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課長・片桐 廉〔7〕~恋情編

 
 
 
 翌日、金曜日。

 朝、専務のところに行く前に朽木に指示を出し、米州部のシマから入り口に向かおうとするタイミングで、ちょうど今井さんが入室して来たのが見えた。

 見たところ、少なくとも表面的にはいつもと変わりなく、藤堂のようにモロに見た目に精神状態を表してしまうタイプではないことがわかる。もちろん、藤堂も仕事に関するダメージはあまり表さないのだが、昔からプライベート面が少し弱い。

 正直を言えば、藤堂のことでも心配なことがあった。先日、国内営業部への説明の際にひと悶着あったらしいのだ。仕事に関してだけなら心配はしないのだが、そこにどうも部署の雪村さんが絡んでいるらしく、その辺りが気になる。

 ……とは言え、おれも人の心配をしている場合ではないのだが。

 今井さんのことが気になりつつ、だからと言って、ここで昨夜のことを話す訳にもいかない。唯一の救いは北条が不在であること。勤怠スケジュール表を見ると、今日は直行直帰、来週一週間は短期出張となっている。

 おれも、今日、北条の顔を見たら冷静でいられる自信がなかった。いつもと同じように振る舞える自信が。もっと正直に言えば、ヤツの顔を見た自分が何をするか予想も出来なかった。

 そう言う意味では、少なくとも10日、心を落ち着ける猶予を与えられたと言うことだ。今井さんにも、おれにも。

 だが、落ち着けたとしても。もう、おれの気持ちは傾いてはいけない方に揺れてしまった。

 あの時、あれだけの思いをしたのに。その自分の決意がまさか揺らぐなんて、これっぽちも考えていなかった。絶対に自分の気持ちは変わらないと確信していたのに、だ。

 思わずため息が洩れる。とにかく、この週末を乗り切らないことには来週末もないのだ、と自分に言い聞かせ、相変わらず気乗りしない専務室へと向かった。

 専務と大橋と、今夜、明日・明後日の詳細を話していると、とりあえずはそこに集中することが出来た。……と思っていた。

 専務が唐突にこう言い出すまでは。

「……片桐く~ん、きみさぁ~……何かあった?」

 何でそう言う鼻だけは利くんだ、この人は。

「……何かあったように見えますか?」

 不機嫌丸出しで答える。一応、上司とは言え、甘い返事をするととことんまで突っ込んで来る人だから、一切合切とにかく流す。十年以上、おれが貫いているやり方だ。

「もう、顔にしっかり書いてあるよ~。ね、大橋くん」

「……はあ」

 振られた大橋も困るだろうに、無表情で視線すら動かさず、見事な棒読みで流し方も堂に入ってる。おれには、到底、出来そうもない芸当だ。

「片桐くんのそんな顔、ぼく、すっごい久しぶりに見たんだけどなぁ~」

「……そうですか?ところで、この件ですが……」

「これは先方の企画部長から連絡を戴いてからですね」

 大橋もおれもひたすらスルー。この手の話に浸かると先に進まないのが専務だ。ついでに言うなら大橋は、ここで専務と同調するとおれの機嫌が悪くなることをわかっているのだ。

「……ふ~ん。ま、いいけど。そう言う態度なら、それはそれで」

 そして専務は面白くなさそうに、わざと聞こえる程度の音量で呟くのだ。

 ……ったく、面倒くさい人だな、相変わらず!おれのこの顔がどうしたって言うんだ!これ以上、良くはならん!

「片桐課長。それと明日の会食の件は……」

 大橋も担々と続ける。しかも、おれのように不機嫌さを表に出さない分、逆に凄みがある。

 こうして、相手にしてもらえずに不満気な専務を置き去りにして、大橋とおれは打ち合わせを進めた。とは言え、ちゃんと打ち合わせの内容は頭に入れている人なのだ、この専務と言う人は。

 昼頃、打ち合わせを区切り、いったん米州部に戻ると、大部屋に入った途端、真っ先に今井さんの姿が目に入る。

 彼女の姿━髪が、目が、唇が、指が、肌が━そのすべてが。おれの意識を捉えて放さない。

 視界の片隅で確認すると、いつも通り仕事中は髪の毛を片側で纏めているので、首筋の印は人からは見えないようだ。恐らく本人は気づいていないだろうし、さすがにおれの口から言うのも憚られるから、そのことは幸いだと思う。

