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声をきかせて〔第4話〕

 
 
 
 どれくらい時間が経ったのだろう。

 無限の時にも、ほんの一刻のようにも感じられる静寂。

 誰も声を発さず、壁時計が刻む音だけが、時の動きを教える。

 その危ういように思える均衡の中、ふいに、静寂を破る氷の音。

 それはまるで始まりの合図のようで。


***


「やるなぁ……彼女」

 突然、課長はクッと笑いを洩らし、妙に楽しそうに呟いた。それが合図であるかのように、ぼくたちの全てが動き出す。

 その言葉は、ぼくには課長の心の内を丸ごと表しているように思えた。やはり今井さんの事が気になっているに違いない。少なくとも意識し始めている事は間違いないだろう。

「瑠……坂巻さんも今井さんの事は本当に認めていて、散々、誉め言葉やらグチやら聞かされました」

 瑠衣とつき合っていた頃の懐かしい記憶が過る。今井さんの事を嬉しそうに褒める笑顔、たしなめられて不機嫌になっている顔。ぼくに向けてくれた様々な表情。彼女との2年余りは、やはりぼくにとっても楽しい思い出が多い事を思い知らされる。なのに。

「だからこそ、おれは君の方こそ今井さんと……今井さんこそが君に合っているんじゃないかと思ったんだが」

 課長のその真剣な口調に、記憶の箱から引き戻され思わず顔を上げる。

「坂巻さんの事をどうこう言うつもりはない。だが、君は今井さんとつき合った方が楽になれるんじゃないか。今井さんこそが君の内面を解放してくれる存在になり得るんじゃないか……と」

 本当に課長の人を見る目は間違いない、と思う。この人に見抜けない事などないのではないか、と思わせるくらいに。だけど。

「本当の事を言うと何度か……正確には三度、ですが。考えたことがない訳ではないです」

「今井さんとつき合う事を、か?」

「はい」

 ぼくは正直に頷いた。もう今さら課長には隠す理由もない。

「一度目は坂巻さんとまだつき合っている時、二度目はわかれた時、そして三度目は……奥田さんとの事を指摘された時……です」

 ここまで白状して、本当に自分は課長の事など言える立場じゃないと気づき、心の中で苦笑いする。

「何故、そうしなかったんだ?」

 確かに、課長が疑問に思うのも当然かも知れない。

「一度目の時はまだ坂巻さんとつき合っていましたから。別に関係が悪くなっている訳でもなかったですし。ただ彼女から今井さんの話を相当聞かされていて、漠然とそう思った事があるだけで……現実味はなかったんです」

