『風に舞い上がるビニールシート』 (森 絵都)            ~危険地帯で闘う女とノーベル平和賞~


今年のノーベル平和賞は国連世界食糧計画(WFP)が受賞することになった。WFPは紛争地域において、飢餓に苦しむ人を支援し、紛争地域における平和に向けた環境の改善や戦争・紛争において飢餓が武器として悪用されないよう、それを予防するような活動を日々行っている組織だ。今年のノーベル賞は日本人の受賞者がいないのであまり騒ぎになっていないように感じるけれど、組織に贈られたこの賞に大きくかかわる一人の日本人女性がいる。

WFPのノーベル平和賞受賞をきいて、ずっと昔に買ったこの本を思い出さずにいられなかった。本が増えすぎた我が家でもこの本はしばらく本棚に鎮座していたのだけれど、ちょっと前にブックオフにいってしまったらしい。今は文庫本もでているので買ってきた。もう1度、どうしても読みたくて。

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2006年7月に第135回直木賞を受賞したこの作品。ネタバレになるが、高給取りの外資系投資銀行から収入は大幅ダウンする国連難民院高等弁務官事務所(UNHCR)の一般職に転職した里香という女性と、常に生死をさまよう危険なフィールド(現場)で、どう猛な風に簡単に吹き飛ばされるビニールシートのような存在の難民たちを救うべく戦い続けるエドのカップルの話。里香はエドと最終的には離婚し、エドはフィールドで命を落とす。測り知れない喪失感に襲われてなかなか立ち直れない里香は、取材に来た記者からエドの死の直前の様子を聞き、大きく心を揺さぶられて、東京事務所の一事務スタッフだからといって今まで断ってきた現地スタッフになることを決意。ボスに「アフガンに行きます」と告げるというシーンで終わる話だ。


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Kとは30年以上前に出会った。

同じ高校の同級生。背は高くないけれど、バスケ部で運動神経がむちゃくちゃよかった。出身は遠く九州。そしてU2が大好きで、住んでいた学生会館の2人部屋からはボノの歌声が聞こえた。高校2年の秋からKが住んでいた学生会館に入寮した私は、学校が同じで、顔と名前は知っていたKと仲良くなり、よくつるんで遊んでいた。

今は某大手警備会社の本社ビルがたつ場所にあった学生会館に住んでいた私たち。そこは、門限があって厳しいところだったけれど、一応門限は守りつつも、夜な夜な遊んでいた。


よくたまっていたのは、「クリスティ」という名前の紅茶専門店。観光地でもあり、田舎の中高生のあこがれの地である通りから一本路地にはいったところにたたずむ昔からやっている喫茶店。そこのトイレに近い一番奥の席に陣取り、門限ぎりぎりまでたむろっていた。今はなき「エル・ポヨ・ロコ」という名前のメキシカン料理の店でタコスを食べまくったり、神宮前小学校の隣にある細長い公園で、いい雰囲気でデートしている人たちの真横でそこにあったジャングルジムで鬼ごっこをして大騒ぎ。雰囲気をぶちこわしにするなどちょっとした悪ふざけをしていた。ダッシュで学生会館に戻って門限に間に合ってからも、なんだかんだいっては騒ぎ、共同スペースだった通称「リビング」でテレビが砂嵐になるまで話し込んで、次の朝は遅刻寸前で学校にいったりしていた。

Kがまともに勉強している姿をほとんどみたことがなかったが、頭はすごくよかった。高2の時、交換留学でアメリカに1年いった。その影響なのか、「日本の大学に行く気は全くない」といって、リビングのソファに寝っころがってTOFELやらSATの勉強をしていた。

そして日本の大学に入ることに必死になっていた私をはじめとする同級生を尻目にアメリカの大学に行ってしまった。

おふざけモード全開の一面があった一方で、Kはとても本質をついてくる人だった。10代から20代にかけて、自分はどんな進路を選択するかはかなり大きな人生の問題。あの頃の私は(そしてついちょっと前までの私もだけど)、ほんとうにやりたいことがよくわからず、他人から見た評価ばかり気にしていた。そして、失敗することが怖くてチャレンジすることをを恐れていた。そんなびくびくした自分を外に見せたくなくて、全然違う自分でいようとしていた。ほかの友達はそんな私の姿を知っていたのかどうかわからない。だけど、Kは確実に私のことを見抜いていて、それをズバリ指摘することもなく、1冊の本をくれた。ちょうど大学受験のころだったんだろう。

『ビッグ・オーとの出会い』(シェル・シルバスタイン作 倉橋由美子訳)

