村上春樹を読む
やっと村上春樹を読むことができた。
いままでも「1Q84」などは読んだことには読んだがその「何か」が自分にはまったくわからなかった。この前ふとタイムラインに流れていた映画(ドライブ・マイカー)の原作が村上春樹だと知り、なんとなくフッサール現象学や倫理学のお口直し的なイメージでKindleで買ってみた。
「ドライブ・マイカー」自体は短編集の中にはいっている短編で、どうってこないやりとり、が続く作品だ。でも不思議と最後まで読めた。そして「何か」に触れた感じがした。「ドライブ・マイカー」には羊男も出てこない。そこにあるのはただ流れである。その流れにそっと手をいれたときに、自分がいままで触れたことないものに触れて、そして、流れが自分が手をいれたことによって、二つに別れて、また合流するのを眺めていく。この物語は私が読まなかったら、この流れだったのか、ということが想起される。
これこそが人類の「地下2階」と平川克己さんが言っていた人類共通の体験なのかもしれない。そのまま「色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。流し読みなのか、流れに身を任せたのかわからないけど、そのまま読めた。そして気持ちがよかた。私もどこかで巡礼が必要だとおもっていたし、巡礼を時間的に先取りをした、もしかしたら自分の巡礼の可能性の世界にはいったのかもしれない。
自分を取り巻く流れに身を任せること、その流れで起きていることを感じられることが成熟ならば、村上春樹は成熟を要求する作家なのではないだろうか。彼の可能性をまたどこかで読むと思う。必要があるならば。
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