「じゃあ、二度目の時は?もう、わかれた後だったんだろう?」

 ぼくは肩を竦めて答えた。

「まだ坂巻さんとわかれたばかりの時です。彼女とわかれたから、じゃあ次はその友だち、って訳には行きませんよ。さすがに罪悪感がありました。彼女にも今井さんにも……」

「ああ。まあ、確かにそうだな」

 納得したように課長は目を伏せて頷いた。しかし、ぼくが隠している事はこれだけではない。

「でも。いや、もちろん、それからしばらく経ってからですが、実は今井さんにアプローチした事があります」

「えっ!?」

 驚いた課長がすごい勢いで振り向き、食い入るように見つめて来る。

「誘いをかけてみたんです。相当、勇気を出して。ぼくなりに、かなりわかりやすく誘ったつもりなんですけどね」

 思い返してもその時の記憶は、我ながらかなり痛いものだ。と言うか、正直、思い出したくない。

「……断られたのか?」

 課長が恐る恐る訊いて来る。

「……と言うか、そもそも微塵も気づいてもらえませんでした。と言うか、もしかしたら気づかないフリでスルーされたのかも知れません」

 課長は唖然としている。

「ぼくは今井さんの圏内には全く入っていなかったようです」

 あまりの痛さに苦笑いしか出て来ず、思わず自虐的な言葉になる。

「王子も形なしだな」

 課長も苦笑いしながら言う。他に言いようもなかったのだろうが。

「課長、その呼び方やめてくださいよ」

 正直、その呼び方は苦手だ。何故なら、ぼくは決して『王子』なんかじゃないから。どうしてそんな風に呼ばれるようになってしまったのか。

「おれが呼んでる訳じゃない。社の女性陣が言ってるんだから仕方ないだろう」

 課長が困ったように反論して来たけれど、ぼくにとっては本当に不本意な呼び名なのだ。自分の顔が強ばるのがわかる。……と。

「……しかし、そこまで完膚なきまでに一刀両断にされて、まだ三度目がある訳か。ある意味、君も不屈の闘志だな」

 課長が冗談めかして言う。その言葉にも苦笑いするしかない。

「さすがにもう無理だとはわかっていました。それに課長と飲んだあの時に、彼女には課長の方が……課長にも彼女は合っていると、ぼくの中では確信を持てましたから」

 チラリとぼくの顔を見やった課長の目が、『おれを引き合いに出すな』と言っているのがわかる。

「ただ、奥田さんとの事を訊かれた時、もっと早く、確実なアプローチをしておくべきだった、とは……思いました」

 ぼくは言葉を選びながら。

「でも。何度もそう考えながら、それでもやっぱり、結論はいつも同じでした。彼女の圏内に入る努力をして、よしんば入れたとしても……」

 自分自身への踏ん切りのために、敢えて口に出す。

「彼女からぼくが与えてもらえるものはあっても、ぼくが彼女に渡せるものはない、と」

 課長は黙って聞いている。ぼくが自分自身に言い聞かせているのがわかっているかのように。

「彼女とつき合う事で、ぼくは恐らく、何よりもぼくらしく楽に生きられる。でも、彼女はぼくを受け入れる事で、彼女らしい生き方を制限される事になる、と」

 課長は何も言わずに、ただ黙ったまま、再び視線を宙に向ける。

「ぼくの主観ですが、今井さんは少し誤解されやすいタイプだと思います。女性っぽさをほとんど前面に出さないし、物言いも端的な事が多い。だけど実際は、驚くほど的確に周りを把握して、どんな状況にも合わせて対処出来る柔軟性を備えた聡明な女性です」

 課長が同意するかのように小さく頷いた。

「だからこそ。瑠衣は……坂巻さんは言っていたんだと思います。自分は一生、今井さんには勝てない、と」

「坂巻さんがそんな風に言っていたのか?」

 課長が驚いたように訊いて来る。

 頷いてぼくは、

「実際には、勝ち負けの問題ではないと思うんですけどね。ただ坂巻さんは、自分が持っていないもの、だけど切望してやまない何かを今井さんが持っていることに、良く言えば羨望、悪く言えば嫉妬の念があったんだと思います」

 課長は黙って手にしているグラスを見つめた。そして躊躇いがちに、

「坂巻さんだって今井さんが持っていないものを持っているだろうにな。だが確かに、今井さんは人を羨むような……いや、羨んだとしてもそれを人に見せるような事はしないだろうな」

 課長の言葉に、ぼくは黙って頷いた。

「今井さん……か」

 課長が小さく呟く。

 浜崎さんが氷を削る音と、壁時計が時を刻む音だけが響く。

 ぼくは、課長に全てを打ち明ける事で少し軽くなった気持ちの優先順位を、心の中で静かに並べかえた。

 ふと、課長を見て。課長の宙を見つめるその眼差しに、その横顔に、今までとは違う何かが浮かんでいる事にぼくは気づいた。

 でも、もうこれ以上は言うべきではない。何も。

 そんなぼくの心を知ってか知らずか、課長は独り言のように静かに話し出した。

「しかし偶然とか必然とか……運命ってのはすごいもんだな。こんな巡り合わせあるのか、って思うような事が起きたり、ほんのひとつの小さな違いで全く違う方向に動いて行ってしまったり。……いや、だからこそ運命、ってやつなのかも知れないけどな」

 意味深な課長のその言葉に、何か含みを感じたその時。

「それこそが、人生における“妙”と言えるのかも知れませんね」

 それまで空気のように静かにぼくたちの話を聞いてくれていた浜崎さんが、やはり静かに声を挟んだ。

「運命と言ってしまえば全てが必然となる気もしますが、偶然と考える事で“予め決まっていた”と思わなくて済む事もあります。ロマンチックに考えるなら、偶然もまた良し、かと私は思っています。もちろん“必然”にロマンを感じる人もいるでしょうけどね」

