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かりやど〔四拾七〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
愛している
互いに恋ではなくても
 
ただ、その存在そのものを
愛おしく思う
 
 

 
 

 この身に、生まれて初めて『悪意』をぶつけられた日。
 それは、生まれて初めて『光』と出逢った日でもあった。
 
 生涯、私を照らし、導いてくれるはずの光に。
 

 
 男の唇が微かに震えた。
 
 苦しげに呼吸をしながら、赤い筋を引く唇が何かを伝えようとしている。聞き取ろうと、美鳥は男の唇にそっと耳を寄せた。
「………………」
 美鳥の瞳が僅かに拡大し、そのまま数秒、呼吸と共に止まる。やがて、ゆっくりと睫毛が半分ほどに伏せられた。
 今度は美鳥が、男の耳元に唇を寄せる。
「……私もだよ……」
 男にしか聞こえないであろう、小さな小さな声。だが、この上なくやわらかい色で囁く。
 その囁きを受け、男の目が、そして口元が、満足気な笑みを浮かべた。
 ──と、男が咳き込んだ。男の頭を、美鳥は胸に抱きしめた。治まるまで。
 苦しい息の下、男が微かに開いた目で美鳥を見上げ、見つめ返した美鳥がその唇に口づける。深く、深く。
 頬に触れる男の手が、一瞬、強く美鳥を引き寄せ、やがてスローモーションのように滑り落ちた。
 血の跡を、まるで鳥が啄むように自分の唇で拭い去り、美鳥が顔を離す。それからもう一度、耳元に唇を寄せ、囁いた。
「……私も愛してる……」
 唇を噛み──。
「……ずっと……」
 耳に口づけ──。
「………………う………………」
 
 そっと、名前を呼んだ。
 他の誰にも聞こえないように。
 本人にだけ聞こえるように。
 本人だけへの言葉と共に。
 
「……今の銃声は……!」
 足音と共に飛び込んで来た男が、室内の惨状に目を見張る。状況はひと目で把握出来た。だが、心がそれを拒否したがっている。例え、理性が肯定しても。
 茫然と立ち竦む。
「……そんな……」
 呟き、悪い夢を見ているような面持ちで目の前の光景を見つめ、一歩。
 操られた人形のように、また一歩。
 足元が不安定な場所を、踏みしめながら歩くように美鳥へと近づき、そして、膝から崩れ落ちた。
「……ばかな……こんな……」
 いやいやをするように首を振り、美鳥の腕に抱かれた男を諸共に抱きしめて顔を埋めた。
「……こんなこと……こんな……お前……」
 その目から、堪え切れずに涙が伝う。
 
「…………昇吾…………」
 
 いつの間にか、扉のところに本多も立っていた。抱き合う三人を黙って見つめ、静かに伊丹に添う。
 
「……朗……昇吾をお願い……」
 美鳥が俯いたまま言った。そして、朗の耳元に顔を寄せ、さらに小さな声で囁く。
「……昇吾の耳を塞いでいて……これから私が言う事を聞かなくて済むように……絶対に昇吾に聞かせないで……」
 言われた瞬間、意味が読み取れなかった朗ではあったが、すぐに美鳥の意図する事を理解した。これから美鳥は、昇吾には聞かれたくない事──核心を口にしようとしているのだ、と。
 頷き、昇吾の身体を抱える。
 それを確認し、美鳥は立ち上がった。幕内にいる相手に真っ直ぐ向き合う。
 
「伊丹」
 美鳥が目配せすると、伊丹は幕の方へ歩を進めた。同時に、敵と美鳥の間に当たる位置に本多が移動する。
 伊丹が一番外側の幕を捲り上げた。
 そこには、右手を押さえて顔をしかめる男の姿。先ほど伊丹が銃を撃ち落とした者であろう。
 そして、その後ろ側、内側の薄い幕に隠れた人影が顕になる。
 その裾から見える脚は──。
 
(……女……!?)
 驚いた朗が息を飲む。
 ゆっくりと本多の立つ辺りまで近づいた美鳥は、その口元に得も言われぬ美しい笑みを浮かべた。
「この屋敷にいる者は、全て拘束済みです。東京にいる黒沼代議士も、室田と小野田も、身動き取れないように全て押さえてある。つまり、あなたを助けに来る者はひとりもいない、と言う事です」
 淡々と、だが冷酷に言い放ち、邪魔な男をどけるよう、伊丹に合図する。
 それを確認し、もう数歩進むと、口元から笑みを消した。完璧なまでに、感情を消し去って。
「……こうまでして、あなたの望みは本当に叶ったのですか……」
 何の反応もない相手に、ひとり続ける。
 
「……曄子(はなこ)叔母様……」
 
 薄幕の内で僅かに反応した『敵』が、観念したのか姿を現した。だか、少し高い位置から美鳥を見下ろす目には侮蔑が込められ、とても観念したとは思えない。
 
 その姿を見て、朗は驚愕で声も出なかった。
(……曄子義叔母さんが……生きていたなんて……)
 朗には信じられなかった。だが、死んだと思っていた美鳥も生きていた。美薗が代わりとなって死んだのだ。
 何より、今、目の前にいる曄子は、朗の記憶にある曄子そのものだった。誰か他の人間が、美薗のように身代わりにされたのだ。曄子の遺体として。
 
