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里伽子さんの大して長くもない日〔前編〕

 
 
 
「……ワンピース……」

 その日、瞬きの止まった課長の第一声。

(え、やっぱりスーツじゃないとダメですか?)

 でも、今さら着替えるつもりはないけど。

 ……そう。今日は、片桐課長のご家族に挨拶に伺う日なのだ。

 課長のご両親は、現在都内でマンション暮らしなのだと言う。課長たち3兄弟が独立したのを機に、一軒家から住み替えたのだそうだ。

 確かにふたりだったらマンションの方が楽だろう。留守にすることも多いから、管理も楽なのだとか。

「素敵なマンションですね」

 あまり高さがなく、それほど大きな建物ではないけれど、こだわりが感じられるオシャレな外観だ。

「本人たちが決めた訳じゃなくて、勧められたらしいけどな」

 他人事みたいに課長が言った。いや、課長にとっては他人事と同列なんだろう。

 インターフォンを押す課長の斜め後ろに立っていると、『はい』と男性の声が返事。お父様だろうか?

「……おれ……廉です……」

『おお、来たか。今、開ける。……おーい。廉が来たぞ』

 開錠の音と共に、中にいる誰かに呼びかけている。たぶんお母様だよね。

「……里伽子」

 扉を支えた課長に促され、玄関に足を踏み入れた。マンションにしては広い玄関。奥からパタパタとスリッパの足音。そんなに背が高い訳ではないけど、スラリと見える女の人が出迎えてくれた。

「おかえり、廉」

「ただいま」

 少し斜めを向いた課長が、完全に身体の陰に隠れていた私を隣に促す。そんな事より、課長が『廉』って呼ばれてるところを初めて聞いた。何か微笑ましくて、顔が笑いそうになるのを堪える。

「……こちらが今井里伽子さん」

 端的な説明に、女性が私に目を向けた。

「はじめまして。今井里伽子と申します。本日は、お時間を作って戴きありがとうございます」

「まあまあ、何て綺麗なお嬢さん!はじめまして。廉の母です。いつも息子がお世話になって……単調でつまらない生活を送ってるとばっかり思っていたら、まさかこんな綺麗なお嬢さんを連れて来てくれるなんて……!」

 ……『単調でつまらない生活』って……情け容赦なくない?(かなり必死に働いてるのに)

「……単調でつまらなくて悪かったな」

 案の定、課長が苦笑いする。

「あらあら、こんな場所でごめんなさいね。どうぞ、こちらに」

 ……課長の様子なんて気にもとめない。奥に行こうとするお母様に、課長から手土産を急いで渡してもらった。

「ようこそ」

 陽当たりのよい、開放的なリビングに入ると、低音の穏やかな声が迎えてくれた。課長のお母様が、その男性の横に添って立つ。

「おお……これは美しいお嬢さんだ。はじめまして。廉の父です」

「はじめまして。今井里伽子です。よろしくお願い致します」

 背の高い渋い男性──それが課長のお父様の第一印象だった。全体的な雰囲気が、課長はお父様に良く似ている。並んで立つお母様と、本当にお似合いのご夫婦、と言う感じだ。

 ただ、こうして比べるとわかるのは、課長は目だけはお母様に似ている、と言うこと。人の心を見透かすような目。でも、それが決して嫌な感じではない。そこがまたすごく似ている。

「さあ、どうぞお掛けになって」

 お母様に勧められ、課長と並んでソファに腰を下ろした。素敵なカップでコーヒーを出してくださる。

「いやぁ、普段、連絡しても返事もそこそこのお前から、珍しく突然電話が来たから何事かと思えば……まさか、こんな綺麗な娘を持てる日が来るとはなぁ」

 課長のお父様はニコニコ顔だ。隣に座るお母様も頷いてくれている。しかし、ふたりの様子を観察しながら私は考えた。

(果たしてこれは……安心していい状況なんだろうか?)

 世間やドラマで良く聞く、油断していると課長がいないところでは豹変してチクチクされる展開、とか考えなくて大丈夫なんだろうか。

 課長のご両親がそんな人たちとは思えないけど、何しろ私は……基本が無愛想だ。今の顔は営業用の必死の笑顔なのだ。24時間、この顔でいる事は出来ない。

「そう言えば、廉……お前、またアメリカに行くんだって?」

「ああ……7月1日付で赴任の辞令が出たよ。だから急いでるんだ」

「私の海外赴任をあれほど面倒くさがったお前が、まさか似たような仕事……商社の海外営業部に勤めるとはなぁ」

 可笑しそうに、少し嬉しそうに言ったお父様は、今度は私に目を向けた。

「里伽子さん……こんな調子ですみませんね。早々に海外生活になってしまって……」

 とても申し訳なさそうに言う。

「……いえ、仕事柄、元々わかっていた事ですし……私も父の都合でアメリカにいた事もありますので……」

「おお、それは心強いな。本当に良いお嬢さんとご縁があったものだ」

 ……油断してはいけない。

「本当に、廉のどこを気に入ってくれたのかしら」

 課長の顔が微妙に不貞腐れているが、いつもの事だ、みたいに反論する様子はない。お母様の情け容赦なさは、普段からこんな感じらしい。

 ……らしいけど、乗せられたらダメよ、里伽子。

 ひたすらお口にチャックして、ひたすら口を滑らせないようにしていると、

「そろそろ、お食事にしましょう。用意するので、少し待っててくださいね」

 お母様が席を立った。

(こ、これは……!)

 どうするべきなのか……。

 余計な事はせずに、言われた通り待っているべきなのか。

 ここは手伝う姿勢だけでも見せておいた方がいいのか。

 課長の顔をチラ見するも、お父様と仕事の話で夢中になっている。意を決して「少し失礼します」とお母様の後を追った。

「……あの……(課長の)お母様……何かお手伝い出来る事はありますか?」

 キッチンで食器などを出しているお母様に声をかけると、ピタリと動きを止めたお母様。思わず私まで硬直する。そのまましばらく微動だにしなかったと思うと、ゆっくりと私を振り返った。

(……ま、まさか……)

 お母様は瞬きもしない状態で、何と言うのか……お面のような表情で私を凝視している。硬直したままの私の背中を、何となく冷たいものが流れて行くんですけど。

(……こここここれって、もしかして……)

 ……もしかすると私は地雷を踏んだのだろうか……(里伽子、早くもピンチ)。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 

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