「どっちに考えるかはその人のその時の状況次第ですね」

 ぼくの言葉に、浜崎さんは笑顔を浮かべる。

「偶然か必然かは別として、すごい事が起きる場合もありますからね。……例えば、今、お二人が飲んでいらっしゃるウィスキーなども」

「えっ?ウィスキー?」

 課長とぼくの声がハモる。

「今の形のウィスキーが生まれたのも、元は偶然と言っていいものですから」

 そう言いながら、浜崎さんはウィスキーの生まれた経緯を教えてくれた。
 

 浜崎さんの説明を要約すると、元々、ウィスキーと言うのは、ほとんど無味無臭で無色透明のアルコール飲料だったのだそうだ。見かけで言えばウォッカのようなものだろうか。
 それが今のようなウィスキーになったキッカケは、酒類に目をつけた国が税金を掛けた事に端を発するのだと言う。
 税金を取られたくない国民側は、当然、密造となる。ところが酒は置き場所を取るため、隠し場所に困った密造主は隠し場所を色々と考え始める。何しろ、1本、2本のレベルではない。
 造った酒をシェリー酒のオーク樽に詰め直し、それを人が近づかない冬山に運んで、雪で隠れた洞穴に保管しておいたのだそうだ。
 

 課長とぼくは顔を見合わせ、再び浜崎さんの方を見る。このウィスキーの歴史にそんな秘密があったとは。

 ぼくたちの様子を見ながら浜崎さんが説明を続ける。

「そして春になって、密造主が酒の確認に行くと、何と……」

 思わず課長と二人で息を飲む。

「無色透明だった酒が、オーク樽の影響で美しい琥珀色に変わっていたんですよ。しかもその山はピートの採掘上で……ピートと言うのはいわゆる泥炭ですが、洞穴は置き場になっていた。そのお陰で、ウィスキー独特のピート香といわれる香りまでがついていた、と言う訳です。密造主もさぞかし驚いたでしょうね」

「ウィスキーはそんな風に出来たんですか?」

 再びぼくたちの声がハモる。

「そのようです。しかも、置いておく年月が長くなればなるほど、まろやかで深みのある味わいになると気づき、今のような熟成年数別のランクが出来たようですね。これはワインやブランデーにも言える事ですが」

「年数の経ったお酒はアルコール度数が高いはずなのに、何故か喉を通る時にまろやかですよね」

 ぼくの問いに浜崎さんは頷いて続けた。
 

 再び浜崎さんの説明を要約すると、蒸留してすぐのアルコールと言うのは、分子がバラバラに浮遊している状態なので荒い感じがするのだそうだ。
 一定期間置いて置く事で、大きな水の分子の周りに小さいアルコールの分子が均一にくっつき、コーティングされたような状態になる。すると荒々しさがなくなり、アルコール度数が高い割にまろやかになる、のだそうだ。
 

「化学の授業みたいだな」

 課長が笑いながら言った。

「正にその通りですよ」

 浜崎さんが頷きながら言う。

「本当に偶然からすごい事が生まれるものですね」

 ぼくが少し興奮気味に言うと、

「とは言え、ロマンやユーモアを忘れない所もあるんですよ。例えば、ワインなどは熟成時に樽の隙間からかなり蒸発してしまうのですが、その蒸発分をヨーロッパ……フランスだったか……では『天使のわけ前』なんて表現したりするそうですよ」

「何だか可愛い表現ですね」

 ぼくの言葉に、

「天使は酒飲みなんですかね?」

 課長がロマンの欠片もないセリフを挟んでぼくたちを笑わせた。

「課長、それはあまりにも……ロマンの欠片もなさ過ぎじゃないですか?」

 ぼくが笑いながら指摘すると真面目な顔で返して来る。

「藤堂、おれにロマンチックだのムードだのを求めるな。そんなものはおれの辞書にはない」

「そんな事を言ってると女性に敬遠されますよ」

 すると、ぼくたちのやり取りを笑いながら聞いていた浜崎さんもぼくに援護射撃。

「そうですよ、片桐さん。いつ、美女をお連れくださるんですか」

「浜崎さんまでそんな事を……」

 課長は何だか微笑ましく感じるくらいに情けない顔になる。親しい相手にはそんな姿を晒せる所も課長の魅力のひとつだと思う。

 それに、ロマンなどないような事を言ってはいるが、課長は実際には女性にモテる。現にぼくが課長の元にいた頃は、引きも切らず……と言う具合に女性の影がチラついていたのだ。……言うと怒るだろうから言わないが。