 年齢を経て尚、美しい華、と言う形容がぴたりと来る叔母──ただし、毒を含んだ華ではあるが──を、美鳥も朗も真っ直ぐに見つめた。
 
「……何故、お前が生きているの」
 蔑みに加え、憎しみまで湛えた目。
 思えば、この叔母には一度として、優しい言葉をかけてもらった事もなければ、眼差しを向けられた事もない。抱き上げられた事も、頭を撫でられた事すら。美鳥は記憶を手繰る。
「……さあ?神の思し召しか……いいえ、地獄の沙汰ですわね……あの世から舞い戻って来ましたわ……皆、道連れにするために」
 何の感情もこもらない美鳥の言葉に、まさに柳眉が吊り上がった。
「……忌々しい……!……お前と言い、昇吾と言い……!……わたくしの息子のくせに、わたくしの邪魔ばかり……」
「気安く昇吾の名を呼ぶな!母親面して……お前が!」
 遮る美鳥の声が響き渡った。
 一瞬、怯んだ曄子が睨みつける。
「……わたくしに向かって……わたくしはお前の叔母なのよ!そのわたしくに向かって、お前、だなどと!昇吾も昇吾だわ!お前などを庇って、わたくしの邪魔をするなんて……!最初から産まれて来なければ良かったのよ!」
「……昇吾の事だって、元を辿ればあんたのせいだ……!……違うとは言わせない……私は……私は全部知ってる……どの道、あんただって、私を姪だなどと思った事、一度もないくせに……!」
 皮肉をこめて、鼻で笑う。
「……当たり前だわ、お前のような…………でも、そうね……ひとつだけ訊いておくわ……何故、わたくしだとわかったの?」
 翠玉が真っ直ぐに、曄子へと光を放った。
「……わかったんじゃない……知ってたんだよ……はじめから……」
「……何ですって?」
 美鳥の言葉に驚いたのは曄子だけではなかった。後ろで昇吾を抱えていた朗も、その言葉に意識が釘付けになる。
「……あんたも……誰も気づかなかった……私が聞いていた事に……」
 脳裏に甦る記憶。朦朧とした意識の中、確かに聞き覚えのある声。
「……あの時、私には全部わかった。松宮邸の事件だけじゃなくて、今までずっとずっと不思議に思っていた事が……謎が全部解けた。……父様が教えてくれなかった事も……ううん、違う……父様は教えてくれなかったんじゃない……話したくなかったんだ」
 
 自分だとて、思い出したくなくて逃げていたのだ──美鳥は思い起こす。逃げて、逃げて、逃げて、それでも恐ろしくて。だが、逃げている事は、それ以上に恐ろしかった。常に追いかけられている感覚からは、どうしても逃れる事が叶わなかったから。
「……私がもっと早く思い出していれば……もっと早く辿り着いていれば……昇吾はこんな風に……」
 ふたりの話を、朗は美鳥の背中を見つめながら悲痛な面持ちで聞いていた。確かに昇吾には聞かせられない、と。
(……あれほどまでに、美鳥が昇吾に言いたくなかったのは、このせい……)
 だが、美鳥の話はそれだけではなかった。
 
