声をきかせて〔第2話〕
仕事上がり、ぼくは最寄り駅の前で片桐課長を待っていた。
定時を少し過ぎた頃、課長からもう抜けられるとのメールが入ったので、ぼくも仕事を切り上げ、合わせて会社を出た。課長とのサシ飲みは本当に久しぶりだ。
いくらも経たないうちに、道の向こうに課長の姿が見えた。ぼくに気づくと手を振りながら近づいて来る。
「悪い。待たせたな」
「いえ、ぼくも来たばかりです」
「相変わらずの優等生な返事だな」
皮肉にも聞こえそうなものだが、課長が言うと、どこか親しみを感じてくれているように聞こえるから不思議だ。笑顔で駅の改札の方に足を向ける。
「ここから3駅行ったところだ。小さい店だし、評判が良くて、いつも人がいっぱいらしいんでな。昼間、予約しといた」
課長はそう言いながら先に改札を通った。
課長が連れて行ってくれた店は、聞いた通り小じんまりとした、でも雰囲気のいい居酒屋だった。いや、どちらかと言えば小料理屋に近いかも知れない。
裏道の途中、知らなければ通り過ぎてしまうようなひっそりとした佇まいの店なのに、中に入るとほぼ満席だった。とは言っても席数自体が少ないのだが。
課長の顔を見た店主らしき人が、
「いらっしゃい」
嬉しそうに頷き、仕切りで半個室のようになっている奥まった席を指し示す。
席に着くとすぐに、店主自らお絞りを持って注文を取りに来てくれた。
「ビールでいいか?」
課長の問いに頷くと、
「じゃあ、生を二つと……あと今日のオススメ料理をお任せで。藤堂、好き嫌いなかったよな?」
「はい。何でも戴きます」
ぼくの返事を聞いた店主は嬉しそうに頷き、厨房に戻って行った。
ぼくが店の中を見回すと、課長がこちらを見てニヤニヤしている。
「小さいけど、結構、凝った造りだろ。こう言う建物、味があっておれは好きなんだ」
店内は、太い木の柱や梁が和風の様相を感じさせるが、ところどころモダンな雰囲気も見える。また天井を高くとることで、小さい空間をより開放感のある造りに感じさせている。
「はい、本当ですね。ご店主の拘りを感じます」
そう言うと課長は嬉しそうに頷き、
「初めて来た時から気に入ってな。料理も旨いぞ」
お絞りで手を拭きながら、さらに嬉しそうに顔を綻ばせる。
「課長は……」
言いかけた時、
「はい、生、お待ち!」
店主がジョッキと小鉢を置いた。
「お!来た来た」
課長が嬉しそうにジョッキを持ち、ぼくの方に掲げたので、ぼくもそれに倣った。
「おつかれ!」
「お疲れさまです」
ジョッキを合わせて乾杯し、グッと喉に流し込む。
「ん!仕事上がりの一杯はうまい!」
そう言いながら、課長が小鉢の料理に箸を伸ばす。
「課長はこのお店を誰から教わったんですか?かなりわかりにくいですよね……ここ」
同じように小鉢に箸を付けながら訊ねると、
「ああ。欧州部の中岡……知ってるよな?彼の友人が酒類を取り扱っててな。ここにも酒を入れてもらってるんだ」
中岡先輩と言うのは欧州部・中央エリアの主担当。欧州部最年長で中心的な人物だ。
「中岡先輩は確か……」
「そう。おれの大学の後輩だ。まあ、当時はそんなに接点なかったんだけどな」
そう言いながら旨そうに生ビールを飲む。
それから今日の打ち合わせの内容について、課長の見解についていくつか質問していると、少しずつ料理が運ばれて来る。食べてはその美味しさに驚くぼくを見て、課長は嬉しそうにニヤニヤしている。
料理自体は取り立てて珍しい類いのものではないのだが、何とも言えない美味しさだ。ついつい酒も進む。
空きっ腹も少し落ち着いた辺りで、片桐課長が真面目な顔で切り出して来た。
「企画室の方は最近どうだ?」
突然の異動があったので、気にかけてくれているのだろう。
「突然の退職でしたからね。正直、焦りました。滞りなく続けられるのか自信なくなりましたよ」
課長は真剣な表情で聞いてくれている。
「だから今回の異動の人選は本当にありがたかったです。……とは言え、大変であることに変わりはないんですけどね」
苦笑いしながら言ったぼくに、
「確かにな。どこの部署だって大変なことに変わりはないが、特に企画室への異動となると、誰が異動したとしても桁違いに大変なのは間違いない。その中にあって、雪村さんの選択は正に最善だったとおれも思う。彼女の才媛ぶりは営業部でも有名だったからな」