 ただ、それが交際している相手だったのか、ただの取り巻きだったのか、そこまでは当時のぼくにはわからなかった。

 それよりも、浮いた噂がない事の方がぼくにとっては不思議だった。男から見た欲目ではなく、女性から見て魅力がない訳はないはずなのに。

 課長が自ら、敢えて女性を近づけないようにしているとしか思えない。

 仕事が忙し過ぎるから?そんな事で他の事に手が廻らなくなるような人じゃない。他の営業だって似たり寄ったりの環境だが、皆それなりにプライベートもあるのだ。

 かと言って女性に興味がない、とも思えない。……もちろん、これも怒るだろうから……いや、聞いてみようか。もしや、と言う事もある。

 後々になって思ったのだが、意外に命知らずなのだろうか、ぼくは。

「課長」

「ん?何だ?」

「女性に興味がない訳ではないですよね?」

 課長の目が真ん丸になり、浜崎さんは目だけでなく口まで真ん丸になる。

「……っ…藤堂っ!!」

 やっぱり怒らせてしまったと、ぼくは肩を竦めた。なのに何故か笑いの方が込み上げて来る。

「ふっ……」

 思わず口から洩れてしまった堪えた感満載の笑いに、課長も吹き出す。そして浜崎さんも。

 再び男三人で爆笑していると、カウンターの奥の扉が急に開いた。びっくりして思わず笑いが止まったぼくの目に、バーテンダーの格好をした別の男性が入って来たのが映る。

「これはこれは、何やら楽しそうですね」

 そう言いながら、優しげな笑顔で現れたその人は、さっきぼくたちに美味しい料理を出してくれた居酒屋の店主だった。

「あっ……」

 訳がわからず、思わず声が出てしまったぼくを尻目に、

「さっきはごちそうさまでした」

 課長がお礼の言葉を述べると、

「こちらこそ、ありがとうございました。……美味しく召し上がって戴けましたか?」

「もちろんです。本当にいつも伺うのが楽しみです。……改めて、こっちは社の後輩で藤堂です」

 二人のやり取りを、二人の顔を交互に見ながら聞いているぼくに、課長が改めて紹介をしてくれた。

「藤堂。こちらは先ほどのお店のご店主で、浜崎さんはご店主の息子さんに当たる。お二人は親子で居酒屋とバーをやっていらっしゃる、って事だ。ややこしいが、つまりはこちらも浜崎さんだ」

 それを聞いて、裏扉や庭続きの謎も解けた。それに二人は、人を安心させてくれる雰囲気が似ている。

「藤堂です。先ほどは本当に美味しく戴きました。ありがとうございました」

 ぼくの挨拶に、浜崎さんは息子の浜崎さんと同じように優しい穏やかな笑顔を浮かべた。

「こちらこそ、どうぞご贔屓にお願い致します」

 笑顔が似ているのはいいのだが、同じ苗字は何ともややこしい。などと考えていると課長が言う。

「ややこしいから、お父さんの方の浜崎さんは『オヤジさん』って呼ばせてもらってるんだ」

 ……課長はともかく、ぼくがその呼び方でいいとは思えないのだが。すると、ぼくの迷っている様子に気づいてくれたのか『オヤジさん』は、

「私は普段はこちらにはおりませんのでね。それほど問題ないとは思います。どうしてもの時は片桐さんの仰るように『オヤジ』で結構ですよ」

 そう仰ってくれたが。とりあえず、いざという時は『ご主人』か『マスター』で何とかなるだろう、と自分自身を納得させる。

 そんなぼくの葛藤には恐らく気づいていないであろう課長は、時計を見て「あっ!」と声を上げた。

「もう1時か。時間の事なんかすっかり忘れてた」

 そう言われてぼくも時計を確認して驚く。知らない間に0時をとっくに過ぎていた。あっという間に感じたけれど、課長とは久しぶりに濃い……かどうかはわからないが、色々な話を出来た事が嬉しかった。

