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かりやど〔伍拾六〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
取り戻したいのはあの日
取り戻せないのもあの日
 
本当はわかってる
 
 

 
 

 美鳥が定期検査の日。
 
 午前中いっぱい掛かると言うので、その間に小用を済ませようと、朗はひとり外出した。マンションに置いてある荷物を、いくつか取りにも行きたかった。
 
 黒沼の件が落ち着いてから、美鳥は本格的に規則正しく、そして穏やかに過ごしている。マンションに戻りたがっているが、夏川の許可は未だ下りていない。むしろ、マンションの契約を終え、このまま一緒に住む事を勧めているくらいであった。
 もちろん、夏川の元にいる方が、昇吾に会いに行くにも都合がいい。何より、夏川の傍にいれば、美鳥の体調管理を任せる事が出来る。朗としてもその方が安心であった。
 それでも、例え今は戻れなくても、三人で過ごした部屋を、昇吾がいた痕跡を。それら全てを断つ事──それを美鳥は一貫して嫌がっていた。
 美鳥の気持ちは、朗にもわかり過ぎるほどわかる。自分だとて、そのまま美鳥とふたりで暮らせるなら……それが出来るものなら、と何度思ったか知れない。しかし、現状では難しい、としか思えないのも事実であった。
 
 久しぶりのマンションに入り、部屋を見て回る。短くも楽しかった三人の生活の痕跡が、そのまま残された部屋。
(……いつか……美鳥とふたりで、ここに戻れる日が来るだろうか……)
 美鳥の望み通り、部屋をそのままにしておいた方がいいのか。それとも夏川の言う通り、部屋を解約してしまった方がいいのか。
 だが恐らく、美鳥が本当に残しておきたいのは昇吾の部屋。昇吾が確かにいた、と言う痕跡なのだ。
「……いつまで残しておいても……昇吾はもう……戻って来はしない……」
 声に出し、自分で自分に引導を渡す。
(……切り換えるためには……美鳥に切り換えさせるためには、解約してしまった方がいいのかも知れない……)
 
 取りに来たものを持ち、朗は夏川の施設へと戻った。
 

 
「朗さま、お帰りなさいませ。もうじきお嬢様の検査も終わられますので、そろそろお昼に致しましょう」
「はい」
 春さんの言葉に迎えられ、朗は着替えのために一旦部屋へと戻った。
 
 荷物も置いて、リビングに戻ると美鳥と夏川もいる。ちょうど検査を終えたところらしい。
「朗、おかえり」
「ただいま。検査は終わったのかい?」
「うん。お腹空いた」
 いつも通りのセリフに笑いが零れる。
「朗さま……食事の後、少しお時間よろしいですか?」
 夏川が切り出した。
「はい」
「……では、書斎の方で」
 何となく意味深である。
(……今、ここでは話せない事なのか?)
 そうは思うものの、そう言われれば聞かない訳にも行かない。
「わかりました」
 返事をしながら、朗はついでにマンションの解約について、夏川にも意見を訊いてみようと決めた。ふたりで話すちょうど良い機会だ、と。
 