その言葉に頷きながら、課長が昔の上司であることについ気が緩み、思わず心配事のことまで吐露しそうになってしまう。
「本当に、引き継ぎ書だけで完璧に理解してくれていて、ただただ驚くばかりなんですが……」
そこまで言って言葉を濁したぼくの顔を、課長は不思議そうに見つめた。
「どうした?何か心配事でもあるのか?」
思わず「しまった」とは思ったものの、管理職という立場にある課長の、客観的な意見を仰げる良い機会だと思い直し、自分が懸念していたことを相談してみることにした。
「実は……雪村さんの事務的な処理能力に関しては、本当に驚くくらい不安なことはありません。むしろ怖いぐらいなんですが……」
「まあ、そうだろうな」
ぼくは言葉を選びながら、
「心配なのは、彼女の極端な口数の少なさなんです」
課長は黙って顎に手をあて、仕事の時と同じ鋭い顔つきで聞いている。
「課長もご存知の通り、企画室は営業とは違った形で口が必要です。プレゼンやディベートを、外部の人間だけでなく社内の営業相手にも行なわなければなりません」
課長が小さく頷いているのがわかる。ぼくの懸念を理解してくれているのだろう。
「おしゃべりになれ……とまでは言いませんが、正直を言えば、もう少し声を聴かせてほしい……とも思います。これは物理的に、と言うだけではなく、意見とか質問とか雑談なども含めて、ですが」
ぼくは、いったん区切ってビールを喉に流し込んだ。
「企画室内での会話のことは、まあ、置いておいても、現段階での彼女を見ていると……その……ディベートなんかを望めるのか今ひとつ自信がないんです」
正直すぎたかとも思ったが、でも、それが今のぼくの本心だった。ところが、ぼくのそんな不安に対し、課長は思ってもみなかった言葉を口にした。
「ああ……そう言うことか。まあ、でも、それは心配ないんじゃないか?おれは、また、てっきり……」
課長がそこまで言ったところで、店主が声をかけて来た。
「片桐さん。お任せ料理はこれで終わりですが、あとどうします?」
すると、課長がぼくの方を見て確認してくれる。
「藤堂、腹は満足したか?」
「はい。もういっぱいです」
ぼくが頷くと、
「よし。じゃあ場所を変えよう。もう少しつき合えよ」
ぼくもまだ課長に訊きたいことがあった。さっき言いかけていたことも含めて。
「はい。今日はとことんご一緒させて戴きます」
ぼくの返事に、課長はヤンチャ坊主みたいな顔をする。
「その言葉聞いたぞ」
ぼくにそう言い放つと、
「すみません。あっちに移動します」
店主に意味不明な返事をした。
「了解」
さらに店主からも意味不明な返答。
……早まったかも知れない。
これからぼくはどうなるのだろうか。不安だ……
一抹の不安を感じながらも、ぼくが立ち上がって出口に向かおうとすると、
「藤堂、こっちだ」
課長が出口とは反対側の、ぼくたちが座っていた席よりさらに店の奥の方へと促す。不思議に思いつつ課長について行くと、そこにも扉がある。裏口だろうか。
……と言うか、会計はどうなっているんだろう。
そんな心配を口に出す間もなく、課長はその扉を開け、ぼくを扉の向こう側へと誘導する。
扉の外側に出て見ると、そこは中庭のようになっていて、少し離れたところに別の建物がある。その窓からは、暖かみのある淡く優しい光が漏れていた。
課長がその建物に向かって、敷き詰められた石畳の道を真っ直ぐに歩いて行くので、ぼくも後に続く。
通りながら思ったのは、今までいた店と同じように小じんまりとしてはいるが、よく手入れの行き届いた庭だと言うこと。季節によって楽しめるに違いない。ここもあの店主の拘りなのだろうか。
そんなことを考えながら課長の後ろをついて行くと、先ほどの店とは正反対の雰囲気を醸し出す洋風の建物。その入り口は暖かみと重厚感のある木の扉。
課長はその扉を開け、中に入るようぼくを促した。
扉の向こう側に足を踏み入れると、そこはバーになっていた。カウンター席の他には、小さなテーブル席が数席の小さな店。ぼくたちの他に客はいない。
「これは片桐さん。お久しぶりですね」