「浜崎さん、申し訳ない。タクシーを一台お願い出来ますか?」

「畏まりました。一台で宜しいのですか?」

 そう浜崎さんが確認してくれる。

「おれの家までの途中に藤堂の家もありますから。経由で問題ないです」

 浜崎さんは頷き、電話をかけに奥に入って行った。課長は残っていたスコッチを飲み干す。今日、ぼくたちは一体どのくらい飲んだんだろう?かなり飲んだ気はするのに、いい酒だったのか変に酔った感じはない。

 戻って来た浜崎さんが、5分くらいでタクシーが到着すると教えてくれ、それから課長に何かを手渡した。

 課長はそれを上着の内ポケットに入れながら立ち上がり、

「すぐだろうから、表で待っていよう」

 そう言ってぼくを促した。ぼくも頷いて立ち上がり、上着を持ったまま課長に続く。

「ありがとうございました。ぜひ、またお出でください」

 浜崎さん親子はそう言いながら、ぼくたちを外まで見送ってくれた。

「こちらこそ、長々と申し訳なかった」

 課長のその言葉に、浜崎さんは課長とぼくの顔を交互に見て、

「とんでもない。今日は私の方こそ、思わず仕事も忘れて楽しまて戴きました。ありがとうございました。ぜひ、また楽しいお話しをお聞かせください。……片桐さん。美女とのご同伴、楽しみにしております」

 見事な接客スマイルでサラリとダメ押しを言ってのけた浜崎さんに、ぼくは思わず心の中で拍手してしまう。

 課長は苦笑いしながら、

「善処します」

 と、逃げの手を打ったが、『オヤジさん』の方からもひと言。

「それは楽しみですね。私も首を長くしてお待ちしておりますよ」

 ……課長ともあろう人が墓穴を掘ったようだ。

 そこで二人と別れて表通りに出ると、タクシーはまだ来ていないようだった。

「課長、申し訳ありません、今日の支払いは……」

 言いかけた所で課長が手を振る。

「今日の今日でいきなり誘ったからな。気にするな」

 相変わらず、一体、いつ支払いを済ませたのかすらわからないくらい鮮やかだ。

「でも……」

「本当にいいって。ま、懲りずにまたつき合えよ。それでチャラだ」

 ぼくがいくら食い下がっても、こうなると課長も譲らない人なのはわかっていたので、今回は甘える事にした。

「ごちそうさまでした。本当に美味しく戴きました。久しぶりです。ありがとうございました」

「おれもだ。やっぱり忙しくてもたまには飲みも必要だな」

 課長が嬉しそうに笑いながらそう言い、ぼくが同意した所でタクシーが到着した。

 二人で乗り込み、課長が行き先を告げるとタクシーは滑るように発車する。

「ふぅ~。時間をかけたとは言え、結構飲んだな」

「はい。でも本当に美味しい、いいお酒を戴きました。変に酔った気が全然しません」

 課長の言葉に頷きながら答える。……と。

「雪村さん事だが……」

 唐突に課長が切り出した。

「さっきも言ったように、おれにも詳しい事はわからない。わからないが。……彼女には何らかの事情があるのは確かのようだ」

 ぼくが黙ってその言葉を聞いていると、課長は不思議なひと言を口にした。

「藤堂。進むのなら、中途半端にとめるとキツいぞ」

「……え?」

 ぼくがどこに進むと言うのか。そして中途半端に……とめる?とめると何がキツいと言うのだろう。

 意味がわからないまま、課長の横顔を見つめる。その眼差しは真剣で、なのに、何を言わんとしているのかぼくには全くわからなかった。

 不思議そうにしているぼくを振り向き、課長はまた謎のひと言を放つ。

「藤堂、君……自分でも気づいてないだろう?」

 ぼくが?

 ぼくが一体、何に気づいていないと言うのか。

 ぼくたちを乗せたタクシーは、深夜の道を流れるように走り抜ける。課長の後ろの窓には、ポツリポツリと灯るライトが光の束になって流れて行くのが映っていた。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 

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