かりやど〔参〕
『 も う も ど れ な い 』
*
笑っておくれ
一番の笑顔で
いつでも思い出せるように
出かける前にはいつも
必ずお前の笑顔を見たいんだ
*
一週間後。
某・ターミナル駅のロータリーには、つけ毛とスーツに加え、今度は細いフレームの眼鏡まで着用した夏川美薗──翠──の姿。
そこで落ち合った坂口に伴われ、翠は閑静な場所に佇む高級料亭の、ひっそりと奥まった一室を訪れた。
緊張した面持ちの坂口が、襖の前でしゃがんで咳払いまでし、中の人物に向かって声をかける。
「……先生。北信の坂口です」
息をする音さえ憚る様子の坂口に、翠は笑いが洩れそうになるのを堪えた。
『……入れ』
数秒の間の後、年輩の男の声が返って来た。恐らく『先生』の声なのだろう。
(……えらそうに……)
翠の内心には、バカにしたような言葉しか浮かばなかったが、そこは無表情を貫く。
「……失礼します」
坂口は静かに襖を開けた。深々とお辞儀をし、翠を促しながら室内へと進む。
当然、正面の上座に座っている男が『先生』であろう。歳の頃は60代後半から70代くらいであろうか。
これと言って特徴のある外見ではないが、眼光だけは鋭いため、威圧感は充分にある。その目が、油断なく空間内全てを把握しようとする様を、翠は入室の一瞬で見て取った。
(……この男が……)
坂口は『先生』の左隣にいる、恐らく秘書であろう若い男にも会釈し、
「……先だってお話し致しました……」
勿体ぶった口調で切り出す。
その男が『先生』に小さく頷くと、「ふむ」と顎に指を当てた。
「……きみが私に会いたいと言う……」
翠は下げていた頭を少しだけ上げ、伏せ目がちに答える。
「はい。本日はお目通り叶い、光栄に存じます。夏川美薗、と申します」
口上を聞くと、若い男に向かってに小さく頷いた。
「当然、ご存知でお出でくださっているかとは思いますが、こちらは代議士の副島(そえじま)大造先生です。私は先生の秘書で小半(おながら)と申します。どうぞ、お楽に……」
代わりに紹介をしたその男が、翠に顔を上げるよう促す。
静かに副島に顔を向けると、初めて会った時の坂口のように、翠のことを上から下まで見遣る視線。だが、この副島と言う男には坂口のような小物感はなく、俗物ではない気配も漂っている。それを察知した翠は、今度は不用意な笑顔を向けたりはしなかった。
「……ほう……話には聞いていたが……若い。夏川くん、と言ったかな。きみのように若い女性が、一体、私に何の用があるのかね?」
翠は副島の目を真っ直ぐに見つめ、微かに口元を緩めた。
「……単刀直入に申し上げます。私は先生のお役に立つつもりで参上致しました」
単刀直入にも程があり、尚且つ、外見とは裏腹の自信に満ちた言葉。坂口も小半も、そして副島までもが瞬きを止めて翠を凝視した。
「……どう言う意味かな?」
副島が警戒したように訊ねると、
「言葉の通りです」
臆することなく返す。
しばし、ふたりは黙って視線を交えた。その様子を、小半と坂口が息を潜めて窺っている。
「……私は、この国を動かす力をお持ちなのは、今や副島先生だけだと考えております。私になら、先生のご活動を陰ながらお手伝い出来るのではないか、と……」
「……なるほど……」
翠が暗に匂わせていることなど、当然、容易く見抜いた副島は、少し考えを巡らせるように小さく頷いた。
「……私を支持してくれる存在が増えるのは嬉しいことだ。まして、若い力が支持者に加わることは頼もしい。だが、私も単刀直入に言わせてもらうと……」
口元には微小な笑みを浮かべながらも、さらに鋭さを増した目が翠を捉える。
「……世間には、私を支持しない者も数多い。この段にして、きみを全面的に信用することは出来ない」
信用したフリ、をしてでも、とりあえず取り込もうとはしないらしい。その言葉に、視線の角度を変えた翠は、さらに口元を緩めた。
