀬でさえ。顔は横を向いているものの、乱雑に置かれていた資料はいつの間にか該当ページが開かれている。

 この勝負は、もう彼女が勝ったも同然だった。

「……以上で説明を終わります。ご質問のある方は挙手をお願い致します」

 数人の営業が手を挙げる。その質問に対する答えも考え尽くされた見事なものだった。

 なるほど。これなら営業として配属されていたとしても何ら問題はない。いや、むしろ戦力としてほしいくらいだ。

「それでは、これを以て本日の説明会を終了と致します。お疲れさまでした」

 彼女の締めの言葉を合図に、一斉に営業が動き出す。村瀬は全くこちらを見ないで真っ先に会議室を後にした。だが、しっかりと資料を手にしていたのは間違いない。

「野島くん、ありがとう。お疲れさま。大変な目に遭わせてしまったね」

 ほっと深呼吸して野島くんに声をかけると、彼は恥ずかしそうに俯いた。

「いえ、すみません。結局、お役に立てなくて……」

「そんなことないよ。時間を稼いでくれて本当に助かったよ」

 ぼくの言葉に彼は少し嬉しそうな顔をし、そしてすぐに顔を引き締めた。

「それにしても、あの村瀬って人……ひどい暴言でしたね。何であんなに雪村先輩に……」

 野島くんが解せないという風に呟いた。確かに、企画室が元々良く思われていないことは知っているが、何故あそこまで、とも思う。

「それにしても雪村先輩すごかったです!ぼくもがんばらなければと思いました!」

 彼の素直な言葉にぼくも頷く。

「後の片付けはぼくたちでやるから、もう仕事に戻って大丈夫だよ。時間を取らせてごめん。本当にありがとう」

「すみません。じゃあ、お言葉に甘えて先に戻ります」

 そう言って自分の仕事に戻って行った。

 雪村さんと会議室を片付けてから、資料を抱えて企画室に戻った。

「今日は遅くなってしまって……嫌な思いをさせてしまったね。ごめん」

「いえ……」

 ぼくの言葉に、ほんの少し顔をこちらに向けて短く答える。

「でも雪村さんの説明は本当に見事だったよ。ありがとう」

 彼女はその言葉には答えず、返事のように長い睫毛を伏せただけだった。

 企画室に戻ると、室長が落ち着かない様子でウロウロしている。どうやら野島くんから事の詳細を聞いたらしい。ぼくたちに気づくとオロオロとした様子で近づいて来た。

「藤堂くん。私が席を外したばかりに大変なことになったらしいじゃないか。……本当にすまなかったね、雪村くん。小池部長には私の方から言っておくからね」

「はい。よろしくお願いします」

 室長にお願いすると、珍しく彼女が声を挟んだ。

「室長。そんなに大袈裟にして戴かなくても結構です」

 驚いて、思わず大声を出してしまった。

「何を言ってるんだ。あんな暴言を赦せるはずがない。厳重に注意してもらうべきだよ」

「それでも今後の企画のことを考えれば」

「それとこれとは別問題だ。そもそも説明の場で、関係のない言いがかりをつけて来たのは村瀬チーフの方だよ」

「それはそうですが、敢えて事を荒立てる必要があるほどのこととは思えません。私へのご配慮でしたら不要です」

 彼女の考えはぼくには全く理解できず、言葉が出て来ない。

 オロオロと見ていた室長は、

「では雪村くんのいう通り今後のこともある。小池部長に注意してもらうようにだけ伝えておくよ。それでいいね?」

「はい」

 暴言を受けた本人が承諾してしまったので、それ以上は何も言えなくなってしまった。戻って行く室長の背中を見つめながら、納得できない、やるせない思いが心に折り重なって行くのを感じる。

 顔に不満が表れていたのだろう。彼女は何か言いたげにぼくの顔を見つめた。人の心を見通すかのようなその瞳。何故かぼくは苦しくなり、彼女の眼差しから逃れるように俯いた。