 食事を終え、ふたりは夏川の書斎へと移動した。今まで、こんな風に改まって話の打診をされた事はなく、朗の胸に一抹の不安が過る。
「……わざわざ、申し訳ありません」
「……いえ……それで、お話とは……」
 夏川は手元の書類に軽く目を落とし、息を整えているかのようだった。
「……美鳥さまの事です……」
「……はい……何かありましたか……?」
 美鳥の話、である事は、当然予想は出来ていた。むしろ、この切り出し方でそれ以外はありえない、と。
「……実は……ここ何回か、検査の結果が思わしくありません」
 声が出ない。朗は言葉につまった。
「……それは……」
 何を、どう訊けばいいのか、それすら出て来ない。頭の中に、漠然とした『訊きたい事』はあるのに。
「……あの……」
 朗の困惑を読んだのであろう、夏川は小さく頷いた。
「……はっきり言って、良い状態ではない、と言う事です」
 息を飲む。握った手が震えるのを感じながら。まさか、と言う最悪の事態が、胸の中にヘドロのように湧き上がって来る。
「……先生……」
「……昇吾さまの事が、美鳥さまの身体に全く影響していない、とは言いません。……心と身体は繋がっていますから……しかし……」
 夏川は、真っ直ぐに朗の目を見つめた。
「……恐らく、それだけではありません……」
 そう言って、夏川は手元に置いていた紙を朗の方に向ける。何かの比較データである事はわかった。
「美鳥さまの、ここ数回の検査結果……その数値の推移です」
「………………!」
 何の数値、なのか詳しくはわからずとも、確実に下降線を辿っているのは素人目にもわかる。そして、自分が信じられない程に狼狽えている事も。
 薄っぺらい一枚の紙切れが、まるで死刑の宣告書のようだった。
「……その結果が示すように、すぐにどうこう、と言う事はないと思います。逆に良くなる可能性もないとは言えません。先程も申し上げたように、心と身体は繋がっていますから、精神的に落ち着けば、また変わる可能性はあります」
 夏川が、一度言葉を切る。朗の様子を確認するかのように。
「……ただ、美鳥さまの場合、ほとんど前例がないのです。そのため、私にも確かな事はわからず、治療法も確立出来ていません。……もちろん、研究所の方でも対策は進めていますが、それも今のところ絶対的なものはありません。油断は出来ないのです」
 瞬きもせずに手元の書面を眺め、朗は夏川の言葉を遠くの音のように聞いていた。
「……出来る限り、美鳥さまから目を離さないで戴きたいのです」
 朗が顔を上げ、夏川と目を合わせる。
「……わかりました。どんな小さな事も見逃さないように気をつけます」
「……お願いします。私も、可能な限り早く対策を探します」
 ふたりは目で頷き合った。数秒の間。
「……先生」
「はい?」
 今度は朗が切り出す。
「……先生はどうお考えですか?……その……マンションの事です。やはり、解約してしまった方がいいとお考えですか?」
「……私は、解約してしまった方がいい、と……個人的には考えています」
 即答であった。
「……今日、部屋に行った時に考えてて……正直、迷っています」
 夏川が頷く。
「……心の拠り所として残すか、酷なようですが、切り換えるためにスッパリと終わらせるか……と言うところで、ですね?」
「……そうです……」
 躊躇いを含む空気に、美鳥の事だけではなく、朗自身の中にも迷いがある事を夏川は認めた。昇吾の痕跡を全て消してしまう事への迷いを。
「……一度、ちゃんと美鳥さまと話しましょう。……夜にでも……」
「……はい……」
 夏川の言葉に、朗は力なく頷いた。
 その様子に、本当にこれで良かったのか、夏川は自問自答する。
 
 つい数日前、朗が『最後に自分の手の中に残るものは美鳥だけでいい』と言い切った時。その時から迷い続け、あくまで可能性を残した上で、ある程度の情報開示は必要だ、と判断した結果であった。ふたりの行く末に希望を残したい夏川としては、残すためには、かなりの努力が必要である事を示唆する目的もあった。
(……だが、もしも、潰れてしまったら……押し潰されてしまったら……)
 不安が勝りそうになる胸の内で、否、とその考えを否定する。何よりもまず、自分が信じなければ、と。
 
「美鳥さまは、八年前のあの時も……とても助かりそうになかったあの時も、必死に闘って奇跡を起こしました。命に絶対、はない……医者の私が言うのもナンですが、確かに100パーセントはないのです」
「……はい……!」
 夏川の言葉に、朗は少し生気の戻った目で頷いた。
 

 
「美鳥さま、少しよろしいですか?」
 夕食の後、夏川がリビングで寛ぐ美鳥に声をかけた。
「ん?」
 キョトンとした顔で、美鳥がテレビから顔を向ける。
「……マンションの件です」
 単刀直入に本題を切り出した。
「……戻っちゃダメって話……?」
「……もっと根本的な……もう部屋自体を解約して、完全にこちらに戻って生活をして戴きたい、と言う話です」
 瞳を少し翳らせ、窺うように訊ねた美鳥に、夏川は躊躇なく簡潔に答えた。ある意味、容赦のない夏川の言い方に、朗の方が身を強張らせる。
「……解約……」
 美鳥が譫言のように呟いた。
「……そうです。美鳥さまには、こちらで身体の事を第一に生活して戴きたい」
 茫然としているのか、美鳥は微動だにしない。対照的に、夏川の言葉は強気であった。
「……あの部屋を……なくしちゃう、って事……?」
「そうです」
「……どうしても……?」
「そうして戴きたいと思います」
 医師として、美鳥の沈んだ声にも退かずに言い切る。黙って唇を噛んだ美鳥が、クルリと背を向けて駆け出して行った。
「……美鳥……!」
 朗が追いかける。
 ふたりのその背を見つめ、夏川も唇を噛んだ。何が、どれが、正しいのかなど、夏川にもわかっている訳ではなかった。最善、と信じた方向に進んだだけなのである。
 拳を握りしめ、その場に立ち尽くす夏川の背中を、春さんが優しくポンポンと叩いた。
「……きつい事を言い過ぎたでしょうか……私は間違っているのでしょうか……」
 誰に確認するともなく、夏川が呟くと、春さんが少し寂しげに笑いながらも、首を左右に振る。
「……いいえ、先生は間違ってなどおられませんよ。……正しいとか間違いとか、そんな答えはきっとないのです。……お嬢様も、本当はおわかりだと思いますよ」
「……そうでしょうか……」
「そうですとも」
 断言する春さんに、それでも夏川の顔が緩む事はなかった。
 