「……当然のことと承知しております。ですから、信用出来るか出来ないか、今後の私を見て、じっくりと判断して戴ければ……」
強気な態度は紙一重とわかっての発言なのか、だが揺るぐことなく続ける。
「……誰にどんなふうに思われようと、私は先生のお力になれると自負しております」
坂口は唖然とした表情を浮かべているだけであったが、小半は強い視線を翠に向けていた。警戒しているのか、それとも──。
副島も翠の目をじっと見つめていたが、突然、面白いものでも見たように笑い出した。
「……大したものだ。坂口くんよりもよほど胆が据わっている。……面白い……ならば、私を納得させてみるがいい」
その言葉に、翠はニコリと微笑む。
「……今度、私が主催する集まりに参加してみたまえ。私の支持者が一堂に会する場だ。詳細は小半と打ち合わせるといいだろう」
副島の言葉に、小半が素早く名刺を差し出した。翠も連絡先を返す。
「ありがとうございます」
翠の言葉に頷いた副島は、少し考えるように黙り込んだ。
「……先生……?」
いち早く反応した小半が、心配そうに副島に呼びかける。
「……いや、何でもない。私もここしばらくで、急激に仲間を失ったのでな。支持者が増えるのは喜ばしいことだと思っただけだ」
それを聞いて、小半は目線を下げながら押し黙った。重苦しい沈黙に耐えかねたのか、坂口が口を挟む。
「……お三方には本当にお気の毒でした……」
「……坂口専務……!」
坂口の不用意な言葉に小半が釘を刺した。慌てて口を噤んだ坂口が副島の顔色を窺う。すると副島は手で小半を制し、
「小半……まあ、いい。本当のことだし、どうせそのうちわかることだ」
そう言って翠の方を見遣る。
「有志の中でも、特に私を応援してくれていた者がな……相次いで亡くなったのだ。自殺、事故、不審死……皆、長年、私を支えてくれていた者ばかりだ」
「……そうでしたか……」
翠は殊勝な面持ちで相槌を打った。
「私がここまで来れたのは、彼らと……そう、そして、何よりも松宮総帥のお陰と言っても過言ではない」
「……松宮……」
呟いた翠を尻目に、
「松宮、と言うと、あの松宮財閥の総帥ですか!」
坂口の方が興奮したように食い付いた。
「そうだ。……夏川くんは若いから知らないかも知れないが……」
坂口へは短く返し、視線を翠の方に向ける。──と。
「……何年か前に解体した、あの松宮財閥のことでしょうか?」
翠の返事に、副島は少し驚いた表情を見せた。
「ほう。知っているのか」
「お名前だけは……確か、ご当主の一族が……」
頷きながら、副島はその目に感心したような光を浮かべた。初見で信用は出来ない、と言いながら、翠のことをかなり気に入った様子が窺える。
「……全滅させられたのだ……何者かによって」
副島が続けた言葉に、しゃべりたそうにしていた坂口が再び口を噤んだ。さすがに余計なことは言えない、と気づいたのであろう。
「……先生は松宮財閥と関係がおありだったのですか?」
翠が問う。
「元々私は、松宮財閥の先代の当主であった昇蔵氏にお引き立て戴いたのだ。最後の当主であった陽一郎くんにも、引き続き世話になったものだが……惜しい男を失くした」
誰も言葉を発さない空間。いや、正確には発せないのであろう。だが、普段、ほとんど感情が表れることのない翠の目に、僅かな色が見て取れた。
「……つまらない話をしたな」
副島が言ったところで、
「先生。そろそろお時間です」
恐らくタイミングを計っていたのであろう、小半が切り出す。
「……そうか。では、今日はこれで失礼しよう」
「先生……本日は、本当にありがとうございました」
翠が頭を下げると、坂口が慌てて追随した。
「では、また会おう夏川くん。待っておる」
副島の言葉に、
「後日、改めて日程のご連絡を致します」
小半が付け足す。翠は頷いて会釈した。
帰りの車の中、坂口はそわそわしながら翠の横顔を窺っている。翠はその様子に気づきながらも何も言わず、堪えた笑いを口の中に含んでいた。しかし、ついに我慢出来なくなったのか、坂口が遠回しに切り出す。