「す、少し休憩してから、今日の説明会のことと今後の方針について打ち合わせをしたいと思う。4時にミーティングルームに来てくれるかな」

 彼女から目を逸らしたままそう告げる。

「わかりました。先に資料を戻して来ます」

「うん。ありがとう」

 彼女が遠ざかって行く気配を感じながら、ぼくは椅子に座り込んで大きく息を吐き出した。

 今日のことはぼくの責任だ。ぼくの甘さから連鎖して起きた事態であることは間違いない。あれほど片桐課長にも言われていたのに。再び溜息が出る。

 ……と。突然。ぼくはまた、何か嫌な予感に襲われた。

 弾かれたように立ち上がり、資料室に向かって駆け出した。

 まさかとは思うが。再び、はずれて欲しい予感。

 途中、すれ違った数人がぼくの勢いに驚いて振り返ったが、気にしている余裕はなかった。

 資料室の近くまで行くと嫌な予感は的中した。村瀬の声が聞こえて来たのだ。

「……綺麗事並べ立てても、所詮、女の武器を使って取り入ってんだろうが!」

 村瀬の言葉に対する雪村さんの声は聞こえて来ない。それにしても、まさかこんなところまで付き纏って来るとは。

 ぼくが資料室のある通路に飛び出すと、村瀬は彼女の手首を掴んでにじり寄っていた。彼女は村瀬の顔を真っ直ぐに見つめ、ひと言も発していない。

「手を放すんだ!」

 言いながら2人の間に割って入り、彼女をぼくの背中に隠す。村瀬はぼくの勢いに一瞬怯み、だが、すぐにニヤニヤしながら厭味たっぷりに言う。

「ふん。これはこれは。王子様のご登場だ」

「何が目的か知らないが、これ以上、彼女に関わらないでもらいたい」

 抑えた声で言うと「格好つけやがって」と呟き、また面白くなさそうに顎をしゃくる。

「目的……ねぇ。さっきも言った通り、上層部を身体使って誑し込んでるような女がエリート部署にいるなんざ、どうにも納得が行かないからな。どうせ、あんたもその女とヤってんだろ」