「……始まりはお祖父様だったのかも知れない……異常なほどの松宮存続への執念……歴代の当主は少なからずそうだっただろうけど、お祖父様の場合、当主にとってあまりに不安材料が多過ぎた。父様には、お祖父様のような手段は無理だった。松宮を守るためでも……ううん……むしろ松宮を守るための、他の手段を必死で探していた。あんたは、どんな手段でも使う事が出来た。ただし、自分のためにしか使えない女だった。それが、お祖父様にとっては最大の難問だった」
 再び、声音から感情が消える。知りたくて、訊くことが出来なかった真相──朗は、しっかりと昇吾の耳を塞ぎながら、自身は美鳥の話に耳を傾けた。
「……時代が関係あるのか、それは私にはわからない……。でも、父様のように、財閥の意義に疑問を持つ次期当主、尚且つ、ただでさえ生殖力が弱いのに、次世代へ繋ぐ事への執着心のなさ……何より……」
 目の前にいる『叔母』の顔を見据える。
「……あんたと言う娘の存在……」
 曄子は面白くなさそうに鼻で笑った。何をどうしても、美鳥に対する蔑みしか見出だせない表情。そこに、さらに怒りが加わる。
「……わたくしの存在が何ですって?……わたくしはお父様の言う通りに、家のために好きでもない男の元に行ったのよ!松宮の娘としての役割はちゃんと果たしたわ!なのに、何でそんな言われ方をしなくちゃならないの!?お前などに……そんな事を言われる謂れはないわ!」
「……それが本当に、松宮のためだったなら、ね……」
「……何を言うの?」
「……だって、違うでしょ?松宮のため、じゃなくて、松宮を滅ぼすため、じゃん?……そりゃあ、あんたが何もしなくても、いずれは解体したかも知れない。それならそれで運命だと思える……でも……」
 美鳥がちらりと後ろを見た。
「……お祖父様が望んだのは……ううん……そもそもお祖父様は、はじめは義叔父様とあんたの結婚に乗り気じゃなかった。あんたの性格も、そして望みにも薄々気づいていたから。だけど、義叔父様にぜひにと乞われ、それなら、と受け入れた。うまく行くのなら、緒方グループの事を知り、松宮との架け橋になるよう期待して。だから、緒方の義叔父様に黒川を紹介したりもした……でも、あんたには緒方グループの真の社長夫人になる気なんてなかった。受け入れたフリをしてただけ……他に方法がなかったから……本当の思惑を隠して」
 恐ろしい形相で、曄子は美鳥を睨みつけていた。
(……本当の……思惑……?)
 朗は、本当にこれが曄子なのであろうか、と寒気すら覚える。確かに、元々親しみのある義叔母ではなかった。だが、それでも朗の目には、叔父である信吾が曄子を大切にしているように見えていたのだ。
(……叔父さんは……何故、政略的な結婚なんてしたんだろう……?……いくら緒方グループ社長だからと言って、そんなタイプの人には見えない……。むしろ、やむを得ず結婚したと言うのなら、あんなに……大切に扱うだろうか?)
 その時、朗の心中の疑問を読んだかのように、美鳥は語りだした。
「……緒方の義叔父様は……本当にあんたを好きだったんだ。だから、お祖父様に掛け合った。松宮の家系が、子どもを授かりにくい事も全て承知で……だからこそ、昇吾の事も心から大切に思っていたんだ……なのに……」
 曄子は相変わらず顎を反らし、他人事のように聞いている。いや、聞いているのかも定かではない。それでも美鳥は続けた。
「あんたは、松宮を裏切った時、同時に緒方も裏切った。黒川を皮切りに、他の須田たちとも繋がりを作り、財閥の解体を狙う奴らとも手を組んだ……自身の目的を果たすために、協力するフリをして、逆に向こうに協力させた……利用したんだ」
 突然、曄子が笑い出した。気がおかしくなったのではないか、と思うほど高らかに。
「……何の事を言ってるのかしら?わたくしが松宮を裏切っただの、自身の目的を果たそうとしただの……じゃあ、訊くけど、わたくしの目的が何なのか言ってごらんなさいよ。……言えないんでしょう?わたくしにはそもそも目的なんてない……」
「……じゃあ、何であの事件で死んだフリをしてたの?何もないなら、あんたが死んだ事にする理由はない。生き残ったからと言って、何の不都合がある?唯一、残った直系として、松宮の全て受け取るのに、何の問題がある?」
「……そんな事、知れてるわ!それじゃあまるで、わたくしが松宮の財産目当てみたいじゃないの!……冗談じゃないわ!」
「……そうだよ。あんたには他の目的があった。あんたが欲しかったのは、松宮の家でも財産でもない」
「……何ですって?」
「……あの日、父様が発表しようとしてた事を、あんたが知らなかったはずはない。そして、黒川たちが知っていたはずはない」
 美鳥を睨みつけたまはま曄子が黙った。
「……あの日、父様は自ら松宮を解体する事を発表するつもりでいた……」
 
「………………!」
 朗は必死で声を抑えた。
(おじさんが……松宮財閥を自ら解体……!?曄子義叔母さんの目的とは何なんだ……!?)
 
「黒川たちがどんなに説得しようとしても、父様が頑として受け入れないフリをしていたのは、解体の準備する猶予を確保するためだった。それが、黒川たちに凶行を思いつかせる事になってしまった。だけど、もし、黒川たちがそれを知っていたなら、父様たちを殺す理由はなくなる……つまり、あんたの目的を果たすための足掛かりも共犯者もいなくなる……だから、あんたはわざと、父様の考えを黒川たちに話さなかった……」
 曄子の顔色が明らかに変わった。睨みつけながらも唇を噛んでいる。
「……だって、計画が中断されてしまったら困る……あんたの目的は果たされなくなるから……」
「……だから、わたくしには目的なんてないわよ!松宮の財産目当てだと思われるのが嫌だっただけだわ!」
 追及から逃れようとしたのか、曄子が気が狂ったように喚いた。美鳥は小さく笑って睫毛を伏せる。
 
「……財産目当ての方がどれだけマシだったか……だって、あんたが消そうとしてたのは邪魔者全てで、手に入れようとしてたのは……」
 美鳥が目を開き──。
「……父様だ……」
 
 曄子は忌々しげに歯軋りをし、朗は驚愕で身動きひとつ出来なかった。
 

 
 その声は、こう言っていたのだ。
 
『これでやっと、お兄様は私のものに』──。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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