「……私はお役に立てたと思って良いのでしょうか?」
翠は前を向いたまま、口角を微かに持ち上げ、ゆっくりと坂口の方を向いた。
「……ええ、とても」
真紅の薔薇のように艶やかな笑顔を浮かべ、真っ直ぐに目を射抜きながら答える。一時停止ボタンを押されたかのように、坂口が動きを止めた。
「……で、では……」
上ずった声。既に、頭の中が期待と妄想でいっぱいになっているのがひと目でわかる顔。
「……明後日……坂口専務のご都合が宜しければ、まずはお礼にお食事でも……その後で……如何でしょう?」
上目遣いで訊ねる翠に、目を見開いて見惚れたまま、坂口の喉が大きく波打った。
「……は、はい……」
「では、初めてお会いしたホテルのレストランで……19時では?」
完全に主導権を握った翠が、断られることなどありえない、と言う風に提示する。
「……わかりました。明後日、19時に伺います」
にっこりと笑った翠が微かに頷き、視線を前に戻すと、車はちょうどターミナル駅のロータリーに合流するところであった。
「ありがとうございました。では明後日、お待ちしております」
最後をそう締めた翠を降ろし、坂口の車がロータリーを流れて行く。
「……いくらお金だけはあっても、何の肩書きもない一介の小娘じゃあ、アポも取れないのが世間、だもの。そう言う意味では、貴方でも十分に役に立ってくれましたわ、坂口専務さん」
走り去るリアウィンドウに向かい、翠が薄笑いを浮かべながら呟いた。
坂口の車が完全に見えなくなったとほぼ同時に、他の車に紛れて滑り込んで来た一台の車が翠の前に停車する。
運転席から半身を降ろして顔を見せたのは、サングラスをかけた朗であった。朗が促すと、翠は車の後部座席へと乗り込む。
「……印象はどうでした?」
車をスタートさせながら朗が訪ねると、
「……大体、予想通り」
完全に遮蔽幕を貼られた後部座席でメガネを外した翠は、つけ毛やスーツを脱ぎ捨て、用意されていた服を身に着けた。
「……会話、聞いてたんでしょ?」
「……ええ、半分くらいは。……ただ、隣の車がうるさくて」
「……ふーん」
心ここに在らずで答えた翠は、着替え終えるとほとんど無理矢理、と言った体で後部座席から助手席に移動した。
「……お腹空いた」
呟いた翠の顔を朗がチラリと見遣る。
「……服の処理もしていないのに、途中で寄るのは無理ですよ」
「わかってるよ」
不貞腐れた顔で答える翠に、朗は溜め息をついた。
「……シチューでいいですか?……クリーム味ですが…」
「……ん?」
翠が運転している朗の横顔に視線を向ける。
「……昨日の夜、作っておきました。ただし、あとはパンしかありません」
諦めたように言う朗の首に、翠は横からするりと腕を回した。
「……翠……!運転中です……!」
朗が慌てて窘めるも、翠は聞く耳など持ち合わせていないかのように身を寄せる。さらに、座席の間にあるセンター部分など気にもせずに朗の腿の上に頭を乗せ、横倒しになって下から顔を見上げた。諦めた朗の口から更なる溜め息が洩れる。
「……脚、動かしますよ」
脚に乗っている翠の頭を気にしながらも、朗はアクセルとブレーキを操り、車をマンションの駐車場へと滑り込ませた。
エンジンが切れたと同時に、起き上がった翠が、再び朗の首に腕を回す。
「ほら、翠……!着きましたよ。お腹が空いてるんでしょう?」
首にしがみ付いている翠を、何とか引き剥がそうと朗が難儀していると、
「うわっ!」
いきなりシートが倒れた。翠がレバーを引いたのだ。
「お腹空いてるけど、こっちが先」
そう言ってふわりと笑い、下敷きにした朗のサングラスを捥ぎ取りながら口づける。
その一角だけが、心の死角でもあるかのようなひと気のない駐車場。その片隅に止まった車。
その中だけが、ふたりの世界であるかのように狭く、そして無限に広い。