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シルバスタインは知る人ぞ知る人気の絵本作家。絵本といってもどちらかといえば大人向けの絵本。ビッグ・オーは「ぼくを探しに」の続編。シンプルな線だけで描かれた絵はとってもかわいい。そしてストーリーは単純だけれど深い。タイトルの本は大好きだったのにブックオフ行きにしてしまったくらいなのに、Kからもらったこの本は今も家にちゃんとある。

Kがアメリカの大学にいってしまっていたころ、1回だけ国際電話がかかってきたことがあった。そんなことはとても珍しくて、私は高校から大学にかけて詩のような、散文のようなものばかり書いてきたけれど、こんなふうに書いていた。

           ★      ★

君は今 日本にいない

ボストンは今 何時ですか

君とはもう1年以上あってないよね

この間の電話、とってもうれしかったよ。ありがとね。

でも、

いつもの君らしくなかったんじゃない?何かあった?

私は今、君が4年前にくれた絵本を読んでいるよ

”THE MISSING PIECE meets  the  BIG  O"

「ビッグ・オーとの出会い」

涙のしずくがね ぽたぽた落ちてね 絵本がよごれちゃったよ


君はあの頃の私に気がついてくれたのかもしれない

ひょっとしたらただ絵がかわいくてプレゼントしてくれたのかもしれない

でも私は、君という友達がいたことを感謝するよ

こんなにシンプルに私の状況を、そしてこれからを語ってくれた本はないよ


なんかあったら、一人でためこんじゃだめだ

いくら遠くにいてもあの頃と一緒だよ

姉妹のように、双子のように

遊んで、じゃれて、喧嘩して

表参道でカップルをからかって

U2を聞いて一緒にshoutして

午前3時にテレビがじゃーっとなって画面をぼーっと見つめながら話して

屋上で一緒に新宿の夜景をみてちょっとセンチメンタルになった

あの10代後半のころと同じ

同じ気持ち

同じ想い

どこにいても 君は 大切な友達


  ★      ★


Kが帰国するたびに、学生会館で仲が良かったメンツでご飯を食べたりお酒を飲みに行ったりしていたが、Kは「日本に戻ってきてコメを食べると調子が悪い」といつもいっていた。だから海外の水があっていたのかもしれない。

Kは意外にも大学卒業後、日本に戻ってきた。外資系企業に就職。英語はネイティブ並で、すんごい会社に就職した。年収も相当高い。でも、すぐにやめた。

「やっぱり国連で働きたいから」

といって、あっさり高給の仕事を捨てて、日本円にして月に生活費で5万ぐらいしか支給されないNGOのプロジェクトに参加するという。それもめちゃくちゃ治安の悪い南アフリカ。


国連で働くためには結構ハードルが高いらしく、彼女の話では海外の大学院を卒業しているかどうかとか、NGOなどでの経験があるかということが重視されるとのこと。

「え?やめちゃうの?年収10分の1ぐらいになっちゃうよ。しかも南ア、半端じゃなくやばいでしょ」といっても、全然きかず、「もう決めちゃったし」と言っていた。極めてKらしいなぁと思っていた。

南アにいったKは、メールを出してもあまり返事をくれなかったので、死んでいるのではないか?と思ったことが結構あった。当時はメーラーに日本語変換機能がなくて、読めなかったみたい。たまにくる返事が全文英文で翻訳に困った記憶がある。今でも毎年だいたい欠かさずにくるクリスマスメールは、友人に一斉配信するためだと思うが英文。久しく英文なんて読まないドメスティックな私は、毎回一苦労している。

KがボランティアスタッフとしてNGOで活動し始めたころには、私は宇都宮に戻ってきていたので、Kが帰国したという知らせを受けると、上京して再会するということを何度か繰り返してきた。結婚して子供が生まれてからは、すっかり出不精になり、同級生たちとはだんだん会う機会が減っていき、Kともなかなか会えなくなった。

8年前、東日本大震災の1年後、Kは一時帰国した。わざわざ宇都宮に来てくれたのは、「今年ほど、Kに会いたいと思った年はなかったよ。」と震災後に送ったメールに応えてくれたからだと思う。私は震災後、日本はひどい状況だと思っていた。

Kはいつもどこにいるのかがわからないので、会ってまず最初に「今どこで何してんの?」という質問をするのが常だった。その時にKに質問したところ、「アフガニスタン」という答えが返ってきた。南アの次はモザンビーク、スーダン、そしてアフガン。彼女はPKO(国連平和維持活動)が展開されるような地域にしかいっていない。よく聞けば、「だって、PKOのプロジェクトで国連に入ったから」とのこと。だいたい2年サイクルで異動になるらしい。「次はソマリアかなぁ~」と軽くいっていた。