カウンターの中にいたバーテンダーの男性が嬉しそうに微笑む。課長の人気が男性からも高いことを、こう言う時につくづく認識させられる。同性から見ても、やはり魅力的な人柄なのだ。
ぼくをカウンター席に促しながら、
「いや、すっかりご無沙汰してしまって申し訳ない」
バーテンダーの男性に笑顔で挨拶をし、
「こっちは後輩で、我が社のエースでもある藤堂です」
課長にこそばゆい紹介をされ、ぼくは躊躇いがちにカウンター席に近寄った。
「はじめまして。藤堂です」
挨拶をすると、ぼくの顔をしっかりと見ながら、
「ようこそ。浜崎と申します。どうぞご贔屓に」
やわらかい微笑みを浮かべながら、丁寧に自己紹介の挨拶をくれた。
浜崎と名乗ったバーテンダーは課長の方を見やり、
「片桐さん。今日はまた魅力的な方とご一緒で……」
イタズラっぽく言う。
「おいおい、勘弁してよ。そう言うセリフは美女と一緒の時に言ってほしいな。いくら容姿端麗な藤堂とでも、男と同伴で言われたくないよ」
冗談なのか本気なのかわからない課長の言葉に、浜崎さんとぼくは笑いを堪えられなかった。
「そんなことを仰って。いつもお一人か男性連れで、美女をお連れ戴いたことなんてないじゃないですか。もったいぶってどこに隠していらっしゃるのか……今度、ぜひ紹介してくださいよ」
浜崎さんの言葉に、『まいった』と言うように頭を掻きながら苦笑いする。
「痛いとこを突かれたな」
課長はぼやきながら椅子に腰かけ、誤魔化すかのように、カウンターの後ろにズラリと並んだ酒瓶に目をやる。
「何になさいますか?」
クスクス笑う浜崎さんの言葉に、
「ん~ウィスキーにするかな」
つぶやくように言った課長に、
「昨日、スコッチの珍しいのが入ったばかりですよ」
「おっ。それは試してみたいな。じゃあ、それをロックで。藤堂、何にする?ここはワインなんかも置いてるぞ」
「じゃあ、せっかくなので課長と同じものを」
そう言ったぼくに、浜崎さんが気を利かせて訊いてくれる。
「少しスモークの香りが強いですが大丈夫ですか?」
「……たぶん。とりあえず、何でも挑戦してみる性質なので」
浜崎さんはそう答えたぼくに頷き、課長に向かって、
「昨日、佐田さんが持って来てくれたばかりなんですよ」
「へぇ~。佐田くん、元気そうでした?」
課長が嬉しそうに訊ねた。
「忙しそうでしたよ。まあ、『まいりますよ』なんて言いながら楽しそうでしたけどね」
二人の会話を聞きながら並んだ酒瓶を眺める。すごい種類の酒瓶は、眺めているだけで圧巻だ。
「あ、片桐さん。丸になさいますか?それとも角に?」
「そうですね。おれはどちらでも拘りはないけど……藤堂にも見せてみたいし、せっかくなのでひとつずつお願い出来ますか?」
「畏まりました」
二人の間で謎な会話が交わされ、再びそちらに意識が引き戻される。
ぼくが如何にも不思議そうな顔をしていたのか、
「佐田くんって言うのが中岡の友人なんだ。ここで何度か3人で飲んだこともある」
課長は、ぼくにとっては「そっちじゃありません」と言う方の答えをくれた。
「そうなんですか」
仕方ないのでそう答え、二人の会話の内容から直に謎は解けるのだろうと、種明かしまで待つことにする。
ふと、カウンター内に目を向けると、浜崎さんがグラスや瓶を手早く操っている。その手捌きは見事としか言いようがないくらい優雅で、思わず目を奪われた。普段、見慣れないものだけに興味をそそられる。
「どうぞ」
浜崎さんがグラスを2つ並べて置く。
「……!……すごい……!」
それを見て、ぼくは思わず感嘆の声を洩らしてしまった。正確にはグラス……と中身の両方に、だ。
片方のグラスには、ピッタリと丸く納まった、まるでミラーボールのように美しいカットの氷。もう片方には、これまたピッタリと四つの角が納まった氷。
あまりの見事さに驚くばかりだった。
「すごいだろ」
課長がまたニヤニヤしながら聞いて来る。まるで自分の手柄のように自慢気なその言い方は、本当にヤンチャ坊主のようだ。
浜崎さんが穏やかな笑顔を称えたまま、然り気なく軽いおつまみを出してくれ、ひとしきりの興奮が治まるまでに少し時間を要した。
~つづく~
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?