 心を残しながらも米州部のシマに戻ると、さっそく朽木から報告が入る。

「課長。さっき三杉先輩からお電話入って、戻られたら連絡を戴きたいとのことでした」

「わかった」

 三杉と連絡を取って指示を出してから、おれは午後からの打ち合わせに入る前に社食へ向かった。せめて今日の昼メシくらい、専務の相手をせずに食いたかったのだ。

 そう考えると、ひとりで食事する気楽さを塗り替えたのは今井さんとの食事だったような気がする。

『悪くない気分』

 普通であれば「まあ、いいよ」レベルに聞こえる言葉なのだろうが、おれの気分から言えば、かつてないくらいに『いい気分』と同義。むしろ、それを『希望する』レベル。

 心地良い空気感。相性もあるかも知れないが、彼女が意識してそれを作り出しているのか、自然体なのか、まだ本当のところは今のおれにはわからない。わかっているのは、手放しがたいと感じるものを手放す、と言うのはキツいことである、と言うこと。

 まして、おれはもう、手放せないところまで来ているのだから。

 すると途中の廊下、向こうから食事を終えたらしい今井さんが戻って来る。彼女もあまり人とつるんでいる姿を見ない。基本的にひとり行動の方が多いように感じるが、だからと言って寂しそうにも見えない。

 彼女もおれに気づいたようだ。が、特に何事もないかのようにこちらに向かって歩いて来る。

「お疲れさまです、片桐課長」

「おつかれ」

 いつものように挨拶を交わしてすれ違う、その瞬間。

 一瞬、おれに向けた彼女の視線が。

 縋るように、おれの目に飛び込んで来た。……ような気がした。

 場も弁えずに、思わず彼女の腕を掴もうとする衝動を抑え、後ろ姿を見送る。

 追いかけたい。追いかけて抱きしめたい。抱きしめて連れ去り、もう、そのまま自分のものにしてしまいたい。二度と北条の目に触れさせたくない。彼女の目に北条を……いや、他の男を映して欲しくない。あの目を向ける相手はおれだけであって欲しい。

 彼女の姿が見えなくなっても、しばらくその場に立ち尽くしていたおれは、振り払うように頭を振って社食に入った。

 ピークを過ぎた社食は比較的空いていて、トレーを持って適当な席に座ろうとしたおれに、

「かったぎりかちょお~~~」

 一声で誰かわかる明るい声。東欧担当の東郷だ。無駄に明るい呼び方をされるのが恥ずかしいが、まあ、たまには彼とも話すか……と同じテーブルにつく。

「お疲れさまです、課長!」

「おつかれ。いつも元気だな」

「おれ、元気だけが取り柄ですから」

 そんな風に言うが、彼は仕事に関しては有能な男だ。無駄に明るいのと無駄に口数が多いのと無駄に好奇心旺盛なのがタマに傷だが。

「課長、今日は珍しいですね。ひとりで社食なんて」

「ああ。今日の夜から明後日まで、社長と専務に引っ付かなくちゃいけなくてな。その前に少し気楽にメシを食いたかったんだ」

 東郷はおれの言葉に納得したように頷き、その後、無駄に脈絡がない彼らしいが、唐突に話題が転換した。

「……里伽子先輩、何かあったんですかね……」

 ドキッ。

 ぼんやりしているようで意外と鋭い。

「……何でそう思うんだ?」

 食べながら、無関心を装って訊いてみる。

「先輩、さっき窓際の2人テーブルに座って、ひとりでぼんやりと食事してたんです。いつもなら面倒くさそうな顔をしても、近寄って行くと拒絶的な態度を取られることないんですけど……」