 リビングから飛び出した美鳥は、自分の部屋ではなく、昇吾の部屋のベッドにペタリと座り込んだ。子どものように。
「……翠(すい)……」
 追いかけた朗が部屋の灯りを点け、後ろから声をかける。
「……どうして……!?……どうして、あのままじゃダメなの……!?……どうして戻っちゃダメなの……!?」
 泣きそうな声に、朗の胸も痛くなった。
「……翠……先生は……」
「……わかってるよ!」
 勢い良く振り返り、言い放つ。
「……だけど……だけど……あの部屋がなくなったら、昇吾が消えちゃう……昇吾の匂いも痕跡も全部なくなっちゃう……!……みんな、なくなっちゃう……!」
 その言葉で朗は、この施設のこの部屋、ではダメなのだ、と理解した。
「……翠……」
 静かに、朗もベッドに腰かける。
「……本当に大切なのは、あの部屋、自体じゃなくて、あの部屋で過ごした……三人で過ごした時間、なんだろう?」
 朗は、手をついて俯く美鳥に問いかけた。
「……どうしてもあの部屋が大切なら、残しても構わない……例え戻れなくても、と言うのなら。……だけど、三人のあの時間は二度と戻らない……もう、昇吾はいないんだ……」
「……朗までそんなこと言うの!?」
 泣きそうな美鳥の目に、挫けそうになる心。必死に鞭を入れる。
「……ぼくが先生に意見を求めたんだ……」
 信じられない、と言う目で、美鳥が朗の顔を見つめた。
「……だけど、迷っているぼくの代わりに、先生が悪者になってくれたんだ」
「……うそ……」
「……本当だ……」
 苦し気な言葉。
「……ホントに本気でそう思ってるの?……朗も……」
「……そうだ……」
 否定するように、美鳥は首を左右に振った。
「……ひどいよ……!……朗は……朗は……昇吾の思い出も何もかも全部が消えちゃっても構わないって言うの!?」
「そうじゃない!」
「だって、そう言ってるのと同じじゃん!そんなの……」
「翠、違う!」
「違わないよ!あんなに仲が良かったのに!」
「……翠!……翠!」
「昇吾の事を大切な親友だって、言ってたのに!……あんなに大切だって……」
「美鳥!美鳥、聞いてくれ!」
 美鳥の肩を掴み、朗は絶叫した。
「……昇吾を大切に思っているのは、きみだけじゃない……。……昇吾を大切に思っていないのか、なんて……きみに訊かれるまでもない……ぼくは……きみよりも前に昇吾と出会って……きみよりも前から一緒に過ごして来たんだ……!」
 絞り出すような朗の言葉に美鳥が押し黙る。
「……かけがえのない、唯一無二の存在だった……昇吾はぼくにとって……きみだけじゃない……きみの事を愛おしげに語る昇吾も……きみが知らない昇吾の姿もぼくは知っている……!」
 美鳥の瞬きが止まった。堪え切れずに零れ落ちる朗の涙に。
「……だけど……!……その昇吾が最後に望んだのは、きみが生きる事……願っていたのは、きみが穏やかに生きる事、だ。……その願いを、どうしてぼくが無視出来る……!?……どうして、きみは叶えてやろうと思わない……!?」
 クシャクシャに歪んだ美鳥の顔。抱きしめた朗の腕の中で、子どものように泣きじゃくり始めた。
「……あの部屋がなくても、肉体がなくても、昇吾の魂は、一番戻りたかった場所へ行ってるはずだ……」
 腕の中で美鳥がピクリと反応する。
「……昇吾の魂は、きみの中へ……」
 
 泣き続ける美鳥を抱きしめ、昇吾を想いながら、朗はひとつの決意を固めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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