 聞き捨てならない言葉にカッとなる。が、挑発に乗ってはいけない。必死で怒りを抑える。

 ぼくが挑発に乗らないのでアテが外れたのか、目をギラつかせながら背中に庇っている雪村さんに向かって嘲るように言い放った。

「あんた、私生児なんだってな」

 ぼくへの挑発も兼ねているのか。舐めるようにぼくの顔を見ながら、クククと胸が悪くなるようなイヤらしい笑いを洩らした。

 生まれに何の関係があるのか。そう言葉を発する前に、村瀬はなおも続けた。

「しかもあんたの母親、愛人としてあんたを産んだそうじゃないか。どうりで……だよなぁ。親子揃って男を誑かすのが得意って訳だ。大したもんだぜ」

 限界だった。そこでぼくの理性は千切れそうになり、知らず知らずに拳を握りしめ、思わず村瀬に掴みかかりそうになった、その時━。

「3つ、間違っています」

 拳を握ったぼくの腕を軽く手で押さえながら、背中から一歩進み出た彼女の凜とした声が廊下に響き渡る。

 ぼくが驚いて振り返ったのと、村瀬が唖然とした顔で彼女の方を見たのは同時だった。

「まず、ひとつ目。私の父と母は確かに今でも籍は入れていませんが、母は愛人ではありません。母が父と出会った時、父の前の奥様は既に亡くなっていました」

 彼女は村瀬をまっすぐに見据え、淡々と続けた。

「ふたつ目。私は父に認知されておりますので、嫡出子ではありませんが私生児でもありません」

 ぼくは固唾を飲んで彼女の言葉を聞いていた。

「最後に、父は母との結婚を望んでいましたが、母には母なりに理由があって籍を入れていない……それだけです」

 彼女は睨むではなく強い視線を村瀬に向けて言い放つ。

「それから、これだけは申し上げておきます」

 丁寧だが、有無を言わせない口調だった。

「私のことは何と仰ろうと一向に構いませんが、家族のことまで言われるのは解せません。それから社長や社のことも、です」

 村瀬は呆気に取られたように彼女の顔を見つめていた。いや、ぼくも言葉も出せずに見つめる。

 村瀬は忌々しげな顔で舌打ちしながら去って行った。

 ややあって、雪村さんが微かに顔の向きを変えたのを見て、立ち尽くしていたぼくの思考はようやく覚醒した。

「主任、お騒がせしました。先に戻ってください。資料を戻してすぐにミーティングルームにまいります」

 ぼくは村瀬に対する怒りと、彼女に対する疑問を何とか押し込める。

「少し休憩してからでいいよ。予定通り4時に」

「わかりました」

 彼女は、村瀬に絡まれた時に落としたのであろう資料を拾い、資料室へと入って行った。

 ぼくは企画室に戻り、打ち合わせの書類を持ってミーティングルームに入った。4時までにまだ20分ほどあったが、少しでいいからひとりになりたかったのかも知れない。

 ほどなくしてノックの音が聞こえた。ぼんやりしていたぼくは、その音で一気に現実に引き戻される。

「失礼します」

 そう言って雪村さんが入って来た。手には筆記用具とカップを持っている。

「まだ少し時間あるけどいいの?」

 ぼくが訊ねると、静かに頷いてぼくの前にマグカップを置いた。コーヒーが湯気を立てている。驚いて彼女を見上げると、手にはもうひとつカップを持っている。

「よろしければどうぞ。主任も休憩されていないようでしたので」

 わざわざ入れて来てくれたのか。

「……ありがとう」

 温かいコーヒーをひとくち含むと、身体の中から解れて行くようだった。

 それからは打ち合わせに集中する。営業からの質問でわかったこと、今後の課題や要点などを話し合った。

 もう一度、営業サイドからの情報を入れたいという意見が一致し、次回の打ち合わせで他メンバーも含めて練ることに落ち着いた。

「じゃあ、次回の打ち合わせはこの件について。明日、室長には報告する」

「はい」

 彼女が打ち合わせの書類を片付け出す。

 何事もなかったかのようなその様子を見ていたぼくは、つい、自分の中の糸が振り切れてしまった。

「雪村さん。さっきのことだけど」

 我慢できずに切り出すと、手を止めて顔を上げる。その眼差しがあまりにいつもと変わらないことに、何故かぼくの方が苛立ちを覚える。

「やっぱりちゃんと抗議してもらった方がいいと思う。あの男は、きっとまたきみに絡んでくるに違いない。はっきりと公にした方が……」

 そこまで言ったところで、彼女はぼくの言葉を遮るように言った。

「主任。その話は、もう……」

「だけど、このままではきみの身に危害が及ぶかも知れない。ご家族のことよりも、まずは村瀬と同じ社内にいるきみのことが心配なんだ」

 彼女はぼくの言うことを不思議そうな表情で聞いている。言っている意味がわからないのだろうか。

「家族のことに関わらないでくれるなら、私は自分だけならどうであれ何の問題もありません。ですから大ごとにしたくないだけで……」

「……何故きみは、そんなに自分のことを大事にしない?きみに何かあれば、ご家族だって心配するだろう?」

 第一、あのまま放っておいて村瀬は諦めるだろうか?もし彼の行動がエスカレートしたら?

「主任は、何をそんなに心配されているんですか。口で言われるだけのこと、言いたいようにさせておけば良いと思いますが」

「何も知らない人間にあんなことを……社長や専務についてもだが、きみのことをあんな風に言われるのは我慢できない。あんな……」

 その言葉に、彼女は意図も簡単に返した。

「噂や言いがかりなど、その人をよく知らない人間が言うものです」

 確かに彼女の言うことには一理ある。あるが。

「私は、私がわかっていてほしいと思う人さえわかってくれていれば、その他の人に何と思われようが構いません」

 それは。その言葉は。

「……それは……ぼくも……ぼくたちもその中に入っていないと言うこと?」

 俯いた額に手を押し当てながら絞り出すように訊く。彼女にしては珍しく返事が遅れた。

「……それは……」

 躊躇うような、答えに詰まったような彼女の声。

「ぼくは別に、きみが言いたくないことを無理に訊きたいわけじゃない。だけど、村瀬のような男に危害を加えられるかも知れないとわかっていて、そのまま見過ごしてはおけない。……ぼくは……そんなに信用できない?」

「……そ……」

 ぼくが放った支離滅裂な言葉に、彼女が微かに動揺する気配が感じられる。

「何故、そんなに……!」

 一気に吐き出してしまった。……と。

「藤堂主任」

 雪村さんの声が少し揺れている。

「主任には守りたいものがありますか?」

「……え?」

 驚いて顔をあげる。

「私は……私が守りたいものを守るためなら、鬼でも悪魔にでもなります」

 決然と言い放った彼女の顔を凝視したまま目が放せなかった。

「失礼します」

 彼女は一礼して踵を返した。

 遠ざかる彼女の後ろ姿を見ながら、ぼくの頭の中は真っ白だった。と、彼女は扉に手をかけながら、顔を少しだけこちらに向けて言った。

「藤堂主任。私が知られたくないことは、私以外の誰にも知られたくないことです。主任だから知られたくない、と言うことではありません」

 彼女の言葉を遠くの物音のように聞いていると、最後に。

「あなたのことを信用しているとか、いないとか、ではありません。それとは別次元の問題で……そう言うことではないんです」

 躊躇いがちにそう言うと、小さく会釈をして出て行った。

 扉が閉まる音を聞きながら身動ぎひとつ出来ずにいるぼくの脳裏に、彼女の言葉が駆け巡る。

 彼女の最後の言葉。それはぼくの心をほんの少しだけ救ってくれた。

 ━けれども。

 ぼくの心を軽くしてくれるものではなかった。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 

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