魔都に烟る~part16~
ガブリエルが一歩踏み出すと、その周囲の空気が重苦しい渦のように蠢いた。
その黒い空気を従え、ガブリエルが一歩、また一歩と近づいて来る。
右手を横にかざし、手の平を上に向けると、そこに実体のない黒い何かが現れた。その何かが、先の尖った槍のような物を形作る。
ガブリエルはそれを握ると、不意にレイたちの方へと投げつけた。
ローズの身体を軽く押し遣り、自らも反対側に身を逸らす。━と、同時に前屈みになると、ガブリエルとの距離を一気に詰めた。
そのスピード。それは、初めてレイと遭遇した際、ローズが驚愕したあの動きであった。詰めながら、レイがガブリエルに向かって何かを投げつける。
レイの手から放たれたそれは、宙を切るようにガブリエルへと襲い掛かり、到達寸前、変化した形は人形(ひとがた)のように見えた。
(……あれは……!?)
ローズが訳もわからず見ている間に、ガブリエルは逆にその“人形”をレイに向かって払い除けて距離を取る。
二人の動きを、ローズはただ黙って見ていることしか出来なかった。何か本能のようなものが、そこに割り入ってはいけないことを告げている。
「この程度のこと、私に通用するとは思っていないでしょう?」
ガブリエルの挑発的な言葉に、やはり何の反応も示さないレイ。無言のまま視線だけを放っている。
一向に挑発にのる様子がないレイに痺れを切らしたのか、ガブリエルが片手を前に差し出し、指を手招きのように動かした。同時に口角を上げて微かに目を揺らす。
━ローズの方へ。
「………………っ!」
ほんの僅かな空気の歪みを感じた次の瞬間、ローズの身体は先程の槍のような何かに拘束されていた。縄で縛り上げられているような感覚。あまりのキツさに顔が歪み、小さな悲鳴が洩れる。
それでもレイの表情には一分の変化もなかった。チラリとローズの方を見たかと思うと、すぐにガブリエルに視線を戻し、初めて口を開く。
「……あなたの方こそ、そんな子供騙しでこちらの動きを封じることが出来るとでも?」
やっと反応したレイに、ガブリエルは片方の唇の端を上げ、自信ありげな笑みを浮かべた。
「……そんなことを言っていいのですか?現に彼女は、抜けることも防ぐことも出来ずに苦しんでいますよ?」
そう言うと、さらにローズの身体をキツく締め上げるような仕草をする。
「……っ……あ……!」
ローズの顔に苦悶の色が増した。脂汗が浮かび、白い肌が蒼白になっている。それでも、レイは一瞬そちらを見遣っただけで、眉ひとつ動かす気配はなかった。
「強がりも、そこまで行くと大したものですね」
そう言ったガブリエルは、目を奪うほどに美しく残忍な笑みを見せ、掲げた手を少しずつ動かした。それと比例するようにローズの眉根も歪んで行く。
「もう少し力を入れたらどうなるでしょう?」
━その瞬間。
パーーーン!
レイが手を打つ清冽な音が、少しの濁りもなく響き渡り、
「ルキア・ローズ!」
レイの声が突き抜けるように放たれた。
「…………!」
弾かれたようにローズの身体が反応する。同時にその瞳が見開かれ、金色に輝いた。
レイが放った拍手(かしわで)の音、そしてフルネームを呼ぶ声は、耳よりも先に脳の中枢に直接届き、ローズの身体中を波紋のように巡って行く。
ローズの額に浮かび上がった不思議な模様が輝くと、拘束していた実体のない黒い縄は溶けて崩れ落ちた。力を失い、落下するローズの身体を受け止めたのは、いつの間にか追い付いて来ていたヒューズであった。
「……何っ……!?」
ガブリエルが一瞬怯む。その隙を見逃さず、レイはガブリエルに再び何かを放った。
「……護符か……!」
呟きながら、レイが放ったものを払い除け、懐から小さな瓶を取り出す。蓋を開けると、中身を宙に向けて撒き散らした。
それを避けて飛び退いたレイ。その背後から不意に飛び掛かる人影。
「…………!」
いつの間に戻って来たのか、一瞬の隙を突いたのはアレンであった。
「この空間の中、意識を操れば気配も希薄になる。さすがの伯爵でも気づくのが遅かったようですね!」
間髪入れずにレイに向かって何かを放つ。空を切って襲い掛かった何かが、レイをアレンもろとも拘束した。その圧力にアレンが奇声をあげる。
さらに、再び作った先程の黒い槍のようなものを投げつけた。さすがに動けなかったのか、レイが口の中で何かを唱えると、その槍は壁に当たったように弾け飛ぶ。
「ほらほら、伯爵。アレンが潰れてしまいますよ」
見れば、レイの額からも僅かに血が流れていた。完全に避けることが出来なかったのだ。しかし、それでも動じた様子はない。
あくまで無表情を貫くレイに、ガブリエルもいい加減諦めたのか、何も言わずに二人の拘束を強めた。
「……ぐぅ……っ」
カエルが潰れるような声と共に、アレンの身体からイヤな音がする。圧力に耐え切れず、ひしゃげてしまったのだ。
ヒューズに支えられながら、ローズは思わず目を背けた。
今まで多くの無惨な姿を見て来てはいたが、やはり慣れるものではない。まして今、目の前で、生きている人間が、しかも見知った相手が無造作に潰されたのである。
「ゴドー伯爵。残念ながら私の勝ちです。その拘束が解けたとしても、もう遅い」
ガブリエルの勝ち誇った声に、ローズは顔を上げた。不安気にレイを見つめるが、彼の顔に焦りの色はない。
「……こんな拘束で私に勝ったつもりですか?」
ここに於いても無機質なレイの声。ガブリエルが鼻で笑い、青い目をギラつかせた。
「気づかなかったようですね。あなたの護符の弱体化に……先程、アレンにあなたの身体に施すようにしておいたのですよ」
レイの瞳が一瞬揺れたのをローズは認めた。恐らくガブリエルも気づいているであろう。思わず息を飲んだが、レイの口から放たれた言葉は彼女の予想とは違っていた。
「確かに、アレンが何かしたようですね。それにしても、本当に私に勝ったとでも?」
「……お前は本当に不遜な男だな。私に向かってそんな言葉を言っていいのか?」
あくまでも坦々としたレイの様子に、ガブリエルは呆れたような、それでいて可笑しそうな調子で応える。だがローズにとっては、彼が微妙に言葉遣いを変えたことの方が気になった。
そして次の瞬間、ガブリエルの口から放たれた言葉。それは、ローズの全機能を停止させるほど衝撃的なものだった。
「……仮にも私はお前の兄だと言うのに」
その時、ローズは自分の頭の中で何かが弾けたような気がしていた。
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