 おれは手を休めず、目だけを東郷に向けて聞いていた。

「今日は……おれに、って言うより、周り全部に『今日は誰も近寄るな』みたいな空気を発してて……あんな里伽子先輩、初めて見ました」

 表現はともかくとして、言いえて的を得ていると思う。やはり意外と鋭い。だが、さっきおれに見せた彼女の目は……。

「機嫌が悪かったんじゃないのか?」おれの適当な返事に、

「……違うと思います」と即答。

 ドキドキッ。

「……何でだ?」

「里伽子先輩は、単に不機嫌なだけなら顔にも態度にも出しません。……ってか、顔だけ見てるといつも不機嫌そうですから」

 おれは味噌汁を吹きそうになった。確かに。だが、よくもまあ、彼も失礼なことを平気で言う。朽木に劣らず命知らずだ。

「じゃあ、何か他にあると思うのか?」

 今井さんに関することだからか、つい、余計なことを突っ込んでしまったのがいけなかった。

「……北条先輩と何かあったんじゃないかと思うんです」

 ドキドキドキッ。

 味噌汁のワカメが気管支に流れそうになり、危うくむせそうになる。何つー鋭さだ。

「北条と?何でだ?」

 ついつい、話に乗せられているおれ。

「……北条先輩、ずっと里伽子先輩のこと好きだったみたいですし……」

「……え?」

 おれは言葉を失ってしまった。北条が?今井さんを?ずっと好きだったって?

「まあ、おれの予想なんですけど。おれが入社した時には既に好きだったんじゃないかと思うんですよね」

 そんなに前から?まさか……おれが北条の態度が変わったことに気づいたのはついこの間だぞ?東郷はそんなに前から気づいていたと言うのか?野性の勘とでも言うのだろうか。ならば、北条は何故、今頃になってあからさまに態度を変えて来たんだ?

 しかし、それが本当だとするならば。もしそのことを、おれが今井さんを初めて食事に誘う前に知っていたら、おれはきっと彼女を誘っていなかった。

 本来、北条という男はレベルは高い。今井さんよりひとつ歳下とは言え条件的には申し分ない。彼ならある意味、藤堂よりは今井さんとも合うだろうし、お似合いと言える。何事もなければ、おれも人に紹介して憚らない男だ。

 だが、今となっては、おれも既に退けないところまで来てしまっている。いくら北条にでも……いや、これがもし仮に藤堂だったとしても、おれは……。

「……ホントはおれだって里伽子先輩好きだったんですけどねぇ~……」

「ごふっ!」

 今度こそ、おれは盛大にむせた。

「まあ、里伽子先輩の範疇に入ってないのはわかってたんで、端からあきらめてましたけどね」

「……そうなのか?」

 おれは何とか咳き込みから立て直す。おいおい、何なんだ?今さらこの展開。

「おれは、ですけどね。だって、里伽子先輩……ずっと気になる人がいるみたいな感じだったんですよね」

 マジか……。

「でも、北条先輩はそんなこと気づいてなかったかも、ですし。おれよりかなり本気だったみたいですし」

 コイツ……このぼんやりした体で、何度、おれに爆弾落とせば気が済むんだ。

 その夜、社長と専務と別れて帰宅し、急いで明日・明後日の準備の確認をする。

 シャワーを浴びてベッドに倒れ込む。時計を見ると23時30分を過ぎていた。昼間の今井さんの目が脳裏を過る。

(もう寝ているだろうな)

 そうは思うものの、気になって仕方ない。東郷の話を聞いたせいもあるだろう。東郷はともかくとして、まさか北条がそんなに前から今井さんを想っていたとは。

 もし、知っていれば……いや、それでもこうなる運命は避けられなかっただろうか。

 考えながら、携帯電話を手に取り、迷いながらメールを送る。

 ひと言だけ。

『大丈夫か?』

 いったい、何が大丈夫なんだか。送ってから自分で突っ込む。

 サイドボードに携帯電話を置いて灯りを落とし、仰向けになって天井を仰ぐ。

 ━と、携帯電話に着信が入った。

 驚いて確認すると、今井さんからの返事。

『はい。大丈夫です』

 今井さんらしい。だが、手書きでも何でもない、そのたったひと言のメールの文字が……何故か泣いているように感じて。

『おやすみ。また明日』

 明日は彼女は休日だし、おれは社長たちに同行で顔を合わせる訳ではない。それでも、こう書けばきっと、彼女には通じる気がした。

『はい。おやすみなさい。お気をつけて』

 すぐに送られて来た返事を確認し、おれは短い眠りについた。明日も明後日も、社長たちから解放されたら連絡しよう、と決めて。
 
 
 
 
 
~課長・片桐 廉〔8〕へ続く~
 
 
 
 
 
 
 
 

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