「何やってんの?」と聞くと、貧困層のひとたちにフードスタンプを配るプロジェクトをやっているとのこと。夢をかなえたのはいいけれど、彼女の生活はいつも死と隣り合わせだ。かつて南アに行っていたときの話では、「弾丸が1m隣を飛んでいった」とかすごい熱病でずーっと寝込んでいたとか危ない話をニコニコしながら言う。

やばい国ばかりにいっている彼女に「どこが一番危険なの?」と聞いたところ、「間違いなく今のアフガン。だって、移動手段は『装甲車』だし。今回も迎えの装甲車が来られなかったらドバイで待機だよ。」アフガンの次はヨルダンになり、「ヨルダンは平和だよ~」といっていたのがその翌年。そのあとはシリア。シリアの様子はネットにも掲載されているし、見られなかったけど、テレビでも放映されたようだ。

毎日育児と家事と仕事とその他もろもろで、目の前の日常にしか意識が向かなくなっていた私は、すっかり国際情勢に疎くなっていたけれど、彼女がいっていたアフガンが限りなく危険なことはニュースで知っていた。震災があっても、日本はとてつもなく平和だと彼女の眼にはうつったに違いない。日常的に「死」が迫りくる彼女が生活するアフガンより、断然ましたったのだろう。淡々とアフガンのすごい世界を話す彼女を見てそう思った。当たり前が当たり前でないことは、彼女はよく知っている。

一緒に餃子の正嗣で餃子ライスを食べて、自宅で子供たちと遊び、3時間ちょっとで帰国の路についたK。とけちゃってもいいから持って帰りたいといっていた冷凍餃子は手荷物が重量オーバーになるため、もって帰らなかった。現地のものはおなかにくるらしく、あんまり食べられないともいっていた。シリアではどうだったんだろう。

彼女と再会できるのは、決して当たり前のことではない。
毎回、Kと別れるたびに思ってきたのは、縁起でもない話だけれど、「ひょっとしたら最後になるかも」ということだ。何も戦闘部隊が展開するようなところを職場にすることはないとも思う。それでも何かに突き動かされて、小柄な体を張って、貧しい人たちのために危険地帯で働くのが彼女の彼女たるところなのだと思う。そんな彼女だから大好きで、とてもとても大切な友達で、だから危険地帯に本当はいってほしくなかった。でも、それでは彼女は彼女でなくなってしまう。

だからいつも、送り出す時には心の中で叫んできた。

『絶対に戻ってきて。また会おう。』


初めて会ってから30年以上が過ぎた。学生時代と25、6の頃を除くと、本当にたまにしか会えなかったが、いつも心の片隅にKがいる。今FBとかでつながっているわけではないし、メールもほんとにたまにだった。それでも、確実にいつもそばにいた。

辛い時、空を見上げて思ってた。この空のずっと向こうにはKがいる空が広がっていて、その下にはたくさんの戦闘や貧困や悲しい出来事がたくさんある。毎日食べ物に困って生死の狭間をさまよってる人たちがいっぱいいるんだろうと。食べるものもあって、安心して眠れて、それだけだってありがたいことなのだ。ありがたいは有り難しからきている。当たり前じゃなく幸せなことなんだ。だからゆっくりでいいから、つらいってばっかり思っていないで、少しずつ前を向こう。そう思わせてくれたのが、めったに会えないけど、いつも心のどこかにいてくれたK。

彼女の所属する組織が大きな賞を受賞した。とてつもないことだと思う。心から嬉しく、誇りに思う。世界中から評価されることはとってもうれしい。

ただ、一番の願いはいつでも「生きて、また会おう」。

そして心から願う。Kが活躍しなくてすむ世界が広がることを。世界はそれとは逆の方を向いていて、分断と争いが激しくなりつつある。だから、今年、ノーベル平和賞がこの組織に贈らることになったのは大きな意味と価値がある。地味だけど生死をかけてたくさんの現地スタッフが、飢餓と貧困に苦しむ人たちのために闘っている。


また8年がたつよ。

コロナで往来が難しい世の中になってしまった。

きっとまた会えるよね。その時は、もうあの頃の駅舎はないけれど、原宿で会おう。

おめでとう。かよ。

そしてほんとうにありがとう。会えなくてもずっとそばにいてくれて。

https://www.jawfp.org/lp/general/sp/?gclid=EAIaIQobChMInZbGgIWr7AIVB66WCh1xmQwqEAAYASAAEgI75vD_BwE


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